スピノザが書簡六十四と書簡六十六でいっていることは,区別distinguereのあり方,とりわけ思惟の属性Cogitationis attributumの様態modiである観念ideaの区別のあり方についてであると僕は解します。同時にこのことは,第二部定理七系でスピノザがいっていることと関係すると僕は考えます。スピノザはこの系Corollariumで,神が思惟する力Dei cogitandi potentiaは神が働く力agendi potentiaと等しいといっています。この力が等しいということをどのような意味として解せばよいのかということが,チルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausに対するふたつの書簡から明瞭になっていると思うのです。
第一部定義六から,神は無限に多くの属性infinitis attributisによってその本性essentiamを構成されます。このうち思惟する力というのは思惟の属性から発生する,あるいは思惟の属性そのもののことです。したがって思惟以外の属性から発生する力,あるいは思惟以外のすべての属性はその各々が働く力そのものです。このとき思惟する力は,思惟の属性以外のすべての属性に対して全体的に対応するのではなく,思惟以外の属性の各々に対して個別に対応するのです。つまり,神のうちにAという属性があり,このAの属性という働く力に対してAの属性を思惟する力が対応し,Aとは実在的に区別されるBの属性という働く力に対しては,Bの属性を思惟する力が,Aの属性を思惟する力とは別に対応するのです。このようにして,各々の属性の働く力に対して,各々のつまり個別の思惟する力が対応します。したがって,Aの属性を思惟する力とBの属性を思惟する力は,同じように思惟する力ではあっても,同じ力とみられるべきではなく,別の力とみられるべきなのです。別の力とみられるべきであるということは,区別される力とみるべきであるという意味であり,Aの属性を思惟する力とBの属性を思惟する力の区別は,これでみれば分かるように実在的区別です。このようにして思惟する力とは,無限に多くの属性の各々の働く力に対応する,実在的に区別される個別の思惟する力の集積のことです。
A,B,Cというように,働く力は無限に多くの記号によって区分できます。これと同じように,思惟A,思惟B,思惟Cというように,思惟する力も無限に多くの記号によって区分できるいうイメージで理解した方がよいのだろうと僕は考えます。
第二種の認識cognitio secundi generisから生じる自己満足acquiescentia in se ipsoと,第三種の認識cognitio tertii generisから生じる自己満足の,どちらが僕たちの精神mensをより大なる完全性perfectioへと移行させるか,いい換えるなら,僕たちの精神がより小なる完全性からより大なる完全性へと移行するとき,移行transitioの度合がより大きいのは第二種の認識から生じる自己満足かそれとも第三種の認識から生じる自己満足かといえば,第三種の認識から生じる自己満足であると僕は考えます。これが第五部定理二七と第四部定理五二が矛盾しているとみられる限り,正しいのは第五部定理二七の方であると僕が考えるひとつめの理由です。
なぜそのように考えるのかといえば,それは第二種の認識の原因causaと第三種の認識の原因の相違にあります。どちらの認識も,僕たちの精神が十全な原因causa adaequataとなることによって発生する認識であるという点は同じなのですが,第二種の認識の場合はひとつの観念ideaとしてみられる僕たちの精神を構成している観念を原因としているのに対し,第三種の認識の場合はひとつの観念とみられる限りでの僕たちの精神そのものを原因としていました。したがって,各々の認識から生じる自己満足が含む,僕たちの精神の働きactioの範囲というのは,第二種の認識についてはひとつの観念としてみられる僕たちの精神に対して限定的あるいは部分的であることになりますが,第三種の認識から生じる自己満足の場合には,ひとつの観念としてみられる限りでの僕たちの精神に対して全面的あるいは全体的です。したがって,もしその他の条件がすべて等しいのであれば,自分の精神が部分的にあるいは限定的に働いているということを観想するcontemplari,この場合には十全に観想する場合よりも,自分の精神が全面的にあるいは全体的に働いていると観想する,同様に十全に観想する場合の方が,より小なる完全性からより大なる完全性へと移行する度合いは大きくなる筈だと僕は考えるのです。したがって,一般的には第二種の認識から生じる自己満足よりも,第三種の認識から生じる自己満足の方が,より大きな度合で僕たちを小なる完全性から大なる完全性へと移行させるでしょう。なので最高の満足は,第三種の認識から生じる自己満足だと僕は考えます。
