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津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■とほほな話

2021-12-10 09:07:08 | 書籍・読書

 全く同じ時期に、二件の同じようなものがヤフオクに出品された。それも隣同志に表示してあった。
私は左の方の「万延元年第一遣米使節日記」の方に応札するつもりで居たが、何を間違ったか「万延元年遣米使節航米記」肥後国史料第二巻 木村鉄太著を求めてしまった。手続きのあいだ中、全く気付くことがなかった。
私はこの本は箱なしの裸本を所蔵している。後の祭りで同じ本を二冊所有することになってしまった。
こうなると、本来求めようとしていた「万延元年第一遣米使節日記」を購入しようという気はすっかり失せてしまった。
うっかりは私の生来のものだが、歳のせいではないと思いたい。

       昭52「万延元年第一遣米使節日記」芝間嵩吉編 413P/336P 復刻 限定のうち167号       昭49「万延元年遣米使節航米記」肥後国史料叢書第二巻 木村鉄太著
         「万延元年第一遣米使節日記」芝間嵩吉編             「万延元年遣米使節航米記」 
         413P/336P 復刻 限定のうち167号                肥後国史料叢書第二巻 木村鉄太著     
           

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■肖像画

2021-12-10 06:53:54 | 徒然

 一昨日夕方のTVでは、八代松井家の当代・葵行(ミチユキ)様の祖父・明之(ハユユキ)様、父・祥之(ナガユキ)様の肖像画が地元の日本画家の手により完成しお披露目されたことを報じていた。
夫々裃を付けられた写真などが残っており、これを参考に仕、松井家に残る顔料を使って八代産の和紙に書かれたとの事である。
康之公以来15代の肖像画がそろったことになる。年に一回今の時期にまたご披露されるようだ。

 もう6~7年にもなろうか、友人で日本画家MTさんが「有吉立行公」の肖像画を復元されたことがあった。
有吉本家にあったその肖像画(御軸)は火事か何かで失われたようだが、写真が残されていてこれが提供された。
その考証が大変で裃の付け方、帯の結び方、また座られている疊座の種類(高麗べり)の文様をどうするかなど多岐にわたり苦労をされた。一々下絵を送りご当主と相談が繰り返され一年ほどかけて完成したように記憶する。
ご当主の御歓びは一方ならぬものがあった。

最近私は、10数年来追いかけていて、もう手に入れることはできないだろうと思っていた、「有吉将監」という本を手に入れた。
この本のページをめくっているうちに、思わず「あっ」と声を上げたしまったが、なんと全く同じ「立行公」の肖像画がそのお位牌と共に写真で紹介されていた。有吉家のものは失われていたが、複製かとおもわれるものが額縁仕立てで残存していたのだ。
これは現在・有吉立行(将監)公の墓所がある京都与謝郡の「浄見寺」が所有するものだが、この本の著者が提供されたものだという。失われた有吉家の御軸を写真撮影されたものではなかろうか。

 さて私は我が家に残る高祖父の写真をみて、此の頭にちょんまげを乗せて、羽織袴で正座した肖像画はできないものかと考えたことがある。先に記したような皆さんのご苦労を考えると、これは顰蹙(ひんしゅく)ものであろうと反省しきりである。

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■川田順著・細川幽齋「歌仙幽齋」 選評(八)

2021-12-10 06:49:16 | 書籍・読書

       「歌仙幽齋」 選評(八)

 君が代に高麗もろこしも隔てなく運ぶ心やみつぎなるらむ

 春部、對馬宗讃衆閑齋といふ人との贈答歌で、何年の事ともわかりかねる。又、閑
齋も對馬國守の一族にちがひないが、本名も知り難い。閑齋から、

 天が下なびきしたがふ大君にはこぶ御調をすすむ高麗人

と贈つたのに對する返歌である。宗氏は日韓の中間に在つて外交を取次してゐたのだ
から、かやうの場合は屢次であらう。幽齋のうた、「隔てなくはこぶ心」が貢物なの
で、必ずしも珍器財寶の多寡に關せずと云つたところが宜しい。兩國の關係は、まさ
にさう有らねばならなかつた。贈答歌集にむしろ平凡の如くだが、當年の歴史を考へ
ながら讀むと、あながち捨てることはできない。


