玉野記念の決勝。並びは新田‐永沢の北日本,河村‐武田‐神山‐牛山の関東,古性‐稲垣‐中村の近畿。
新田がスタートを取って前受け。3番手に古性,6番手に河村で周回。残り3周のバックから河村が上昇。古性がすぐさま引いて7番手に。河村はホームに入ると新田を叩いて前に。そのまま後ろの様子を見ながらペースアップしていき,打鐘前のバックではすでに全開。5番手を外の古性と内の新田で併走という状態がホーム手前まで続きましたが,ホームで古性がそのまま発進。武田がコーナー手前で番手から出ていき,バックで古性は一杯。今度は稲垣が自力発進しましたがこれに武田が抵抗。結果的に稲垣は武田の前には出られず。後方の新田が最終コーナーから捲り追い込みをかけ,直線で外から前をすべて飲み込んで優勝。離れず続いた永沢が4分の1車輪差の2着で北日本のワンツー。直線で武田と神山の間を突いた牛山が半車輪差で3着。
優勝した福島の新田祐大選手は昨年10月の向日町記念以来の優勝で記念競輪6勝目。玉野記念は初優勝。ここは河村と古性で先行争いになることが予想され,展開的に有利だろうと思われました。実際には古性が河村を行かせてから発進になったので,武田と古性,そして武田と稲垣で争う形にはなりましたが,脚力が上位で脚を最も温存することができたので,やはり展開面で利があったのは間違いありません。もう少し早く動いてしまってもよかったかなとは思いますが,1着を取っているのですから問題なかったということでしょう。
『破門の哲学』では,『エチカ』の論旨を支える定義Definitioと公理Axiomaのすべては第三種の認識cognitio tertii generisによって齎されているとされています。僕はこの見解には賛同しかねますが,そう主張される理由は分からないではありません。
『知性改善論Tractatus de Intellectus Emendatione』は,神Deusを十全に認識するcognoscereための所与の十全な思惟の様態cogitandi modiを探求するという目的が立てられて,それを解明するために議論が堂々巡りしたまま未完となりました。これに対して『エチカ』では,共通概念notiones communesがそうした思惟の様態として発見されているので,神を十全に認識するということについては何も問題が発生していません。そしてその神の十全な認識を起点として,個物res singularisを十全に認識するということが新たな目的として発生しています。これは『エチカ』において真verumなるものが何かということを解明するための目的というより,倫理的な観点の目標のようなものになっています。
スピノザは第五部定理二四で次のようにいっています。
「我々は個物をより多く認識するに従ってそれだけ多く神を認識する〈あるいはそれだけ多くの理解を神について有する〉Quo magis res singulares intelligimus, eo magis Deum intelligimus.」。
この定理Propositioはスピノザがいっているように第一部定理二五系から明白であるといえます。というのも個物Res particularesとは神の属性を一定の仕方で表現する様態sive modi, quibus Dei attributa certo, et deteaminato modo exprimunturなのですから,個物を認識するということは,神の属性が一定の仕方で表現された様態を認識するというのと同じです。つまり多くの個物を認識するとは,それだけ多くの神の属性を一定の仕方で表現している様態を認識しているという意味になります。だから個物を多く認識することと,神を多く認識すること,いい換えれば神を多く理解するということとは同じことなのです。
そこでこの定理は,もし僕たちが個物を多く十全に認識するなら,それだけ多く神を十全に認識すると読解することができます。ところが,第二部定理三七により,共通概念は個物の本性essentiaの認識,つまり個物の十全な認識ではありません。よって第五部定理二四の意味においては,共通概念およびそれを基礎とした第二種の認識cognitio secundi generisによっては,僕たちは神を十全に認識することはできないということになります。少なくとも,多くは認識できません。
新田がスタートを取って前受け。3番手に古性,6番手に河村で周回。残り3周のバックから河村が上昇。古性がすぐさま引いて7番手に。河村はホームに入ると新田を叩いて前に。そのまま後ろの様子を見ながらペースアップしていき,打鐘前のバックではすでに全開。5番手を外の古性と内の新田で併走という状態がホーム手前まで続きましたが,ホームで古性がそのまま発進。武田がコーナー手前で番手から出ていき,バックで古性は一杯。今度は稲垣が自力発進しましたがこれに武田が抵抗。結果的に稲垣は武田の前には出られず。後方の新田が最終コーナーから捲り追い込みをかけ,直線で外から前をすべて飲み込んで優勝。離れず続いた永沢が4分の1車輪差の2着で北日本のワンツー。直線で武田と神山の間を突いた牛山が半車輪差で3着。
優勝した福島の新田祐大選手は昨年10月の向日町記念以来の優勝で記念競輪6勝目。玉野記念は初優勝。ここは河村と古性で先行争いになることが予想され,展開的に有利だろうと思われました。実際には古性が河村を行かせてから発進になったので,武田と古性,そして武田と稲垣で争う形にはなりましたが,脚力が上位で脚を最も温存することができたので,やはり展開面で利があったのは間違いありません。もう少し早く動いてしまってもよかったかなとは思いますが,1着を取っているのですから問題なかったということでしょう。
『破門の哲学』では,『エチカ』の論旨を支える定義Definitioと公理Axiomaのすべては第三種の認識cognitio tertii generisによって齎されているとされています。僕はこの見解には賛同しかねますが,そう主張される理由は分からないではありません。
『知性改善論Tractatus de Intellectus Emendatione』は,神Deusを十全に認識するcognoscereための所与の十全な思惟の様態cogitandi modiを探求するという目的が立てられて,それを解明するために議論が堂々巡りしたまま未完となりました。これに対して『エチカ』では,共通概念notiones communesがそうした思惟の様態として発見されているので,神を十全に認識するということについては何も問題が発生していません。そしてその神の十全な認識を起点として,個物res singularisを十全に認識するということが新たな目的として発生しています。これは『エチカ』において真verumなるものが何かということを解明するための目的というより,倫理的な観点の目標のようなものになっています。
スピノザは第五部定理二四で次のようにいっています。
「我々は個物をより多く認識するに従ってそれだけ多く神を認識する〈あるいはそれだけ多くの理解を神について有する〉Quo magis res singulares intelligimus, eo magis Deum intelligimus.」。
この定理Propositioはスピノザがいっているように第一部定理二五系から明白であるといえます。というのも個物Res particularesとは神の属性を一定の仕方で表現する様態sive modi, quibus Dei attributa certo, et deteaminato modo exprimunturなのですから,個物を認識するということは,神の属性が一定の仕方で表現された様態を認識するというのと同じです。つまり多くの個物を認識するとは,それだけ多くの神の属性を一定の仕方で表現している様態を認識しているという意味になります。だから個物を多く認識することと,神を多く認識すること,いい換えれば神を多く理解するということとは同じことなのです。
そこでこの定理は,もし僕たちが個物を多く十全に認識するなら,それだけ多く神を十全に認識すると読解することができます。ところが,第二部定理三七により,共通概念は個物の本性essentiaの認識,つまり個物の十全な認識ではありません。よって第五部定理二四の意味においては,共通概念およびそれを基礎とした第二種の認識cognitio secundi generisによっては,僕たちは神を十全に認識することはできないということになります。少なくとも,多くは認識できません。