スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

春までなんぼ&最高の満足

2019-07-22 19:15:35 | 歌・小説
 「生まれた時から」が収録されているのは「はじめまして」というアルバムです。この中に「春までなんぼ」という楽曲も収録されています。
                                   
 この曲は歌い方に特徴があって,それがこの楽曲のよさを際立たせています。つまり,歌詞とメロディーラインだけで評価するのは危険で,どのように歌うべきなのか,すなわち歌唱方法を抜きに評価することは不可能だと僕は思っています。
 それでもここでこの曲について僕が語ろうとするのは,その点を抜きにしても,この楽曲の中には怖さを感じさせるフレーズが含まれているからです。

     いらない鳥を逃がしてあげた
     逃がしてすぐに 野良猫喰べた
     自由の歌が親切顔で
     そういうふうに誰かを喰べる


 籠の中の鳥を自由にしてやろうと逃がしたら,すぐに野良猫に食べられてしまったということですが,そういうふうにだれかを食べる自由の歌がある,それも親切顔で食べてしまうというところに,僕は怖さを感じてしまうのです。
 こういう感覚を受けるフレーズは「吹雪」と「春までなんぼ」のふたつが,僕にとっては代表です。

 第三種の認識cognitio tertii generisは個物res singularisの認識です。そして第五部定理二四によってその認識は神Deumの認識です。ですから第二種の認識cognitio secundi generisは徳virtusではあり,しかし最高の徳であるか否かは認識される対象が神であるか否かによって決定されるのですが,第三種の認識は必ず神の認識なので,それは単なる徳ではなく必ず最高の徳です。一方,第三種の認識も十全な認識ですから,そこから自己満足acquiescentia in se ipsoが発生する場合は,人間の精神mens humanaの能動actioによって自己満足が発生するということになりますから,最高の満足でなければならず,これが第五部定理二七でいわれていることです。したがって,能動的な自己満足が最高の満足であるという視点に立てば,第四部定理五二と第五部定理二七は,ともに正しいことをいっているということはできます。どちらも能動的な自己満足であることに変わりはないからです。
 しかし,スピノザは第二種の認識については共通概念notiones communesを基礎とした認識である,いい換えれば共通概念を原因causaとして僕たちの精神のうちに第二部定理四〇の様式で生じる思惟作用であるといっているのに対し,第三種の認識は第五部定理三一にあるように,僕たちはそれを十全に認識するcognoscereことはできないけれども,神の中には確かにあるということは第二種の認識によって十全に認識することが可能な,永遠aeternaである限りにおける精神を形相的原因formali causaとする認識であるといっているように,ふたつの認識を,単に認識される対象が何であるかということだけで区別しているわけではなく,それらの認識の原因の観点からも区別しているので,第二種の認識から生じる自己満足が最高の満足であるということと,第三種の認識から生じる自己満足が最高の満足であるということが,両立することができるようには僕には思えません。確かに第四部定理五二は単に最高の満足といっていて,これは精神と身体corpusが合一した人間にとっての満足であるのに対し,第五部定理二七は,単に最高の満足とはいっておらず,最高の精神の満足であるといっているので,思惟の属性Cogitationis attributumの様態modiとしてみられる限りでの人間の最高の満足について言及しているといえなくもないのですが,この解釈は強引な解釈ではないかと僕には思えるのです。
コメント
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