スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

生まれた時から④&利点

2019-06-24 19:10:17 | 歌・小説
 までで歌い手であるあたしと,あたしが好きになってしまったあんたとの関係の全貌が明らかになりました。ですからで歌われていた部分の,あの娘の魅力のおこぼれ,というのが何を意味するのかが分かったことになります。そしてあの娘を失ったあんたが飲んだくれるようになったのと同じように,あんたが本当に好きなのはあの娘だということを知ってしまったあたしも飲んだくれることになるのです。

                                       

     いまさら嫌いに変われるはずもなし
     聞かなかったふりして もろともに飲んだくれ


 この,聞かなかったふり,というのは二重に受け止めることができます。ひとつはあんたの仲間から聞かされた昔のあんたのは姿のことであり,もうひとつはあんたがあたしに浴びるように聞かせた恋の歌のことです。

     飲んででもいなければ 悲しみは眠らない
     あの娘の魅力のおこぼれで 夢を見た


 悲しみが眠らないのはあんたもそうであり,またあたしもそうなのです。なのでこの部分には気持ちのシンクロがあるのです。もしかしたら飲んだくれるようになったあたしは,いずれだれかに恋の歌を浴びせ,そのだれかを勘違いさせることになるのかもしれません。

 僕が推奨する解釈は,実際には「我」あるいは人間という同一の事物に,形相的側面と客観的側面があり,それが形相的観点からみられたら身体corpusといわれ,客観的観点からみられた場合は精神mensといわれるというだけに留まるものではありません。むしろ第二部定理七備考が,文字通りにならそう解釈できるように,すべての事物に客観的な側面と形相的な側面があるのであり,それらは単に観点の相違に帰着するというものです。
 この解釈にはいくつかの利点があります。そのうち最も重要なのは,この解釈はスピノザの哲学の中心をなす平行論と齟齬を来さないという点にあります。この部分の考察の最初にいったように,スピノザの哲学が平行論であるというのは,観念論あるいは認識論ではなく平行論であり,かつ唯物論ではなく平行論であるという意味がありました。ですから平行論と齟齬を来さずにスピノザの哲学を解釈するのはとても大切なことなのです。
 スピノザの哲学に平行論を論理的に導入するのは第二部定理七です。そこでは観念とその観念の対象の原因と結果の連結と秩序は同一であるOrdo, et connexio idearum idem est, ac ordo, et connexio rerumといわれています。ところが,僕が推奨した解釈は,この定理Propositioに合わせていうなら,観念と観念の対象とを同じ事物のふたつの観点あるいは表現とみなすものです。ですから原因と結果の連結と秩序はひとつしか存在しないことになります。いい換えれば第二部定理七というのは,この解釈を採用する限りでは,証明するまでもない自明なこととなるのです。
 ただ,実際は第二部定理七が証明されているということは,観念と観念の対象が,文字通りには同一の事物ではなく,区別することが可能な事物であるということの証明のようなものです。この定理は第一部公理四にのみ訴求して証明されているのですが,この公理Axiomaは,認識されるべき原因と結果が認識cognitioの外にあって,それが認識されなければいけないということをいっていると解せるからです。とはいえこれを同一の事物と解したとしても,第二部定理七が成立するという点では同じなのですから,観念とその対象が同一のものであると解釈したとしても,スピノザのいわんとする主旨を逃すことにはなりません。
コメント
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