スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

観念と感情&第五部定理三一

2019-07-18 18:58:24 | 哲学
 第三部諸感情の定義一四の安堵securitasを希望spesから生じる喜びlaetitia,第三部諸感情の定義一五の絶望desperatioを不安metusから生じる悲しみtristitia,第三部諸感情の定義一六の歓喜gaudiumを不安から生じる喜び,第三部諸感情の定義一七の落胆conscientiae morsusを希望から生じる悲しみとみなすと,安堵および絶望と歓喜および落胆の派生のあり方が異なってしまいます。こうした理由もあり,僕はスピノザが第三部諸感情の定義一三説明で,希望と不安を表裏一体の感情affectusといっていることの方を重視し,希望から生じようと不安から生じようと喜びであればそれはどちらも安堵であり,悲しみであればどちらも絶望であるという解釈を採用します。
                                   
 ただしこの場合には,それでは歓喜という感情と落胆という感情をどのような感情としてみるべきなのかという問題が残るでしょう。畠中説の場合には希望が現実化することと不安が回避されること,逆に希望が潰えることと不安が現実化することが別々の事柄とみなされているのに対し,僕の解釈では希望が現実化するときには不安が回避されているのであり,不安が現実化してしまうときには希望が潰えてしまうことになっているからです。
 これを説明するためには,スピノザの感情論あるいは人間の感情のメカニズムというものを綿密に精査していく必要があります。まずその最初の前提だけここでいっておきましょう。
 第二部公理三では,思惟の様態cogitandi modiの第一のものは観念ideaであるといわれています。実際には観念があれば意志作用volitioもあるので,この公理Axiomaの本来の意味は,思惟の様態の第一のものは観念と意志作用であるということになります。一方,第三部定義三から,感情は身体corpusの状態と観念とを同時に意味しますが,思惟の様態としてみられる場合には,観念および意志作用なしにはあることができません。つまり人間の精神mens humanaのうちに感情があるためにはその前に何らかの観念がある必要があります。なお,精神は身体の観念ですから,これは感情が身体の状態を示す場合にも同じです。

 第三種の認識cognitio tertii generisの基礎は,第五部定理二三備考のほかに,第五部定理三一でもっとはっきりとした形で示されています。
 「第三種の認識は,永遠である限りにおいての精神をその形相的原因とする(Tertium cognitionis genus pendet a Mente, tanquam a formali causa, quatenus Mens ipsa aeterna est.)」。
 第五部定理二二では,個々の人間の身体humanum corpusの本性essentiaを永遠の相species aeternitatisの下に表現するexprimere観念ideaが神Deusの中にあるといわれていました。スピノザの哲学では,精神mensというのは身体の観念のことを意味します。したがって,人間の身体の現実的本性actualis essentiaを永遠の相の下に表現する観念とは,人間の精神mens humana,それも現実的に存在する人間の精神のことにほかなりません。つまり第五部定理二二は,現実的に存在する個々の人間の精神が,神の中で永遠の相の下に表現されているという意味なのです。このゆえに,第五部定理二三にあるように,人間の身体の現実的存在が破壊されたとしても,人間の精神は完全には破壊され得ず,あるものaliquidが残るといわれ得るのです。
 もっとも,この残るといわれることの意味は,現実的に存在する人間にとって残るという意味であって,現実的に存在する人間の身体の観念,すなわち現実的に存在する人間の精神は,神の中では永遠の相の下に表現されているのですから,奇妙ないい方ですが,神の側からいえば,それが残るというのは不自然であるということになります。
 第五部定理三一がいっているのは,人間からみれば残るといわれ得る根拠となる,神の中で永遠の相の下に表現されている,現実的に存在する人間の身体の観念すなわち人間の精神が,第三種の認識の形相的原因formali causaとなるということです。このように,人間の精神というのは人間の身体の観念であるという点に注意しさえすれば,第五部定理二三備考でいわれていることと第五部定理三一でいわれていることは,事実上は同じことを意味していることが分かると思います。ただ備考Scholiumの方では第三種の認識の何たるかが主眼となっているのに対し,第五部定理三一では第三種の認識の形相的原因が主眼となっているという点で相違があるのです。
 そしてこの第三種の認識が,第五部定理二五では,人間にとっての最高の徳virtusであるといわれていたのでした。こうしたことは別の観点からもいわれています。
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