 瀧浪のおつとは見えて音せぬや花にまされるみかさなるらむ

 春部「文禄三年二月廿九日關白殿吉野の花御覧のとき人々五首の歌つかまつりける
に瀧の上のはな」。六十一歳の作。此年二月廿五日秀吉大阪城を出で、吉野に赴き、
前代未聞の觀櫻會を催す。歌會は廿九日のこと。歌の作者は道澄・秀吉・秀次・晴季
・親綱・輝資・家康・秀保・秀俊・秀家・利家・永孝・雅枝・正宗・常眞・幽齋・全
宗・紹巴・由己・昌叱と二十人あつて、公式一座。眞白に泡立つて瀧つ瀬の浪が奔り
落つるかと眼には見えながら、さ程にも浪の音のしないのは、落花が浮いて流れるの
だ、花で水景が増した如く見えるのであらう。美しくは詠めてゐるけれども、古來類
想の歌はある。「瀧浪」たきつ河内の宮瀧ではなく、吉野山中の渓流の早瀬を詠んだ
のであらう。

 吉野川たぎつ水泡の色そへて音せぬ浪とちる櫻かな(新葉集)

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■盗人島

2021-12-09 16:39:14 | 熊本

   私は釣りというものは全く不得手である。
最近の朝散歩で、公園で日向ぼっこをしている数人の老人たちが釣りの話をしていた。
通りがかりの事ではきとしないが、「ようえ」ときこえる。どうやら松尾町の要江のことらしい。
ここは現在では百貫港として知られるが、もともとは要江と言っていた。坪井川と白川が流れ込む河口で、釣り好きの人たちが獲物を狙って集まってくるらしい。
坪井川をわずかに遡ると藩政時代に栄えた「高橋」がある。熊本城下への船便が坪井川と今では流路を異にする井芹川を上っていた。明治期には百貫電車が走り終点だったのだろう。
清正時代の熊本城の築城にあたっても、石材が水運によってもたらされたようだ。

この要江付近に盗人島があったらしいことが、「地衝き音頭」などでうかがえる。
「あら、えいとえいと」と一節ごとに合いの手が入り、私が幼いころまではあちこちの普請現場で見受けたものである。
この盗人島の場所を承知しないが、かって「灯台」があったらしい。島といってもその灯台を設ける位の岩場ではなかったのか。
「盗人島の帆掛け舟、大物かけて入る舟」とあるから、灯台をめかけて多くの船が行き来し、坪井川から高橋の方へ上っていたのであろう。
さきにちょっと触れた「御大工棟梁善蔵聞書控」やこの「地衝き音頭(永棟節)」などを深く研究がなされることを望みたい。

 

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■16ヶ月ぶりの再登場「湯浅五郎兵衛」の文書

2021-12-09 08:13:26 | オークション

 この品物は以前出品されたことがある。■ヤフオク二件(2020:8:24)でご紹介したが、湯浅五郎兵衛の名前を憶えていた。
前回は落札者がなかったのだろう、再び出品されたがこの度は応札者が居られて何方かが手に入れられることになる。
      【真筆】湯浅五郎兵衛 書状 (消息 江戸時代 武士 古文書 折紙 細川家 園部藩 細川忠利 大師流 掛軸)

              

 前回同様参考とことわって読み下し文がつけてあるが、間違ががあるように見受けられる。落札者において完読を願いたいものだ。
ついでに申し上げると、この人物は寛永五年から七年にかけて三件ほど小倉細川藩の「奉行所日帳」に名前が見える。
それによると、豊前時代の細川藩に召し出されていたようだ。寛永九年の細川家の肥後移封の頃にでも、細川家を離れたのではなかろうか?一族と思われる湯浅角兵衛は500石取り、こちらは細川家の肥後入国に随ったが、綱利の時代陽明学徒により追放された。


 ■日帳(寛永五年九月)廿三日
         |一、同湯浅五郎兵衛も御供ニ付、御鉄炮衆井門亀右衛門与都甲茂兵衛付遣候事、

 ■日帳(寛永七年一月)廿日~廿一日
         |              (側)                                               (横田)  (冨田)       (不破)

