スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

山本の決断&第三部定理五三

2017-07-21 19:16:44 | NOAH
 SWSが旗揚げした後,全日本プロレスとSWSが対立した当時の山本の親全日本という態度は,山本が馬場からの利益供与を受けていて,その継続を望んだためではないということの根拠として『1964年のジャイアント馬場』で示されている事柄は,実にシンプルなものです。それは,もし山本が自身の利益を追求することを目的としたなら,むしろSWSを支持するのが得策であったというものです。SWSは全日本プロレスや新日本プロレスとは比較することができないほどの資金力を有していました。だから金のために動くのであれば,全日本よりSWSを支持するのが当然で,しかし山本はそうしなかったのだから,当時の山本の決断は山本自身のプロレス観に基づいたものだったのだと柳澤はいっています。繰り返しますが柳澤はジャーナリストとしての山本を高く評価しているわけではなく,ですがこの点についてはより大きな利益の提供を求めなかったといっていて,かつ理由はシンプルですが,シンプルであるがゆえの説得力があり,確かにこれはこれで合理的な見方であるように僕にも思えます。
                                 
 この当時,山本とは逆に,親SWSの立場を採用した記者も存在しました。柳澤は著書の中では3人の実名を挙げていて,その3人はSWSないしは天龍源一郎から個人的に利益の提供を受けていたのだと解せなくもない記述をしています。このことに関しても柳澤は何らかの取材をしている筈で,確信があってそう解せるような書き方をしているのなら,柳澤のいっていることの合理性はなお高まると思えます。なぜなら山本も利益を享受する側に回ることができたということの確実性は高まるからです。ただ,僕は本当にそうであったのかどうかは判断できませんから,実際にそんなことがあったのかどうかは不明で,ゆえにこの部分は僕自身の判断の根拠とすることも避けます。
 ただし,これは柳澤のいっていることには一定の合理性があるということであって,実際に山本の決断が自身の良心にのみ依拠していたものと断定まではできません。むしろそうではなかったということもできるようには思えます。

 第五部定理一五は,スピノザ哲学についていわれるいわゆる神への知的愛Amor Dei intelletualisの最初の基礎となる定理Propositioです。したがって,この定理でいわれている神がどのような神であるのかということは,神への知的愛といわれるときの神がどのような神であり得るのかということと関係してくるのです。
 ここではこの定理を詳しく探求するのですが,僕の関心はもっと広くわたっているのであり,ここからの探求はその関心の一例であるというように理解しておいてください。もう少しだけ具体的にいえば,僕は「知性の能力あるいは人間の自由についてDe Potentia Intellectus, seu de Libertate Humana」と題されている第五部において,現実的に存在する人間の精神mens humanaによって認識される神と,「神についてDe Deo」と題されている第一部の神との間には,全般的に飛躍が含まれているのではないかという疑問を抱いているのです。
 それではスピノザによる第五部定理一五の証明Demonstratioの検証を始めます。ただし,この検証のためには必要な前提というものがあります。というのは,スピノザの哲学でいわれる愛というのは,第三部諸感情の定義六から明らかなように,喜びlaetitiaの一種とみなされているからです。いい換えれば愛はそれ自体で基本感情affectus primariiであるというわけではなく,基本感情のひとつである喜びの一種なのです。したがって神に対する愛というのは,知的であるといわれようといわれなかろうと,神という外部の観念を伴った喜びLaetitia, concomitante idea causae externaeです。いい換えれば神を認識することによってある人間が喜びを感じたなら,その人間は神を愛しているということになるのです。したがって,観念対象ideatumが何であるのかということとは無関係に,ある種の認識cognitioが必然的にnecessario喜びを生じさせるのであれば,人間は必然的にその観念されたものを愛することになります。とくに神への知的愛といわれる場合の神への愛の場合には,こうした一種のシステムが重要なのです。そしてそうしたシステムのひとつを示している定理が,第三部定理五三です。
 「精神は自己自身ならびに自己の活動能力を観想する時に喜びを感ずる(Cum Mens se ipsam, suamque agendi potentiam contemplatur, laetur)。そして自己自身ならびに自己の活動能力をより判然と表象するに従ってそれだけ大なる喜びを感ずる」。
 この定理は複雑な意味を有します。
コメント
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