スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

怜子③&原因の相違

2019-07-27 18:47:39 | 歌・小説
 「怜子」の二番では,怜子に惚れた「あいつ」のことが歌われます。

                                   

     怜子 みちがえるようになって
     あいつにでも 本気で
     惚れることがあるんだね


 1行目は怜子のことを歌っているともいえ,これは②の続きと受け取ることもできます。ですがこの部分の主題はそれに続く部分にあります。つまり怜子が見違えるようになったのは,あいつに本気で惚れられたからだと歌い手はみているのです。なおかつ,あいつにも本気で惚れることがあるのだ,といっているのですから,歌い手はあいつのこれまでのことをよく知っていたということになります。

     怜子 あいつは誰と居ても
     淋しそうな男だった
     おまえとならば あうんだね

 ここからも歌い手があいつのことを以前から知っていたことが分かります。そして,あいつは寂しそうだったと歌っていることから,今は寂しそうにはしていないということも分かります。つまり歌い手からみると,見違えるようになったのは怜子だけでなく,あいつも同じだったのです。

 第二種の認識cognitio secundi generisは共通概念notiones communesによる認識です。僕たちが共通概念に基づいて何かを認識するcognoscereとすれば,僕たちの精神mensのうちに共通概念があって,この共通概念が原因causaとなって僕たちの精神のうちに何らかの観念ideaが発生するのです。共通概念は第二部定理三八第二部定理三九の様式を通して僕たちの精神のうちに発生します。よって共通概念は十全な思惟の様態cogitandi modiです。そこで共通概念を原因として何らかの観念が僕たちの精神のうちに発生するなら,第二部定理四〇によってそれも十全な観念idea adaequataであることになります。したがって,共通概念は僕たちの精神そのものではなく,僕たちの精神のうちにある十全な思惟の様態です。他面からいえば,ひとつの観念としてみられる僕たちの精神を原因としているのではなく,ひとつの観念としてみられる僕たちの精神の一部を構成している思惟の様態を,十全な思惟の様態を原因として発生するのです。ですから第二種の認識が僕たちにとって精神の能動actio Mentisである,いい換えれば僕たちが第二種の認識によって何事かを認識するとき,僕たちの精神が十全な原因causa adaequataであるといわれる場合,これはひとつの観念としての僕たちの精神が十全な原因であることを必ずしも意味するわけではなく,ひとつの観念としてみられる僕たちの精神の一部を構成している思惟の様態が十全な原因であるという意味です。
 これに対して,第三種の認識cognitio tertii generisの場合は,第五部定理三一から明瞭なように,ひとつの観念としてみられる僕たちの精神そのものを形相的原因formali causaとして有します。ですからこの場合に僕たちの精神が第三種の認識の十全な原因であるといわれる場合は,僕たちの精神の一部を構成している思惟の様態が十全な原因となっているということを意味するのではなく,それ自体でひとつの観念としてみられる僕たちの精神が十全な原因となっているという意味なのです。僕たちは僕たちの精神すなわち自分の精神を十全に認識することはできないので,これは不思議に思われるかもしれませんが,僕たちの精神がひとつの観念としてみられるなら,その十全な観念があるということは確かなので,それが十全な原因となって何かを認識したとしても何もおかしくはないのです。
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