御弓鉄炮足軽ノ肩 |一、大橋へ被成御座候時、御例御弓・御鉄炮衆之かた替、四人は権佐与、三人ハ十太夫与、壱人ハ角
替        |        (湯浅)
         |  丞与、二人ハ角兵衛与、壱人湯浅五郎兵衛ニ付也、

          参考:湯浅角兵衛・・五郎兵衛の親族か 
                  側鉄炮頭 五百石 (於豊前小倉御侍帳)
                  御側弓鉄炮頭并組外衆 鉄炮頭 五百石 (肥後御入国宿割帳)
                  長岡監物組 五百石 (寛文四年六月・御侍帳)
                  五百石 寛文九年十月御暇被遣候 (※)陽明学徒追放による(十月七日とも)

 ■日帳(寛永七年三月)十ニ日
矢嶋某伜ノ初見皆 |一、矢嶋平三郎申候ハ、主子歳十六ニ成申候、今日湯浅五郎兵衛奉ニ而、皆川治部御取次を以、御目

川治部取次グ   |  見へ仕せ候由申候事、

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■部分御舊記・軍事部九(9)寛永拾五年肥前国於有馬原城働之御帳・4

2021-12-09 06:54:18 | 史料

                        寛永拾五年肥前国於有馬原城働之御帳・4

一、中山長吉
  一、二月廿七日敵本丸へ引取可申内ニ参本丸石垣下之坂中にて敵壱人鑓付鉄炮手負申候
      証人合申候

御切米取
一、矢野吉丞                     ィ鑓
  一、二月廿七日有馬二ノ丸にて小屋之口にて敵ハ内より鉄にて私は小屋の外より鑓にて突合仕留申候 其後本丸石垣へ
    上
り前後著申候而追付乗込申候
  一、廿八日本丸にて鑓を合敵一人突伏申候
      証人合申候

御切米取
一、郡 安左衛門
  一、二月廿七日有馬本丸犬走へ上り塀の破より鑓を合鑓にて突落あれ申候 石にてもたひ/\打おとされ申候 其後又上
    り可申と仕候処小笠原備前被申候ハ手負申候間引取候へと被留候ニ付而引取申候
      証人合申候

御切米取
一、野々村藤大夫
  一、二月廿七日有馬本丸塀の破口にて鑓を合其後本丸にてもやりにてかち合突たおし申候
      証人合申候

御切米取
一、渡辺平左衛門
       (ママ)鶴
  一、私儀隺崎ニ鍛冶奉行被仰付居申候 今度御陣ニ付而私叓石火矢・大筒打申候間御供仕度由御家老衆・御奉行衆江御
    理申上候ヘハ御吟味之上被遣則石火矢・大筒打申候
  一、二月廿七日城乗之刻有馬之城二ノ丸にて敵十四五人程居申所へ参会なた長刀にてかゝり申敵三人鑓にて仕留申候
      証人合申候

御切米取
一、財満平左衛門
  一、二月廿七日有馬原之城二ノ丸にて敵十二三人かたまり居申所へ参かゝり私ハ杖にて山刀・長刀持申敵其長刀をつ
    ゑにて打落し取申候 其長刀にて弐人仕留候 夫ゟ本丸江も参乗込申候
       証人合申候

一、藤本勘介
  一、二月廿七日有馬城乗之刻小笠原備前組之昇奉行仕候 昇之者參かね候を備前小姓に昇を持せ勘助手鑓を引本丸犬走
    に著申候 其時石にて数度うたれ痛申二付御人数乗込不申内ニ引取申候
       証人合申候

一、柏木少九郎
  一、二月廿七日有馬本丸石垣八分ほとにしハらくこたへ居申其後本丸にて高名仕候
  一、廿八日本丸にて鑓を合高名仕候
        証人合申候

一、小林半大夫
  一、二月廿七日有馬本丸石垣半分ほとにしはらくこたへ居申其後乗込申候
  一、廿八日本丸にて刀・脇差・長刀にて働申敵一両人鑓付申候
        証人合申候

 右之衆働之義面々差出ニ御座候証拠人之書物を取引合相違無御座候間書付上申候
    寛永拾五年七月五日       清田石見守
                    志水新丞
                    小笠原備前
                    長岡式部少輔
                    長岡右馬助
                    有吉頼母佐
                    長岡佐渡守
       坂崎内膳正殿

