カーンの雑感⑤の最後のところでいった事情を,①でいっておいたことの繰り返しになる部分も含め,詳しく説明しておきます。
馬場が日本プロレスを辞めたのは1972年です。このときもカーンは馬場についていきたかったと思っていたのでしょうが,吉村道明の付き人であり,その吉村は日本プロレスに残ったので,一緒にいくことができませんでした。もしもこのとき,カーンが吉村と馬場の両者に,自身の本心を伝えていれば,カーンは円満に日本プロレスを退社し,全日本プロレスの設立時に合流できたのではないかと推測されます。吉村の付き人だから行くことができなかったというのは,カーン自身の気持ちであり,おそらくカーンは自分が付き人としてついているレスラーに忠誠を尽くすべきだという考えをもっていたのでしょう。
吉村は1973年3月にプロレスラーを引退しました。この時点で日本プロレスは消滅の危機にあり,そのことをカーンも承知していました。そこで引退する吉村に対し,日本プロレスがなくなるのであれば,吉村の引退後には全日本プロレスにいこうと思っているということを伝えました。ただし吉村がそのときにどのような反応をしたのかはカーンは話していません。一方,カーンはこの時点で,馬場とコンタクトを取り,日本プロレスが潰れてしまったら,全日本プロレスに移籍したいと打診を入れていたそうです。馬場の方も喜んでいたそうですから,受け入れる気があったということでしょう。ところが吉村の引退後も日本プロレスは延命し,それに伴ってカーンは坂口征二の付き人になったので,日本プロレスの崩壊後も,坂口に連れられて新日本プロレスに入団することになりました。つまりカーンは吉村だけでなく,坂口にも忠誠を尽くし,また日本プロレスという会社にも忠誠を尽くしていたことになります。
もしも吉村が日本プロレスの崩壊をもって引退していたら,逆に日本プロレスがもう少し早く崩壊することになっていれば,カーンはおそらく全日本プロレスに入団していたでしょう。そうしたちょっとした時間の差が,カーンの運命を分けた面があったのです。
ここでは神の観念idea Deiというのを多角的に探求しています。ですからそれを二様に解釈するだけで十分なのかという点では微妙な面があります。しかしこうした批判を畠中の訳注に向けることはあまり適切ではありません。というのも畠中は,ここでの考察とは異なった観点から神の観念を区分しているからです。僕の探求は,神の観念といわれるときの観念対象ideatumは何であるのかという観点から進められています。しかし畠中はそれとは異なり,いわば観念の主体subjectumとでもいうべきものによって,神の観念を二様に解釈しているのです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4a/34/4b18a4c69b7b8b185d0654eefd7f1357.jpg)
この説明から,畠中の区分というのがどのようなものであるのか,おおよその予測はできるだろうと思います。すなわち畠中の区分は,神に関して人間の精神mens humanaが有する観念と,神が自己自身に関して有する観念です。いい換えれば,ある人間の精神のうちにある神の観念と,神の知性intellectusのうちにある神の観念という区分です。なお,この訳注は第一部定理二一の論証Demonstratioでスピノザが神の観念といっているときに付せられているものですが,この場合は後者に該当すると畠中はいっています。この証明Demonstratioから神の観念の観念対象を類推するなら,神の観念と無限知性を同一視することができるということはすでに考察済みです。畠中がそのような類推をしているかどうかは確定できませんが,ここに訳注が付せられているということを重視すれば,畠中は少なくとも神のうちにある神自身の観念を,無限知性と解している可能性が高いのではないでしょうか。
畠中の区分は畠中の区分でとても意義深いものだと思います。そしてこれは同時に,神の観念の観念対象が何であるのかという考察とも関連してきます。ただ,畠中の区分は神の観念の主体というべきもの,すなわち神の観念の主体が人間であるのか神であるのかという区分ですから,どこにその意義深さを僕が感じるのかということをいう前に,別に考察しておきたいことがあります。そしてその大前提として,畠中は神の観念をこのように区分することが可能であると考えているのですから,区分されたふたつの神の観念は,当然ながら異なった神の観念であると考えているという点に注意してください。
