小説という作品に入ることと出ることというのは,小説の作者についてもいえますし,読者についてもいえます。いい換えればふたつの観点から考えることができます。しかしこれだけではなく,もう少し複雑な観点があります。というのは小説の構造として,作品の登場人物がそれを書いているという形式,登場人物のひとりが作品内作者になっているものがあるからです。夏目漱石でいえば『彼岸過迄』や『こころ』,ドストエフスキーなら『虐げられた人びと』や『悪霊』がこれに該当します。この場合はその作品内作者が中に入っているわけですから,その作者が外に出るという観点が含まれることになります。
しかしこのような小説は形式がそうなっているというだけであり,実際には作品内作者を設定している作者がいるわけです。すると,作品内作者の作意と,作品内作者を設定している作者の作意が異なってしまう可能性があります。なのでこのような作品の場合は,中立的な外界ということの意味も多重になってきます。
『虐げられた人びと』は作品内作者が明らかに無能な作家になっています。これはそれを書いているドストエフスキーの作意が大きく影響しているのであって,作家が鋭敏な推理力や想像力をもっていない方が,物語としてはダイナミックになるだろうと考えているわけです。いい換えればその作意が僕がいうこの作品の失敗の原点になっています。したがって,『虐げられた人びと』を書くにあたって,ドストエフスキーは小説の世界に入り込みすぎてしまったという見方ができるでしょう。
『悪霊』も僕には明らかな失敗が含まれているとみています。それは作品内作者である記者が知り得ないことまで知っているという前提で書かれている部分が含まれているからです。この場合は作意とは別の問題といえるかもしれませんが,やはりドストエフスキーが物語の中に入りすぎてしまっているといえるでしょうし,逆に作品内作者という設定を重視するなら,登場人物としての記者が,物語の外に出すぎてしまっているともいえるでしょう。
『はじめてのスピノザ』の読者として想定されるような人に対する意義は,僕にはふたつあると思いますので,順に説明していきます。
まず,神Deusが最高に完全summe perfectumであるのであれば,神の外から神を駆って神に何かをさせるようなものは何も存在しません。これは神の外には何もないということを同時に意味していて,したがって神は内在的であるという結論とも関係するのですが,そのことは想定される読者にとっての意義とはいえないと僕は解していますから,ここでは詳しく説明しません。ここではこのことを神の側からみてみます。すると,神は何かのために何事かをなすことはないということが出てきます。なぜなら,たとえば神がある事柄のために何かをなすなら,神はその事柄のために存在することになりますから,その事柄は事実上は神の外から神を駆って神に何かをさせるものであるといわなければならないからです。よって,神の外に何か目的finisがあって,その目的に合致するように神が何かをなすことはないのです。
このことは根本的には目的というものは神のうちにあるものではなく,人間が想像の下に拵えたものであるということになります。これはこれで重要です。スピノザが原因causaというのは起成原因causa efficiensであって,目的原因causa finalisではないということなどはこのことから帰結するといえるからです。しかしここで僕がいいたいのはそのことではなく,神が何かの目的のために働くagereということはないということ自体です。つまり,神が完全であるためには神が何らかの目的のために働いてはならないのであって,このことは『はじめてのスピノザ』の読者にとっても,逆手に取られたと感じる場合があると思うのです。
たとえば,神は善意をもってすべてのことをなすと仮定してみましょう。この考え方は,善bonumという目的がまずあって,その善のために神が働くといっているのと同じです。つまり神の外に善があって,その善が神を駆って神に善をなさせるといっているのと同じなのです。ですからこういう主張をするなら,最高に完全なものとしての神は存在しないというか,神は存在するけれども最高に完全ではないというかのどちらかでなければならないのです。
しかしこのような小説は形式がそうなっているというだけであり,実際には作品内作者を設定している作者がいるわけです。すると,作品内作者の作意と,作品内作者を設定している作者の作意が異なってしまう可能性があります。なのでこのような作品の場合は,中立的な外界ということの意味も多重になってきます。
『虐げられた人びと』は作品内作者が明らかに無能な作家になっています。これはそれを書いているドストエフスキーの作意が大きく影響しているのであって,作家が鋭敏な推理力や想像力をもっていない方が,物語としてはダイナミックになるだろうと考えているわけです。いい換えればその作意が僕がいうこの作品の失敗の原点になっています。したがって,『虐げられた人びと』を書くにあたって,ドストエフスキーは小説の世界に入り込みすぎてしまったという見方ができるでしょう。
『悪霊』も僕には明らかな失敗が含まれているとみています。それは作品内作者である記者が知り得ないことまで知っているという前提で書かれている部分が含まれているからです。この場合は作意とは別の問題といえるかもしれませんが,やはりドストエフスキーが物語の中に入りすぎてしまっているといえるでしょうし,逆に作品内作者という設定を重視するなら,登場人物としての記者が,物語の外に出すぎてしまっているともいえるでしょう。
『はじめてのスピノザ』の読者として想定されるような人に対する意義は,僕にはふたつあると思いますので,順に説明していきます。
まず,神Deusが最高に完全summe perfectumであるのであれば,神の外から神を駆って神に何かをさせるようなものは何も存在しません。これは神の外には何もないということを同時に意味していて,したがって神は内在的であるという結論とも関係するのですが,そのことは想定される読者にとっての意義とはいえないと僕は解していますから,ここでは詳しく説明しません。ここではこのことを神の側からみてみます。すると,神は何かのために何事かをなすことはないということが出てきます。なぜなら,たとえば神がある事柄のために何かをなすなら,神はその事柄のために存在することになりますから,その事柄は事実上は神の外から神を駆って神に何かをさせるものであるといわなければならないからです。よって,神の外に何か目的finisがあって,その目的に合致するように神が何かをなすことはないのです。
このことは根本的には目的というものは神のうちにあるものではなく,人間が想像の下に拵えたものであるということになります。これはこれで重要です。スピノザが原因causaというのは起成原因causa efficiensであって,目的原因causa finalisではないということなどはこのことから帰結するといえるからです。しかしここで僕がいいたいのはそのことではなく,神が何かの目的のために働くagereということはないということ自体です。つまり,神が完全であるためには神が何らかの目的のために働いてはならないのであって,このことは『はじめてのスピノザ』の読者にとっても,逆手に取られたと感じる場合があると思うのです。
たとえば,神は善意をもってすべてのことをなすと仮定してみましょう。この考え方は,善bonumという目的がまずあって,その善のために神が働くといっているのと同じです。つまり神の外に善があって,その善が神を駆って神に善をなさせるといっているのと同じなのです。ですからこういう主張をするなら,最高に完全なものとしての神は存在しないというか,神は存在するけれども最高に完全ではないというかのどちらかでなければならないのです。
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