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■東十八間櫓

2021-12-08 12:46:01 | 徒然

 我が家の先祖附に眼を通していたら、「四代吉左衛門儀 延享四年(1747)二月十九日東御櫓番被仰付旨三渕志津馬殿被仰渡・・」とあるのに、ふと思うことがあった。
熊本地震前にこれらの櫓軍の内部が解放され見学できるということで出かけたことがあった。
先祖附には「東御櫓」とあるが、「東」と冠する櫓は「東十八間櫓」しかなく、そうだとしたらこのでかい御櫓番をおおせつかったということになる。
このでかい櫓はどのように使われていたのかはよくわからないのだそうだ。
丁度この場所は熊本大神宮の後背地の高石垣の上に当たり、石垣が崩壊し櫓も大崩壊し大神宮の建物に覆いかぶさるように落下した。
     熊本城の被害状況 p14の被害状況写真⑥が大神宮建物に覆いかぶさった東十八間櫓
地震後に出かけた折、惨状を目の当たりにしたが、親しんでいた高石垣上の櫓の雄姿はまったくなく見るも無残で涙したものだ。
これらの建物の残骸が再生に向けてかたずけられ、石垣の整理もされて今日に至っている。
はたしてこの石垣と櫓の復元はいつのことになるのだろうか。
どうやらその姿は見ることは出来ないだろう。来年一月に誕生日を迎えると80歳の私である。

       

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■川田順著・細川幽齋「歌仙幽齋」 選評(七)

2021-12-08 08:08:31 | 先祖附

      「歌仙幽齋」 選評(七)

 はるばると山をめぐりの夕月夜西に入江の影を見るかな

 雑部「廿四日肝付よりめぐりといふ所までつきて大安寺に泊りけるに、夕月夜をか
しくさしうつるをみて」。廻城は大隅國姶良郡福山の地で、西面して海に倚る。われ
は遙々と山地をめぐり歩いて來て、只今この廻城に着くと、日は既に暮れ、早くも上
弦の夕日が出てゐたが、それもやがて西方の入海の向うに落ちようとしてゐる、その
影を面白くも、さびしくも眺めをることよ。相當複雑なことを手際よくまとめてゐ
る。廻城の地勢なども、簡單だが的確にいひ現はしてゐる。「山をめぐりの」は勿論
縣詞であり、「西に入江の」も亦、月が入ると詞を縣けたのである。二條流の好む技
巧。

 あづまより越えくる春も隼人の薩摩路とほく立つ霞かな

 春部{文禄二年薩州鹿児島に年をとりての元旦に」。歳久問題は前年 文禄元年  七月十
八日彼が死を賜ひ自刃したことによつて落著したのだが、幽齋は引續き薩隅日三國の
檢地を見届けよと命ぜられて、南九州に淹留した。それで右の如く新年の作。東方よ
り來るとうふ春の足早く、元日の今朝すでに西陲薩摩の海山までも、かやうに麗らか
に霞が立つてゐる。第三句枕詞の「隼人」は「早く」と縣詞にもなつてゐる。遠國に
て又一つ年を加へたことの感慨である。萬葉集の長田王は大和から來られて、

 隼人のさつまのせとを雲居なす遠くもわれはけふ見つるかも

とあつさり詠まれたが、二條流の幽齋さうはまゐらず、手の込んだ歌ひ方をした。乍
併、相當に感じの籠められた佳吟ではある。

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■部分御舊記・軍事部九(8)寛永拾五年肥前国於有馬原城働之御帳・3

2021-12-08 06:56:56 | 史料

                        寛永拾五年肥前国於有馬原城働之御帳・3

一、小林半三郎
  一、二月廿七日有馬本丸塀下に著申候 石を打鑓・長刀振廻ろ申者見へ申候間鑓を入突可申と仕所私鑓を切申候 此以前
    石
垣へ上り申候所を二三度うち落され申候
      証人合申候

一、上田忠蔵
  一、二月廿七日有馬本丸犬走へ上り申所を石にて打落され申候 其後両度右之乗口へ上り申候所打落され申候 石垣際を
    前後はなれ不申本丸へ乗込申候 夜ニ入引取与頭之傍へ參手負候通組頭に理引取申候
      証人合申候