第一部定義六から,神は無限に多くの属性infinitis attributisによってその本性essentiamを構成されます。このうち思惟する力というのは思惟の属性から発生する,あるいは思惟の属性そのもののことです。したがって思惟以外の属性から発生する力,あるいは思惟以外のすべての属性はその各々が働く力そのものです。このとき思惟する力は,思惟の属性以外のすべての属性に対して全体的に対応するのではなく,思惟以外の属性の各々に対して個別に対応するのです。つまり,神のうちにAという属性があり,このAの属性という働く力に対してAの属性を思惟する力が対応し,Aとは実在的に区別されるBの属性という働く力に対しては,Bの属性を思惟する力が,Aの属性を思惟する力とは別に対応するのです。このようにして,各々の属性の働く力に対して,各々のつまり個別の思惟する力が対応します。したがって,Aの属性を思惟する力とBの属性を思惟する力は,同じように思惟する力ではあっても,同じ力とみられるべきではなく,別の力とみられるべきなのです。別の力とみられるべきであるということは,区別される力とみるべきであるという意味であり,Aの属性を思惟する力とBの属性を思惟する力の区別は,これでみれば分かるように実在的区別です。このようにして思惟する力とは,無限に多くの属性の各々の働く力に対応する,実在的に区別される個別の思惟する力の集積のことです。
A,B,Cというように,働く力は無限に多くの記号によって区分できます。これと同じように,思惟A,思惟B,思惟Cというように,思惟する力も無限に多くの記号によって区分できるいうイメージで理解した方がよいのだろうと僕は考えます。
第二種の認識cognitio secundi generisから生じる自己満足acquiescentia in se ipsoと,第三種の認識cognitio tertii generisから生じる自己満足の,どちらが僕たちの精神mensをより大なる完全性perfectioへと移行させるか,いい換えるなら,僕たちの精神がより小なる完全性からより大なる完全性へと移行するとき,移行transitioの度合がより大きいのは第二種の認識から生じる自己満足かそれとも第三種の認識から生じる自己満足かといえば,第三種の認識から生じる自己満足であると僕は考えます。これが第五部定理二七と第四部定理五二が矛盾しているとみられる限り,正しいのは第五部定理二七の方であると僕が考えるひとつめの理由です。
なぜそのように考えるのかといえば,それは第二種の認識の原因causaと第三種の認識の原因の相違にあります。どちらの認識も,僕たちの精神が十全な原因causa adaequataとなることによって発生する認識であるという点は同じなのですが,第二種の認識の場合はひとつの観念ideaとしてみられる僕たちの精神を構成している観念を原因としているのに対し,第三種の認識の場合はひとつの観念とみられる限りでの僕たちの精神そのものを原因としていました。したがって,各々の認識から生じる自己満足が含む,僕たちの精神の働きactioの範囲というのは,第二種の認識についてはひとつの観念としてみられる僕たちの精神に対して限定的あるいは部分的であることになりますが,第三種の認識から生じる自己満足の場合には,ひとつの観念としてみられる限りでの僕たちの精神に対して全面的あるいは全体的です。したがって,もしその他の条件がすべて等しいのであれば,自分の精神が部分的にあるいは限定的に働いているということを観想するcontemplari,この場合には十全に観想する場合よりも,自分の精神が全面的にあるいは全体的に働いていると観想する,同様に十全に観想する場合の方が,より小なる完全性からより大なる完全性へと移行する度合いは大きくなる筈だと僕は考えるのです。したがって,一般的には第二種の認識から生じる自己満足よりも,第三種の認識から生じる自己満足の方が,より大きな度合で僕たちを小なる完全性から大なる完全性へと移行させるでしょう。なので最高の満足は,第三種の認識から生じる自己満足だと僕は考えます。
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