『ドストエフスキー カラマーゾフの預言』の中の小泉義之の「ロバの鳴き声」の中で触れられている黒澤明のドストエフスキー評では,ドストエフスキーの優しさ,普通の人間の限度を超越していると思えるようなドストエフスキーの優しさというものが評価されています。このドストエフスキーの特異な優しさの原点になったものは何であったのでしょうか。
ドストエフスキーは死刑宣告を受け,処刑の寸前までいったところで恩赦を受け,減刑されています。減刑されて懲役刑になったのであって,無罪になったわけではありません。このためにシベリアの収容所に収容されています。ここでドストエフスキーは多くの人びとを目撃することになりました。その模様は『死の家の記録』という見聞録として残されています。
見聞録といっても刑務所の中を見学して書かれたものではなく,まさに懲役刑の服役者として書かれたものなのですから,どちらかといえば体験記といった方が正確でしょう。このときにここで多くの体験をしたことは,間違いなくドストエフスキーに大きな影響を与えました。どんな悲惨な事柄であってもそれから目を逸らすのではなく,一緒になって苦しむという姿勢は,ここで培われたものであるとみることができます。というのも,そこではどんなに惨たらしい,目を覆いたくなるような出来事が生じたとしても,そもそもそこから目を逸らすということはできないのであって,したがってひたすらにそれを見続けるほかないからです。そしてそれを見続けていけば,自然と一緒になって苦しむという姿勢が生じてくるのではないでしょうか。
実際には刑務所の中での出来事のすべてが,ドストエフスキーのことを苦しめたというようには僕は思いません。そこでの生活の中にはその生活なりの楽しみがあったのであって,また喜びもあっただろうと僕は思います。ただ,どのような事柄にも目を背けることがないようなメンタリティが強化されたとすれば,ドストエフスキーにとって最も大きかったのは,刑務所で過ごした4年間であったように僕には思えます。
こうした化学変化によって,ある物体corpusが別の物体になるということ,いい換えればある物体の本性essentiaおよび形相formaに変化が齎されるというとき,それは変化を齎される物体の本性だけで説明することができません。木が炭になるというとき,それは木がほかの物体によって炭になる化学変化を起こされるからであり,木の本性そのもののうちにそれが炭になるということが含まれているわけではないからです。するとこの場合,木の中に何かが起こるといっても,それは常に木の受動passioによって起こることになりますから,単に木の観念ideaを有する限りで神Deusのうちにある,木の中に起こることの観念は,常に混乱した観念idea inadaequataなのであって,木に対してそうした変化を生じさせる別の物体の観念をも有する限りで,神のうちにある木の中に起こることの観念は十全adaequatumであるということになります。
このことは,『エチカ』のその他の定理Propositioからも論証できるように思われます。たとえば第三部定理四は,どんなものもそれが滅ぶとすれば外部の原因causa externaによって滅ぶのだといっていますが,これでみれば,木が炭になるというのは,外部の原因によって炭になるといっているのと同じだからです。木の本性および形相を有する物体が炭の本性および形相を有する物体になるというのは,木という物体にだけ注目してみれば,木が滅ぶということにほかならないからです。同様に,第三部定理七によれば,どのような物体も自己の有suo esseに固執するという現実的本性actualem essentiamを有するのですから,木は木としての有に固執する現実的本性を有していなければならず,炭という別の物体になるような現実的本性を有することはできないからです。これは木の現実的本性と炭の現実的本性は異なるということから明白であって,もしも木の現実的本性の中に炭になるということが含まれているなら,木は木としての有に固執していないということになってしまい,この定理に明確に反することになります。
しかし僕は,もしもある事物の中に起こることに対してその事物が十全な原因causa adaequataであれば,そのことの観念はその事物の観念を有する限りで神のうちにあるという説明もしました。そういう説明もしたのには理由があるのです。
ドストエフスキーは死刑宣告を受け,処刑の寸前までいったところで恩赦を受け,減刑されています。減刑されて懲役刑になったのであって,無罪になったわけではありません。このためにシベリアの収容所に収容されています。ここでドストエフスキーは多くの人びとを目撃することになりました。その模様は『死の家の記録』という見聞録として残されています。
見聞録といっても刑務所の中を見学して書かれたものではなく,まさに懲役刑の服役者として書かれたものなのですから,どちらかといえば体験記といった方が正確でしょう。このときにここで多くの体験をしたことは,間違いなくドストエフスキーに大きな影響を与えました。どんな悲惨な事柄であってもそれから目を逸らすのではなく,一緒になって苦しむという姿勢は,ここで培われたものであるとみることができます。というのも,そこではどんなに惨たらしい,目を覆いたくなるような出来事が生じたとしても,そもそもそこから目を逸らすということはできないのであって,したがってひたすらにそれを見続けるほかないからです。そしてそれを見続けていけば,自然と一緒になって苦しむという姿勢が生じてくるのではないでしょうか。
実際には刑務所の中での出来事のすべてが,ドストエフスキーのことを苦しめたというようには僕は思いません。そこでの生活の中にはその生活なりの楽しみがあったのであって,また喜びもあっただろうと僕は思います。ただ,どのような事柄にも目を背けることがないようなメンタリティが強化されたとすれば,ドストエフスキーにとって最も大きかったのは,刑務所で過ごした4年間であったように僕には思えます。
こうした化学変化によって,ある物体corpusが別の物体になるということ,いい換えればある物体の本性essentiaおよび形相formaに変化が齎されるというとき,それは変化を齎される物体の本性だけで説明することができません。木が炭になるというとき,それは木がほかの物体によって炭になる化学変化を起こされるからであり,木の本性そのもののうちにそれが炭になるということが含まれているわけではないからです。するとこの場合,木の中に何かが起こるといっても,それは常に木の受動passioによって起こることになりますから,単に木の観念ideaを有する限りで神Deusのうちにある,木の中に起こることの観念は,常に混乱した観念idea inadaequataなのであって,木に対してそうした変化を生じさせる別の物体の観念をも有する限りで,神のうちにある木の中に起こることの観念は十全adaequatumであるということになります。
このことは,『エチカ』のその他の定理Propositioからも論証できるように思われます。たとえば第三部定理四は,どんなものもそれが滅ぶとすれば外部の原因causa externaによって滅ぶのだといっていますが,これでみれば,木が炭になるというのは,外部の原因によって炭になるといっているのと同じだからです。木の本性および形相を有する物体が炭の本性および形相を有する物体になるというのは,木という物体にだけ注目してみれば,木が滅ぶということにほかならないからです。同様に,第三部定理七によれば,どのような物体も自己の有suo esseに固執するという現実的本性actualem essentiamを有するのですから,木は木としての有に固執する現実的本性を有していなければならず,炭という別の物体になるような現実的本性を有することはできないからです。これは木の現実的本性と炭の現実的本性は異なるということから明白であって,もしも木の現実的本性の中に炭になるということが含まれているなら,木は木としての有に固執していないということになってしまい,この定理に明確に反することになります。
しかし僕は,もしもある事物の中に起こることに対してその事物が十全な原因causa adaequataであれば,そのことの観念はその事物の観念を有する限りで神のうちにあるという説明もしました。そういう説明もしたのには理由があるのです。