一、服部九右衛門
  一、二月廿七日有馬二ノ丸にて鑓を合申候ヘハ敵引申候を追縣鑓を合申候
  一、同日本丸へ乗込敵突テ出味方なたれ申候所をふミ留申候
      証人合申候

一、河喜多八助
  一、二月廿七日有馬本丸石垣ニ著犬走へ乗上り申所を石にて打落され申候 又乗上り申所を石にて打落され申候所に何
    も引取候へとの御使にて引申候
      証人合申候

一、生嶋平左衛門
  一、二月廿七日有馬本丸石垣も塀も崩候處へ著申候 其後乗込小屋より敵三人出申候所を一人仕留申候 其後寺本八左衛
    門を敵突申候所を脇より其敵之鑓私取申候
      証人合申候

一、樹下山三郎
  一、二月廿七日有馬本丸犬走へ上り居申石にて打落され申又塀下へ著申候所を又石にて打落され又塀下ニ著其後御下
    知にて引取申候
      証人合申候

一、山本三蔵
  一、二月廿七日城乗之刻被仰付候楯板を持せ参り本丸石垣下ニ著其後本丸にて両度敵に鑓を合高名仕候
     (証人の記述なし)

一、清成八十郎
  一、二月廿七日有馬本丸犬走へ上り居候処ニ而鑓ニ而突落され申候 又犬走へ上り申候所に又目の下を鑓にてつかれ痛
    申ニ付廿八日ニハ夫罷出候
      証人合申候

一、岡本四郎三郎
  一、二月廿七日有馬本丸犬走ニ上り居敵鑓にて突申候所を鑓うばい候得とも石垣ゟころひ落申候 私親源次手負申ニ付
    十四五間程かけ退石際際に著申候
      証人合申候  

一、野瀬角太夫
  一、二月廿七日有馬本丸石垣ニ著さまより鑓を合申候
  一、廿八日本丸にて敵長刀を持かゝり申所を仕留申候 又同所にて小屋之内敵鑓を持働申所を仕留申候
      証人合申候

一、井上新丞
  一、二月廿七日有馬本丸石垣に著居乗込城内にて長刀持申敵に鑓を合鑓付申候
  一、同日脇差を持居申者を鑓付申候
  一、廿八日前後与頭に付居申候

 

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■豊後切支丹布教の拠点としての「高田」「清田」

2021-12-07 16:20:22 | 書籍・読書

先に ■熊本藩豊後鶴崎のはなし でご紹介した「川の中の美しい島・輪中ー熊本藩豊後鶴崎からみたせかい」を読んでいる。


 この本は三本の柱で構成されている。1・高田地区の輪中、2・輪中の刀鍛冶、3・切支丹布教の拠点としての高田である。
それぞれが大変興味深く面白く読ませていただいた。まさか九州のそれも熊本藩豊後領にこのような輪中があるとは知らず、その独特の景観に一度訪れてみたいという思いを強くした。
一方「豊後切支丹布教の拠点」として高田が上げられているが、その中で「清田」地区の名前があった。
天正13年の切支丹数として豊後府内に1,052人、輪中を構成する大野川流域に4,565人の数が上げられているが、そのうち高田地区に1,365人、清田地区が一番多く1,474人であったとされる。

そして筆者は「イエスズ会日本年報(上)」の記事を引用しておられるが、その文章は「府内より2レグワ(二里)を隔てた高田においては、初め少数のキリシタンがあつたが、多数の貴族が説教をするためにイルマンを派遣せんことを懇願し、これを派遣した後700人が洗礼を受け、その後暫くして更に50人が洗礼を受けた。つぎにその家に200人を有した一人の殿が洗礼を受けたが、夫人は偶像に熱心であったため、夫は彼女にデウスの教を聞かせることが出来なかった。併し彼女は室内にあって密かに説教を聴き、精霊に動かされて、身分の高さを厭はず、多数の親類及び家臣が聴いていた室に入り、イルマンにむかって、「自分はキリシタンとなる決心でなかったが、汝の説教を聴いて審理を悟りまた今日までの一生の誤を知った故洗礼を浮(?)くることを望む。またこれについての自分の喜びを知らんためわが家に来たりてみよ」と言ひ、彼女は一家を支配してゐた故、子女、親戚及び夫と共にキリシタンとなった」とある。

