スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

ふるさとカップ&僕の結論

2019-07-29 19:18:11 | 競輪
 昨日の弥彦記念の決勝。並びは小林-諸橋-藤原の上越,松井-渡辺-岡村の南関東,清水-山田の西国で柴崎は単騎。
 激しい取り合いになったスタートを制したのは渡辺で松井の前受け。4番手に小林,7番手に清水,最後尾に柴崎で周回。残り3周のバックの中間から清水が上昇開始。柴崎も続きました。コーナーで松井に並ぶとそのまま併走。ホームに入って誘導が退避すると清水が松井を叩いて前に出ました。バックから小林が発進。清水を叩いて打鐘。引いた松井がすぐに反撃。ホームで小林を叩いてかまし先行に。ただ渡辺は少し離れてしまい,追い掛けようとしたところで諸橋の牽制を受けて失速。離れた2番手に小林で諸橋,藤原と続く隊列に。諸橋は最終コーナーから踏み込み,松井を差し切って優勝。松井が半車身差の2着に粘り,諸橋マークの藤原が小林と諸橋の間に進路を取って4分の1車輪差で3着。
 優勝した新潟の諸橋愛選手は昨年の弥彦記念以来の記念競輪7勝目。弥彦記念は一昨年も制していて三連覇となる3勝目。このレースは清水の脚力が上位ですが,地元勢を引き連れた小林は先行意欲が高そうな上,南関東で連携した松井と渡辺はそれぞれがS級で水準以上の力量があるので,清水にとって楽なレースにはならないだろうと予想されました。強いレースをしたのは松井で,単騎での逃げになりながらも2着に粘り込むことに。もし渡辺がしっかりとマークしていれば,松井と渡辺の直線勝負になっていた可能性が高かったように思います。諸橋は前とはやや離れた3番手ではありましたが,あのくらいの位置からであれば単騎逃げの選手を差すのには問題なかったようです。

 第四部定理五二第五部定理二七が矛盾しているという識者の見解opinioを僕は知りません。ですから僕の結論は,独自の判断であると理解してください。
                                   
 僕はもし僕たちに最高の満足があるとすれば,それは第三種の認識cognitio tertii generisによって生じる自己満足acquiescentia in se ipsoであると考えます。したがって,第五部定理二七の方が正しく,第四部定理五二は,誤っているとはいわないまでも,正確さを欠いていると考えます。理由はふたつあるのですが,ひとつは各々の認識が僕たちの精神mensが十全な原因causa adaequataとなって発生するといわれるときの,原因の相違です。すでにみたように,僕たちの精神はそれ自体がいくつかの観念ideaによって組織されているひとつの観念とみることができるのですが,第二種の認識cognitio secundi generisの場合は,精神がひとつの観念としてみられたときに,それを構成しているある観念が十全な原因となっているのに対し,第三種の認識の場合は,ひとつの観念としてみられる僕たちの精神そのものが十全な原因となっているのでした。
 第三部諸感情の定義二五から明らかなように,自己満足はみっつの基本感情affectus primariiのうち喜びlaetitiaの一種です。第三部諸感情の定義二から,喜びは僕たちがより小なる完全性perfectioからより大なる完全性に移行するときに発生します。この場合は認識について比較しているので,僕たちの精神がより小なる完全性からより大なる完全性に移行するときに発生するのです。したがって最高の満足というのは,僕たちの完全性をより小なる状態からより大なる状態へと最高に移行させる自己満足でなければならないということになります。
 なおここでは,最高の満足が自己満足,とりわけ能動的な自己満足であるということは前提とします。いい換えれば能動的な自己満足以上に,僕たちをより小なる完全性からより大なる完全性へと移行させる満足はないということを前提とします。このことは第四部定理五二でも第五部定理二七でもスピノザが同様に証明していることなので,これを前提から外すことはできません。同時にスピノザはそれを証明しているのですから,確かに能動的な自己満足よりも僕たちの精神をより小なる完全性からより大なる完全性へと移行させる満足は実際にないのです。
コメント
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