第72回川崎記念。
好発はテーオーケインズ。外から追い上げていったライトウォーリアがハナを奪いました。2番手はテーオーケインズとペイシャエスとノットゥルノとエルデュクラージュの4頭。3馬身差でニューモニュメント。7番手にウシュバテソーロ。8番手にテリオスベル。3馬身差でスワーヴアラミス。4馬身差の最後尾にフォルベルールで発馬後の向正面を通過。正面に入ると後方から例によってテリオスベルが追い上げ,ライトウォーリアの前に出ました。2周目の向正面に入るとテリオスベルの後ろに外に切り返したライトウォーリア。その後ろをテーオーケインズとノットゥルノとエルデュクラージュ。6番手にウシュバテソーロ。7番手にペイシャエス。8番手にニューモニュメント。9番手にスワーヴアラミスとなってここまでは一団。フォルベルールだけが大きく取り残されました。ハイペース。
3コーナーからテリオスベルにライトウォーリアが並び掛けていくと,外に出されたテーオーケインズが3番手で内に入ったウシュバテソーロが4番手。直線の入口のところでテリオスベルとライトウォーリアの間を突いたウシュバテソーロが先頭に立ち,これをライトウォーリアの外を回ったテイオーケインズが追い掛ける形での優勝争い。うまいコーナーワークで先んじたウシュバテソーロが最後までテーオーケインズの追い上げを封じて優勝。テーオーケインズが半馬身差で2着。後方から脚を伸ばしたニューモニュメントが4馬身差の3着。途中からの逃げで粘ったテリオスベルが1馬身差で4着。
優勝したウシュバテソーロは東京大賞典からの連勝で大レース2勝目。ここは東京大賞典よりも相手関係が強化されていましたので,試金石とみていました。ダートではトップクラスのテーオーケインズの追い上げを封じての優勝ですから価値は高く,確かに東京大賞典の勝ち馬に相応しい能力をもっていたということが証明されました。通ったコースの差から,脚力は差がないと思いますが,テーオーケインズは器用さに欠けるがゆえに外を回るレースをせざるを得ないという一面があるのであり,器用さというのは競走馬の能力のひとつと僕は考えますので,その部分の能力でははっきりと上回っているといえるでしょう。父はオルフェーヴル。母の父はキングカメハメハ。母の7つ上の半兄に2003年の東京新聞杯を勝ったボールドブライアン。Ushbaはジョージアにある山の名前。
騎乗した横山和生騎手は東京大賞典以来の大レース4勝目。川崎記念は初勝利。管理している高木登調教師は東京大賞典以来の大レース9勝目。川崎記念は初勝利。
『はじめてのスピノザ』の内容からはかけ離れてしまうのですが,この考察に関してはひとつだけ補足しておきたいことがあります。
僕は第二部定理九系で,観念の対象ideatumの中に起こることといわれていときの中に起こることというのを,『堕天使の倫理』に与えられたヒントによって,その観念の対象の本性essentiaおよび形相formaに変化を及ぼすことと解しています。そしてその中に起こることの観念ideaは,その対象の観念を有する限りで神Deusのうちにあるのです。そしてこれは,第一部公理四と関連していると僕は解しています。つまり観念の対象の中に起こることに対して,観念の対象は原因である,十全な原因causa adaequataであるか部分的原因causa partialisであるかは問わず,いい換えれば,観念の対象の能動actioであれ受動passioであれ,原因であると解しているのです。このこと自体は異論はないと思います。というのは,あるものたとえばXが働きもせず働きを受けるpatiこともないのであれば,Xの本性ならびに形相が変化することはあり得ないからです。
このとき,Xの中に起こることの観念はXの観念を有する限りで神のうちにあるのですが,その観念がどのように神に帰せられると十全adaequatumであるのかということは,それがXの能動によるものなのかXの受動によるものなのかということ,あるいは同じことですがそれがXが十全な原因であるのか部分的原因であるのかということによって異なります。Xが十全な原因となってXの中に何かが起こるのであれば,Xの観念を有する限りで神のうちにそのことの十全な観念idea adaequataがあります。しかしXが部分的原因となってXの中に何かが起こるのであれば,Xの観念を有する限りで神のうちにあるそのことの観念は十全な観念ではなく,混乱した観念idea inadaequataです。これはこのことが第一部公理四と関連していると僕が考えているということから明白で,Xの中に起こることに対してXが部分的原因である場合は,X以外にもその部分的原因を構成する何か,たとえばYがあるのであって,Xの観念を有するとともにYの観念を有する限りで神のうちで十全であるということになります。いずれにしても神のうちに十全な観念があるのですが,神への帰せられ方はどの場合も一律ではないのです。