そして筆者はその一族を吉岡氏と比定された。夫人とは天正15末~16年にかけて薩軍と戦った妙林尼と想起しておられるが、一方夫人が受洗した記録がないともされている。

 私はすぐさま「大友の末葉・清田一族」編者であられる清田幸一氏から頂戴した一枚の絵図が頭に浮かんだ。
高田の輪中こそ描かれていないが、大野川の対岸に「清田」地区が描かれている。
清田一族の発祥の地は大分市上判田の小嶽山であるとされる。「清田」地区はまさにこの上判田であろう。
高田と清田は距離にして7~8㌔である。
そうすると著者が否定されたその一族は吉岡氏ではなく、大友一族の清田氏と考えるのが妥当ではないのか?
殿とは清田鎮忠であり、夫人はジュスタのことであろう。ジュスタの先夫との娘・マダレイナは後に殉教する。
再婚した鎮忠には二男一女があり、女・涼泉院はキリシタンであり、肥後切支丹史調査資料に「私(細川)家来清田石見母轉切支丹涼泉院」という類族系図が残されている。
涼泉院はこれも切支丹の志賀氏から養子をむかえたが、これが清田鎮乗(寿閑)であり、その嫡男が名高い清田石見であり、女・幾知は細川忠興の側室として、立孝(宇土細川家祖)、興孝(細川刑部家祖)をなした。

 一冊の佳書が私の心をとらえている。私は著者のご努力に大いに敬意を表する中で、密かな疑問としてこのように思い至った。是が正しいかどうか今後の問題としたいが、清田家関係者の皆様にもご連絡して研究を続けたいと思っている。

 

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■川田順著・細川幽齋「歌仙幽齋」 選評(六)

2021-12-07 06:39:51 | 先祖附

      「歌仙幽齋」 選評(六)           ー 今回は特に肥後八代の事が取り上げられているー

 影も見じ日數をうつす旅衣身をやつしろの池の鏡に

 雑部「肥後國八代にとどまりける日池を見侍りて」。幽齋は文禄元年七年、秀吉の
命によつて、島津歳久不始末の責を兄義久に問ふべく、名護屋から薩摩へ出張した。
右はその往還いずれかの際の作であらう。歌意、この鏡の池に水鑑して見ることは致
すまい、案外に旅の日數を重ねて、やつれた自身の影を覘くのは、心憂きことぢやに
よつて「日數をうつしす」は移すであるが、鏡の縁語の映すにもなつている。「身をや
つしろ」は、むろん八代にやつすを懸けたのである。石川丈山が洛北に隠棲した時の
述懐、

 渡らじなせみの小川は淺くとも老の浪そふ影もはずかし

は、幽齋の作に似通つてゐる。八代の鏡の池、肥後八代の南少許に麥島城あり、その
城のほとりに鏡の池といふ名勝があつた。

 流れてのなほ行末を頼むかな身は白川の池とみながら

 雑部「影も見じ」の歌に續きて、「同國の白川をわたりて」と題す。白川、いま審
ならざるも、玖磨川の支流なるべし。かやうに遠國を旅し、さすらひ行く唯今のわれ
なるも、なほ將來浮ぶこともあらんと心頼みにする、といふ歌意である。一國一城の
主にして、豐太閤に重寶がられ、大役を荷つて旅行せる彼としては、感傷が過ぎてゐ
る。この時、偉人の幽齋は影を潜めて、ただの歌人の、而かも二條流歌人の幽齋が、
ちょいと表面で出たのであつた。「身は白川の」我が身の行末は知り難きしら川と詞
                はかな
を縣け「泡と見ながら」ひどく無果敢がつておのれをその水流の泡沫と感じた。

 流れての世をも頼まず水の上の泡にきえぬるうき身と思へば (後撰集)

 ゆく水の泡ならばこそ消えかへり人の淵瀬を流れてもみめ  (拾遺集)

