スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

虚偽&病理

2021-05-13 19:20:45 | 哲学
 僕はこのブログでは虚偽と誤謬を分けています。分けた方がスピノザの哲学を説明するのに便利だと思いますし,正しく理解できると思っているからです。しかしこれはあくまでも僕が便宜的に分けているものであって,『エチカ』の中で明確に定義づけられているわけではありません。なので改めて,そこにどのような区別をしているのかということではなく,僕が何を虚偽falsitasといいまた何を誤謬errorというのかということを詳しく説明しておくことにします。
                                   
 スピノザの哲学で真理veritasというのは,真の観念idea veraの総体のことをいいます。真の観念は本来的特徴denominatio intrinsecaからみられれば十全な観念idea adaequataのことを意味しますから,十全な観念の総体が真理であるといっても同じことです。僕はこの真理の反対概念のことを虚偽といいます。よって,真の観念の反対概念は誤った観念idea falsaであり,誤った観念は本来的特徴からみられれば混乱した観念idea inadaequataですから,誤った観念の総体あるいは混乱した観念の総体のことを僕は虚偽といっていることになります。
 第二部定理七系の意味よって,神Deusのうちにある観念はすべて十全です。また第二部定理三二により真veraeです。よって,神のうちに虚偽はありません。そして第一部定理一五によりあるもののすべては神のうちにあるQuicquid est, in Deo estのですから,虚偽はありません。これはちょうど十全な観念と混乱した観念の関係が,有と無の関係を意味するということに対応します。つまり虚偽は無であって,存在するといわれるものではありません。
 もし虚偽があるといういい方をするなら,それは人間の精神mens humanaのような,有限なfinitum知性intellectusのうちにあります。他面からいえば,ある観念が有限な知性とだけ関連付けられる場合にあるといわれます。この意味において,僕は虚偽は無だけれども,虚偽があるといういい方をします。この点には十分に注意してください。
 人間の精神のうちに虚偽があるという場合,それは必ずしも否定的なことだけを意味するわけではありません。虚偽の積極性というものをスピノザは認めているからです。しかしこのことは,虚偽と誤謬が異なったものであるがゆえに成立するという面がありますので,後の誤謬を詳しく説明するときに触れることにします。

 スピノザの哲学でいう意志作用volitioは,観念ideaが観念である限りにおいて含んでいる肯定affirmatioあるいは否定negatioです。近藤のいい方に倣うなら,同意あるいは不同意です。そしてこの肯定ないし否定,あるいは同意ないしは不同意は,すでにその人間の精神mens humanaのうちにある肯定および否定,あるいは同意および不同意の連鎖がどのようになっているかによって決定されます。これが,人間の精神のうちに新しい意志作用が発生するときの原因causaと結果effectusの連鎖です。したがってある意志作用は,別の意志作用によって決定されるのであり,人間の精神の自由な決意decretumによって決定されるのではないということになるのです。
 「自由意志と目的論の帰趨」の中で,第二部定理四九備考に直接的に関連する事柄についての考察はこれですべてです。しかし,事前にいっておいたもうひとつの点の考察に入る前に,意志作用は自由な決意によって決定されるのではなく,人間精神のうちにある意志作用との関係で必然的にnecessario決定されるということについて,関連する考察をします。というのはこのことは,現代社会が抱えている病理というべきある現象と,大きな関係をもっている,あるいはそうした現象がなぜ生じるかということと説明することができると僕は考えているからです。その病理的な現象というのは,いわゆる陰謀論といわれるような現象です。
 人間の精神のうちにはいくつもの観念があって,それらの観念のすべてが何らかの肯定や否定,あるいは同意や不同意を含んでいます。一方で,人間の精神は思惟の属性Cogitationis attributumの個物res singularis,すなわち有限なfinitum様態modiですから,いくつもの観念があるといっても,その数には限りがあります。いい換えれば自然Naturaのうちにあるすべての事柄についての観念が,現実的に存在する人間の精神のうちに存在するということは不可能です。このことから分かるように,現実的に存在するある人間,たとえばAとBが存在するとして,AそしてBの精神の現実的有actuale esseを構成していない新たな観念Xが生じるとき,Aはそれを肯定あるいは同意し,Bはそれを否定あるいは同意しないということが生じ得ることになります。なぜならAの精神の現実的有とBの精神の現実的有は異なるからです。
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