スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

王位戦&ふたつめの理由

2019-07-31 19:45:20 | 将棋
 昨日から札幌で指されていた第60期王位戦七番勝負第二局。
 木村一基九段の先手で相掛かり。先手が7筋の歩を掠め取る展開に。ゆっくりしていると歩得の先手が有利になるので後手の豊島将之王位から攻めることに。厳密には無理攻めだったようですが,すべての駒を使って攻めるのを先手はすべて受けきらなくてはいかなかったので,先手の方が勝ちやすいという将棋ではなかったように思います。
                                        
 後手が5筋の歩を突いた局面。これは後手の角が直射してくるのを避けた手です。
 後手は☖2五歩☗同桂☖同桂☗同銀で桂馬を交換。そこで☖5五角と出ました。
 ここは☗6六桂と受ける手もあったようですが強く☗6六銀と上がりました。先手はここでは有利であるとは思っていなかったようです。後手は☖4五桂と打ちました。
 ここで☗6七玉と上がったのですが,これは☖5七桂成☗同銀で角取りが消え,☖2七歩☗4八飛☖4四角☗7六桂☖8二飛☗3四銀☖2六角☗6八飛☖5九角成と進んで食い破られることに。
                                        
 第2図は後手が有利になっているようです。先手は☗6七玉のときに☗5五銀と取ってしまい,☖7八歩成☗同玉☖5七桂成☗7六角と進める順があり,少なくともこちらの方が強く☗6六銀と上がった手を生かせたと思えます。
 豊島王位が連勝。第三局は来月8日と9日です。

 最高の満足は第二種の認識cognitio secundi generisから発生する自己満足acquiescentia in se ipsoではなく,第三種の認識cognitio tertii generisから発生する自己満足であると僕が考えるもうひとつの理由は,スピノザによる第四部定理五二第五部定理二七の論証Demonstratioの方法にあります。僕は徳virtusと満足は異なった概念notioでなければならないと考えるのですが,スピノザは満足を徳から規定しようとしています。そしてもし満足がスピノザのいうように規定されるとしても,最高の満足は第三種の認識から生じる自己満足でなければならないと僕は考えるのです。
 第五部定理二七は,第四部定理二八第五部定理二五を論拠としていました。ですからここではスピノザは満足を徳と等置しているというべきで,満足を徳から考えようとしていることはそれ自体で明らかでしょう。
 一方,第四部定理五二の論拠は第三部定義二第三部定理三でした。ですから一見するとここではスピノザは満足を十全性,原因の十全性と観念の十全性という,一定の関連をもつ十全性から規定しているとみえるかもしれません。ですが僕の考えでは,この論証方法も,満足を徳と関連付けている論証方法なのです。
 第三部定理三で精神の能動Mentis actionesといわれるのは,精神が働くagereことを意味します。このことは同じ定理Propositioで能動に比較されている受動passionesについて考えれば分かりやすいでしょう。というのは,どんな事物であっても,受動という状態になるのは外部の事物によって働きを受けるpatiからです。つまり,事物が働きを受けるならそれがその事物の受動なのですから,能動とはその事物が働くことにほかなりません。よって精神の能動というのは,精神が十全な原因causa adaequataとして働く力のことにほかなりません。そして第四部定義八から明らかなように,スピノザはこの力のことを徳といっているのです。よって精神の能動と精神の徳は何ら変わるところはありません。実際にこの定義Definitioは人間についていわれる徳について,人間が十全な原因としてあることをなす力のことであるといっていると理解できます。つまり第三部定理三というのは,その時点では徳という語句は用いられてこそいないものの,人間にとっての徳である能動と,徳であるとはいえない受動について語っているのです。
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