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■Puff, the magic dragon

2021-12-06 11:04:08 | 徒然

 私が英語歌詞の歌で一番最初に覚えたのがピーター・ポール&マリーの「Puff, the magic dragon」である。
当時、「明星」や「平凡」という芸能雑誌?があったが、このような楽曲の楽譜付きで歌詞が紹介された付録がついていた。
ギターコードもふってあって、私もほんのわずかだが練習をした思い出がある。
これを私はずいぶん長い間捨てることなく所持していたが、最近見かけることが出来ないのは地震後処分したのであろう。


  Puff, the magic dragon lived by the sea
  and frolicked in the autumn mist in a land called Honah Lee.
  Little Jackie paper loved that rascal puff
  and brought him strings and sealing wax and other fancy stuff.

子供に童話を読み聞かせるように、歌詞が展開していく。当時は日本語訳を考えることなく、ただ一生懸命英語の歌詞を諳んじようと頑張ったものだ。
音楽喫茶やジャズ喫茶などにも足を運んだものだが、歌声喫茶などもありこの曲も歌われていたように思う。

ただし、英語歌詞となるとお客の歌声が途端に静かになったように思う。歳を取ると、このような些細な思い出が本当に懐かしく思い出される。
           YouTube Puff, the magic dragon

   人には誰にでも若い頃の思い出深い音楽シーンがあるだろう。
先に
■THE END OF THE WORLDを書いた後、ある方からコメントをいただき、「スキーター・デイビスのレコードを買ったのは東京オリンピックの頃でした。その頃、校則に反して行った城東町の喫茶ジローで、無理を言ってそのレコードを廻してもらいました」とあった。
「喫茶ジロー」懐かしいな~

 

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■部分御舊記・軍事部九(7)寛永拾五年肥前国於有馬原城働之御帳・2

2021-12-06 06:50:12 | 史料

                      寛永拾五年肥前国於有馬原城働之御帳・2

一、松山次郎大夫
   一、二月廿七日有馬原之城二ノ丸にて鑓を合突たをし申候 鑓手負申候ニ付二丸より引取申候
       証人合申候

一、小崎与次兵衛
   一、二月廿七日有馬原之城本丸犬走へ上り貴利志丹と鑓にて突合申候所を内より鑓にて突落され又犬走ニ上り申候
     所を石にて打落され申候 御下知にて引取御本陳へ參申候
       証人合申候

一、岡部庄之助
   一、二月廿七日有馬原之城本丸石垣ニ著鑓にてからち合私鑓を切をられ石にて打落され其後又石垣際へ著申候 其所
     石を打申ニ付而なたれ候へとも残り居申御下知にて引取御本陳へ參申候
       証人合申候

一、猿木何右衛門
   一、二月廿七日有馬原之城本丸犬走へ上り塀ぐいに取付塀裏にて鑓にて突合申候 内より鑓にて突落され石にても打
     おとされ申候 御下知にて引取御本陳へ參申候
       証人合申候

一、矢野勘左衛門
   一、二月廿七日有馬原之城本丸石垣半分程上り内より鑓突出し申所を私も鑓にてつき申候ヘハ私鑓を切おり申候 其
     後何も同前ニ乗込申候
       証人合申候

一、柳瀬茂左衛門
   一、二月廿七日有馬原之城本丸石垣犬走ノ上にて塀の破より敵鑓を突出し申所私も鑓にてからち合手負申ニ付引取
     申候
       証人合申候

一、下村五兵衛
   一、二月廿七日有馬原之城本丸犬走へ両度上り両度なから鑓にてからち合申候 御下知にて引取申候
       証人合申候

一、広瀬 杢
   一、二月廿七日有馬本丸石垣へ著犬走へ上り申所を内ゟ鑓にて右之肩先を突石垣下へ突落され申候 御下知にて引取
     申候
       証人合申候

一、樹下右衛門
   一、二月廿七日有馬本丸石垣ニ著犬走へ上り塀ニ著申候而鑓にて突落され申候 又上り申候所を突落され手負申候ニ
     付而小屋へ引取申候
       証人合申候

