スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

虐げられた人びと&ライプニッツとシュラー

2015-09-17 19:23:51 | 歌・小説
 ニーチェの「汝自身を助けよ」に類する「おのれ自身を愛せ」ということばがある『虐げられた人びと』の書評です。
                         
 亀山郁夫は『ドストエフスキー 父殺しの文学』の中で,『虐げられた人びと』はドストエフスキーが大衆作家として大きな人気をかちとるきっかけになった作品であるといっています。僕にはこれが実に言い得て妙な説明だと思えます。『虐げられた人びと』の作者は大衆作家であり,他面からいえばこの本の読者は大衆であったという気がするからです。簡単にいうならそれは,この本がとても読みやすい作品であるということです。
 『虐げられた人びと』は1861年の作品です。この後,1864年に『地下室の手記』が書かれます。小説の形式には似たところがあります。どちらも手記として構成されているからです。ですが『虐げられた人びと』は『地下室の手記』よりずっと理解しやすいと思います。登場人物は『虐げられた人びと』の方がずっと多いですが,それら登場人物の役柄の割り当て,単純にいえば善人であるか悪人であるかという二分法ですが,それがきわめて明解になっているからです。
 1886年に『罪と罰』を書いて以降,ドストエフスキーの小説の登場人物は,このような二分法によって規定することができなくなります。これも単純にいってしまえば,ひとりの人物の中に善なるものと悪なるものが混在するようになるからです。ドストエフスキーは『白痴』で無条件に美しい人間を描こうと決意したのですが,それでも主人公であるムイシュキン公爵が,純粋なる善人であると理解するのは不可能に僕には思えます。いい換えればこれより後のドストエフスキーは,いわゆる大衆作家というのとは違った作家になったように思うのです。
 こうした事情から,人物像の深みというものは『虐げられた人びと』にはありません。少なくともこれ以降のドストエフスキーの作品と比べた場合には,それは間違いないと思います。ですが僕はそのことをもってこの作品を否定しようとは思いません。大衆作品には大衆作品なりのよさもある筈だからです。ただ,小説として上質であるというようには思えませんでした。

 『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』では,スピノザを訪問するためにオランダに行ったライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizは,事前にチルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausの紹介状を携えてシュラーGeorg Hermann Schullerに会ったとされています。
 この説明は僕には不思議に思えます。ライプニッツに『エチカ』の草稿を見せることの可否をスピノザに問うチルンハウスの手紙を仲介したのがシュラーです。そこでのやり取りのうちに,『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』を高く評価したライプニッツが,それを主題にスピノザと文通していたという主旨のことが書かれています。つまりシュラーはライプニッツを知っていたし,スピノザが書簡を通じてライプニッツを知っていたということも知っていたのです。なのにライプニッツがシュラーに会うために,なぜ紹介状を要するのかが分からないからです。
 『宮廷人と異端者The Courtier and the Heretuc : Leibniz,Spinoza,and the Fate of God in the Modern World』では,シュラーはライプニッツのアムステルダムAmsterdamにおける情報提供者という位置付けになっています。しかし少なくともこのブログにおいては,この規定は不適当です。ライプニッツとシュラーの間を取り持ったのは間違いなくチルンハウスであったと思います。よってそれはチルンハウスがパリでライプニッツに会った1675年後半以降です。シュラーは1679年に28歳で早世しています。ですからライプニッツの人生の中でシュラーと関わりをもった期間はそう長くありません。一方,シュラーの人生の中でも,ライプニッツと関係した期間よりはスピノザと関係した期間の方が長かった筈です。ですから僕にとってはシュラーは,スピノザの友人のひとりであり,とくにスピノザが信頼していた友人のひとりであったことになります。ただ,スチュアートMatthew Stewartは,どちらかというならスピノザよりライプニッツに力点を置いて書いています。したがってシュラーの位置付けが,ライプニッツの視点からなされるということについては,理由のないことではありません。そしてライプニッツにとってシュラーが情報提供者であったのも,間違いではないでしょう。
 ただ,スチュアートは,シュラーやチルンハウスからスピノザに宛てた書簡の一部はライプニッツの差し金だったと考えているようです。この点は僕には同意できないです。
コメント
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