スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

ベルモントオークス招待ステークス・ベルモントダービー招待ステークス&スピノザの学知

2019-07-07 19:01:37 | 海外競馬
 日本時間の今朝にアメリカのベルモント競馬場で行われたふたつのレースに日本馬が参戦しました。
 ベルモントオークス招待ステークスGⅠ芝1・1/4マイル。
 ジョディーは押してハナを取り,逃げるレース。向正面に入るあたりでは1馬身半ほどのリード。スローペースでの逃げでしたが,思いのほか隊列は長めになりました。3コーナーに入るところでリードは1馬身に。2頭が外から追いあげてきたのでコーナーの途中から手を動かしてスピードアップ。先頭のまま直線に。2番手でついてきた勝ち馬には抜かれて2番手に。さらに外から併せ馬で伸びてきた2頭にも抜かれ,勝ち馬からおよそ2馬身差の4着でした。
 この馬は日本では重賞3着2回という実績。アメリカの芝はさほどレベルが高くないので,通用したとしてもおかしくはないというレベルの馬。楽なペースで逃げて2番手の馬に差されていますので,勝ち馬に対しては能力的に下だったということでしょう。もしかしたら距離も少し長いのかもしれません。
 ベルモントダービー招待ステークスGⅠ芝1・1/4マイル。
 マスターフェンサーは押していましたが加速が鈍く後方5番手で向正面ヘ。ここから外を回って追い上げていきました。ただ,3コーナーを回ると押してもついていくことができなくなり,実質的に最後尾で直線に。そのまま14頭中の13着でしたが,1頭は競走中止なので完走した馬の中では最下位でした。
 この馬は実績がダートに限られていましたので,芝のレースに対応できるかどうかがまず疑問でした。ベルモントオークス招待ステークスと比べると早いペースになったため,追走にも汲々となってしまいました。早い段階で脚を使ったので直線を迎える前に一杯になってしまったのは仕方がないところでしょう。国内外を問わず,芝で通用するためにはもう少しスピード能力のアップが不可欠といえそうです。

 僕はスピノザは第二種の認識cognitio secundi generisも第三種の認識cognitio tertii generisも学知scientiaであるというと思いますが,この場合の学知は,僕たちが学知という語で意味しようとするところとは異なると考えます。少なくとも,カヴァイエスJean Cavaillèsが何をもって学知といおうとしていたのかということとは異なっていると思います。つまりカヴァイエスがいう学知,これは僕たちが普通に使う意味での学知に近いと思いますが,この学知の意味が,スピノザの哲学ではずらされることになるのです。
                                  
 第二部定理七系は,形相的にformaliter存在するものはすべからく認識cognitioの対象になるということを意味します。僕はスピノザの哲学でいう学知は,この認識のすべてであると考えます。他面からいえば,それを学知というのでなければ,スピノザの哲学には学知はないというべきだと考えます。つまり無限知性intellectus infinitusによって認識されるものはすべて学知であるというべきか,そうでなければ学知はないというべきかのどちらかだろうと考えるのです。
 第二部定理三二は,すべての観念は神と関連する限りで真であるomnes ideae, quatenus ad Deum referuntur, verae suntといっています。スピノザの哲学では,真の観念idea veraの総体のことを真理veritasといいます。したがってこの意味において,学知とは真理と同じ意味です。一方,第二部定理七系の意味は,神Deusのうちにある観念はすべて十全adaequatumであるという意味です。スピノザの哲学では十全な観念idea adaequataと混乱した観念idea inadaequataの関係は,真理と虚偽falsitasという関係だけを意味するのではなく,有と無という関係も意味します。したがってこの意味においていうのなら,学知とは思惟の様態cogitandi modiとして有esseであるものと同じ意味です。
 なぜ僕がそのように考えるのかといえば,第二部定理一一系により,人間の精神mens humanaは神の無限知性の一部だからです。そしてこのことは,とくに人間の精神にだけ妥当するわけではなく,観念にはすべて妥当するからです。このゆえに,たとえば人間にだけ妥当するような学知というものがあるということはできず,学知というものがあるならそれは無限知性の観点から考えられなければなりません。しかるに無限知性の対象となるようなものは形相的に存在するすべてのものなのですから,その観念はすべからく学知といわれなければならないのです。
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