一、町 熊之助
   一、二月廿七日有馬本丸石垣へ上り塀裏ニ著申候所を矢さまより鑓にて私胸を突申候 其鑓を私取候 其後石手負候
     夫より本丸へ乗込申候
   一、廿八日本丸柵之内へはいり鑓をなけつきニ仕又しゆりけんうち申候者弐人突留申候 其後手負申候而痛申ニ付引   
     取申候
       証人合申候

一、鎌田源大夫
   一、二月廿七日有馬本丸石垣へ少上り鑓を合私鑓を切おられ申候 石にてもいたれ申候 夫より本丸乗込申候
   一、廿八日本丸にて鑓をなけつきニ仕又しゆりけんうち申候もの両人突留申候
       証人合申候

一、竹内次郎大夫
   一、二月廿七日有馬本丸犬走に上り塀の破御座候所にて鑓ニ而からち合申候 其後石垣之原へ上り鑓を城内へ突入申
     候所ニ鑓之しほくひを敵とらへ申ニ付引合引かち申候 夫より本丸へ乗込申手負候而退申候
       証人合申候

一、福田次郎右衛門
   一、二月廿七日有馬本丸水手須戸口際へ上り申刻鉄炮にてほかミの下を打ぬき申候得とも其手にかまい不申石垣ニ
     著申候を又右之肩先に鉄炮中り申すニ付引取申候
       証人合申候

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■川田順著・細川幽齋「歌仙幽齋」 選評(五)

2021-12-05 14:24:48 | 先祖附

      「歌仙幽齋」 選評(五)

                もろこし 
 日の本の光を見せてはるかなる唐土までも春や立つらむ

 春部「天正二十年入唐の御沙汰ありし年の元旦に」と詞書あり。天正二十年、改元
して文禄元年、幽齋五十九歳。朝鮮征伐の發令は前年九月下旬、諸將の部署を定めた
のは今年正月、諸軍渡海の開始は三月中旬、秀吉京都出發は同月廿六日であつた。か
やうな歴史的の年の元旦に幽齋は右の秀歌を詠じた。曠古の壯擧を背景にして、すば
らしい出來榮えである。「日の本の光をみせて」「唐土までも」聖徳太子が随に遣さ
れた國書の冒頭に「日出づる處の天子、書を、日没する處の天子に致す、恙なきや」
と書かせ給うた古を想はせる。皇國の光が大陸に及ぶと賀頌したので、國運を豫言し
てゐる乎とさへ思ふ。「春や立つらむ」春色は東より來て西漸する。藤原俊成の歌、

 今日といへば唐土までも行く春を都にのみと思ひけるかな

は同じく立春を題としても、のどかな大宮人の歌である。又、後の本居宣長、

 さしいづるこの日の本の光より高麗唐土も春を知るらむ

は至極堂々たる國祝ぎながら、幽齋に一歩先んじられたとと云つてもよかろう乎。尤
も、宣長のは一層おほらかで、悠揚としてゐる。幽齋のは「光を見せて」と能動的に
しかけてゐる。それは大陸遠征の擧が起り、中心に積極無雙の豐太閤が控へてゐたか
らであらう。詞書「入唐の御沙汰」云々、むろん秀吉が大陸までも出向ふといふこと
である。

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■四日ぶりの散歩

2021-12-05 10:17:02 | 徒然

 どうやら風邪も抜けて日常が取り戻せたようです。天気も良いので四日ぶりに散歩に出ました。

      窓越しに風の音きく 風邪の床   津々

たかだか風邪とはいえ床にあるというのは無聊なものです。
コロナ禍の中家にこもりっきりの生活をしいられて約20ヶ月程の中の二三日でしたが、ベッドの中で咳やクシャミに耐えながら寝て過ごす時間には歳のせいもあってか、大いに虚しさを感じさせられました。
冷たい風を頬に受けながらも、外に出て歩ける健康をうれしく思い大いに満喫致しました。3.5㌔ほどを歩きました。
背中に温かい陽の恵みを受けながら歩いていると、思わず口笛を吹きたくなりましたが、すっかり肺活量が落ちていてかすれた音しか出ず、何とも情けない次第でした。
健康のありがたさをしみじみ感じますが、「たかだかの風邪」とは思いあがった言い様だと思い至りました。
あと40日ばかりで80歳、健康第一で過ごさねばと実感しきりです。

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