スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

無能な作家&第二部定理四四系二と第五部定理二三の関係

2016-02-27 19:27:14 | 歌・小説
 『虐げられた人びと』の内容に関わる難点と僕に感じられたのは,おおよそ次のような事柄です。
                                    
 長いこと別の話と感じられたネリーとナターシャの物語は,マスロボーエフの登場によってひとつの物語へと収斂していきます。
 物語の開始時点ではすでに死んでいるネリーの母親はかつて男に捨てられることによって困窮した生活へと追い込まれました。その男がネリーの実の父親ということになります。ですがこの男は裕福であるにも関わらず,ネリーたちに金銭的援助をしませんでした。それどころか収奪したといっていいくらいです。
 ナターシャが愛しているのはアリョーシャですが,アリョーシャの父親はこの恋愛を好ましいものと思わず,ふたりの仲を引き裂くべく手練手管を用います。ただそればかりでなく,収奪することに躍起になっているといっていいでしょう。そしてこのアリョーシャの父親こそがかつてネリーの母親を捨てた男なのです。後にイワンに対して「おのれ自身を愛せ」と言うことになるワルコフスキーです。
 ただ,マスロボーエフははっきりとそうイワンに告げるのではなく,それとなく示唆するのです。たぶん読者はその時点でこれを理解できる筈です。ところがイワンはそれに気付くことができず,物語の最後の方でようやく事の真相を理解するのです。
 イワンは作家です。華々しくデビューしたもののその後は鳴かず飛ばずでしたから,有能な作家ではなかったのでしょう。とはいえ作家ともあろうものが,大抵の読者であれば理解するであろうマスロボーエフの仄めかしの意味を想像できないというのは致命的に無能だと僕には思えます。マスロボーエフのことばでいえば,イワンは見事に一杯食わされた結果になっているのです。その無能な作家の手記を読者は読んでいるということになるのです。これではこの作品が上質のものではあり得ないだろうと僕には思えました。

 共通概念が現実的に存在する人間の精神のうちにのみ生じ得る概念だということと,スピノザが共通概念による認識と等置している理性による事物の認識に,第二部定理四四系二により永遠の相の下にその事物を認識することが本性に属しているということは,それ自体で矛盾を孕んでいるとは僕は考えません。まず現状の考察の主旨の方を重視して,第五部定理二三との関連でこれを説明します。
 第二部定理四四系二は,事物を永遠の相の下に認識することが理性の本性に属していなければならないということを主張しています。ですがすでに説明したように,事物を永遠の相の下に認識することがその本性に属していなければならない認識というのは,理性による認識に限られないというのが僕の見解です。もしも理性による事物の認識が,現実的に存在している人間の精神のうちにのみ生じる観念であるとしたなら,この観念はその人間の精神が現実的に存在することを停止すれば,いい換えればこの人間が死んでしまえば,それと同時に持続することを停止してしまうという可能性を考えておかなければなりません。現実的に存在するある人間の精神が持続を停止するということは,その人間の身体が持続を停止するということと同じです。よってこの観念は,論理的可能性として人間の身体と共に破壊される観念の方に分類されなければなりません。つまりこの場合にはこの観念は第五部定理二三でいわれている,身体と共に完全に破壊されないもの,その証明でいわれているあるものaliquidであるということはできません。
 だから,もしも永遠の相の下に事物を認識することが理性だけの本性に属するのであると仮定するなら,あるものといわれているものは存在することが不可能であると結論しなければならない余地があるのです。いい換えれば第二部定理四四系二と第五部定理二三は両立し得ないと結論しなければならないでしょう。しかし僕の考え方からすれば,そのような結論を出す必要はないということは明らかだと思います。なぜならそれらが両立し得ないということの前提となっている仮定の部分を,僕ははっきりと否定しているからです。よってこの考え方は,この点においては矛盾を含んでいない筈です。
コメント
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