好発はテーオーケインズ。外から追い上げていったライトウォーリアがハナを奪いました。2番手はテーオーケインズとペイシャエスとノットゥルノとエルデュクラージュの4頭。3馬身差でニューモニュメント。7番手にウシュバテソーロ。8番手にテリオスベル。3馬身差でスワーヴアラミス。4馬身差の最後尾にフォルベルールで発馬後の向正面を通過。正面に入ると後方から例によってテリオスベルが追い上げ,ライトウォーリアの前に出ました。2周目の向正面に入るとテリオスベルの後ろに外に切り返したライトウォーリア。その後ろをテーオーケインズとノットゥルノとエルデュクラージュ。6番手にウシュバテソーロ。7番手にペイシャエス。8番手にニューモニュメント。9番手にスワーヴアラミスとなってここまでは一団。フォルベルールだけが大きく取り残されました。ハイペース。
3コーナーからテリオスベルにライトウォーリアが並び掛けていくと,外に出されたテーオーケインズが3番手で内に入ったウシュバテソーロが4番手。直線の入口のところでテリオスベルとライトウォーリアの間を突いたウシュバテソーロが先頭に立ち,これをライトウォーリアの外を回ったテイオーケインズが追い掛ける形での優勝争い。うまいコーナーワークで先んじたウシュバテソーロが最後までテーオーケインズの追い上げを封じて優勝。テーオーケインズが半馬身差で2着。後方から脚を伸ばしたニューモニュメントが4馬身差の3着。途中からの逃げで粘ったテリオスベルが1馬身差で4着。
優勝したウシュバテソーロは東京大賞典からの連勝で大レース2勝目。ここは東京大賞典よりも相手関係が強化されていましたので,試金石とみていました。ダートではトップクラスのテーオーケインズの追い上げを封じての優勝ですから価値は高く,確かに東京大賞典の勝ち馬に相応しい能力をもっていたということが証明されました。通ったコースの差から,脚力は差がないと思いますが,テーオーケインズは器用さに欠けるがゆえに外を回るレースをせざるを得ないという一面があるのであり,器用さというのは競走馬の能力のひとつと僕は考えますので,その部分の能力でははっきりと上回っているといえるでしょう。父はオルフェーヴル。母の父はキングカメハメハ。母の7つ上の半兄に2003年の東京新聞杯を勝ったボールドブライアン。Ushbaはジョージアにある山の名前。
騎乗した横山和生騎手は東京大賞典以来の大レース4勝目。川崎記念は初勝利。管理している高木登調教師は東京大賞典以来の大レース9勝目。川崎記念は初勝利。
『はじめてのスピノザ』の内容からはかけ離れてしまうのですが,この考察に関してはひとつだけ補足しておきたいことがあります。
僕は第二部定理九系で,観念の対象ideatumの中に起こることといわれていときの中に起こることというのを,『堕天使の倫理』に与えられたヒントによって,その観念の対象の本性essentiaおよび形相formaに変化を及ぼすことと解しています。そしてその中に起こることの観念ideaは,その対象の観念を有する限りで神Deusのうちにあるのです。そしてこれは,第一部公理四と関連していると僕は解しています。つまり観念の対象の中に起こることに対して,観念の対象は原因である,十全な原因causa adaequataであるか部分的原因causa partialisであるかは問わず,いい換えれば,観念の対象の能動actioであれ受動passioであれ,原因であると解しているのです。このこと自体は異論はないと思います。というのは,あるものたとえばXが働きもせず働きを受けるpatiこともないのであれば,Xの本性ならびに形相が変化することはあり得ないからです。
このとき,Xの中に起こることの観念はXの観念を有する限りで神のうちにあるのですが,その観念がどのように神に帰せられると十全adaequatumであるのかということは,それがXの能動によるものなのかXの受動によるものなのかということ,あるいは同じことですがそれがXが十全な原因であるのか部分的原因であるのかということによって異なります。Xが十全な原因となってXの中に何かが起こるのであれば,Xの観念を有する限りで神のうちにそのことの十全な観念idea adaequataがあります。しかしXが部分的原因となってXの中に何かが起こるのであれば,Xの観念を有する限りで神のうちにあるそのことの観念は十全な観念ではなく,混乱した観念idea inadaequataです。これはこのことが第一部公理四と関連していると僕が考えているということから明白で,Xの中に起こることに対してXが部分的原因である場合は,X以外にもその部分的原因を構成する何か,たとえばYがあるのであって,Xの観念を有するとともにYの観念を有する限りで神のうちで十全であるということになります。いずれにしても神のうちに十全な観念があるのですが,神への帰せられ方はどの場合も一律ではないのです。