馬場が日本プロレスを辞めたのは1972年です。このときもカーンは馬場についていきたかったと思っていたのでしょうが,吉村道明の付き人であり,その吉村は日本プロレスに残ったので,一緒にいくことができませんでした。もしもこのとき,カーンが吉村と馬場の両者に,自身の本心を伝えていれば,カーンは円満に日本プロレスを退社し,全日本プロレスの設立時に合流できたのではないかと推測されます。吉村の付き人だから行くことができなかったというのは,カーン自身の気持ちであり,おそらくカーンは自分が付き人としてついているレスラーに忠誠を尽くすべきだという考えをもっていたのでしょう。
吉村は1973年3月にプロレスラーを引退しました。この時点で日本プロレスは消滅の危機にあり,そのことをカーンも承知していました。そこで引退する吉村に対し,日本プロレスがなくなるのであれば,吉村の引退後には全日本プロレスにいこうと思っているということを伝えました。ただし吉村がそのときにどのような反応をしたのかはカーンは話していません。一方,カーンはこの時点で,馬場とコンタクトを取り,日本プロレスが潰れてしまったら,全日本プロレスに移籍したいと打診を入れていたそうです。馬場の方も喜んでいたそうですから,受け入れる気があったということでしょう。ところが吉村の引退後も日本プロレスは延命し,それに伴ってカーンは坂口征二の付き人になったので,日本プロレスの崩壊後も,坂口に連れられて新日本プロレスに入団することになりました。つまりカーンは吉村だけでなく,坂口にも忠誠を尽くし,また日本プロレスという会社にも忠誠を尽くしていたことになります。
もしも吉村が日本プロレスの崩壊をもって引退していたら,逆に日本プロレスがもう少し早く崩壊することになっていれば,カーンはおそらく全日本プロレスに入団していたでしょう。そうしたちょっとした時間の差が,カーンの運命を分けた面があったのです。
ここでは神の観念idea Deiというのを多角的に探求しています。ですからそれを二様に解釈するだけで十分なのかという点では微妙な面があります。しかしこうした批判を畠中の訳注に向けることはあまり適切ではありません。というのも畠中は,ここでの考察とは異なった観点から神の観念を区分しているからです。僕の探求は,神の観念といわれるときの観念対象ideatumは何であるのかという観点から進められています。しかし畠中はそれとは異なり,いわば観念の主体subjectumとでもいうべきものによって,神の観念を二様に解釈しているのです。
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この説明から,畠中の区分というのがどのようなものであるのか,おおよその予測はできるだろうと思います。すなわち畠中の区分は,神に関して人間の精神mens humanaが有する観念と,神が自己自身に関して有する観念です。いい換えれば,ある人間の精神のうちにある神の観念と,神の知性intellectusのうちにある神の観念という区分です。なお,この訳注は第一部定理二一の論証Demonstratioでスピノザが神の観念といっているときに付せられているものですが,この場合は後者に該当すると畠中はいっています。この証明Demonstratioから神の観念の観念対象を類推するなら,神の観念と無限知性を同一視することができるということはすでに考察済みです。畠中がそのような類推をしているかどうかは確定できませんが,ここに訳注が付せられているということを重視すれば,畠中は少なくとも神のうちにある神自身の観念を,無限知性と解している可能性が高いのではないでしょうか。
畠中の区分は畠中の区分でとても意義深いものだと思います。そしてこれは同時に,神の観念の観念対象が何であるのかという考察とも関連してきます。ただ,畠中の区分は神の観念の主体というべきもの,すなわち神の観念の主体が人間であるのか神であるのかという区分ですから,どこにその意義深さを僕が感じるのかということをいう前に,別に考察しておきたいことがあります。そしてその大前提として,畠中は神の観念をこのように区分することが可能であると考えているのですから,区分されたふたつの神の観念は,当然ながら異なった神の観念であると考えているという点に注意してください。