スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

生還&リューウェルツの誤解

2016-01-23 19:13:04 | 歌・小説
 漱石とドストエフスキーは共に珍しい経験をしています。少なくとも漱石の認識のうちではそうでした。漱石のドストエフスキー評二律背反になっていることのうち,漱石がドストエフスキーを好意的に評している理由のひとつに,この体験への共感があったかもしれません。
                                   
 ドストエフスキーは1849年に秘密集会に出席していたところを逮捕され,11月に銃殺刑を宣告されました。翌月,その刑が実行される直前に特赦文が読み上げられ,懲役4年の後に兵役に服務と減刑されました。この減刑はもとより決まっていたもので,執行直前に知らされたのは茶番であったとみていいと思います。ですがドストエフスキー自身からみれば,死の瀬戸際で生きることを許されたことになります。表向きだけだったかもしれませんが,ドストエフスキーの転向の最大の理由は,この出来事にありました。
 漱石は1910年8月に,療養中であった修善寺で数度の大量吐血。医師も生命に危険があると判断した状態でしたが,数日間の昏睡の後,目を覚ましました。こちらは病気という死の瀬戸際から,生の側へと帰還を果たしたのです。
 つまり死に等しい状況から生還したという経験がふたりにはありました。そして漱石はこの点において,ドストエフスキーに共感していました。漱石はこの経験をドストエフスキーと共有できるという意味において共感していたと考えてよいと僕は解しています。
 漱石は『思い出すことなど』の中で,この共感について触れています。それ自体は詩と散文ほどの違いがあるといわれています。それでも漱石は,自分が大患による危篤状態から意識を取り戻したときのことを思い出すごとに,ドストエフスキーを連想せずにはいられなかったようです。

 リューウェルツゾーンがハルマンに語ったところによれば,『聖書解釈者としての哲学Philosophia S. Scripturae Interpres』をハルマンに見せるときに,この著者はスピノザの学説の原理を把握していたと説明したそうです。このこと自体は誤りではないと思います。後に紹介しますがマイエルLodewijk Meyerは哲学的な質問をスピノザにしていて,スピノザもそれに答えています。その内容は高度なものといってよく,そのような質問をすることができたということ自体,マイエルがスピノザの哲学の原理を理解していたことの証明になると思うからです。しかしスピノザは理性ratioは聖書の解釈者たり得ないと考えていたのであり,これはマイエルとは見解opinioを異にしています。『聖書解釈者としての哲学』を見せるにあたってこのような説明をしたのだとすれば,リューウェルツゾーンはこの点に関しては誤っていたとみなすのが自然であると思います。
 さらにリューウェルツゾーンは,すべての人がこの著作のようにスピノザをよく理解してくれればいいと,見せた後で言ったとハルマンは報告しています。この著作とはもちろん『聖書解釈としての哲学』のことです。ということは,リューウェルツゾーンはこの本の内容がスピノザの学説に一致すると思っていたのは間違いないでしょう。こうした見解は父であるリューウェルツJan Rieuwertszももっていたのではないでしょうか。ハルマンはこの本を四半折の書物と紹介していて,おそらく合本として発刊されたものとは違っていたものと思われます。ですが合本で発行するという判断はリューウェルツが下したとみるのが妥当でしょう。また,親子の間でスピノザとマイエルに関わる会話がなかったと考えるのは不自然です。やはり総合的に考えると,リューウェルツゾーンが犯していた誤解は,リューウェルツも共有していたとみるのが妥当な判断ではないでしょうか。
 では,スピノザは『聖書解釈者としての哲学』を読んでいたでしょうか。これについては読んでいた可能性が高いと僕は考えています。マイエルとスピノザの親しさから考えたなら,イエレスJarig Jellesがそうしていたように,出版する以前にスピノザに読んでもらい,講評を求めた可能性すらあるのではないかと思います。
コメント
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