津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■盗人島

2021-12-09 16:39:14 | 熊本

   私は釣りというものは全く不得手である。
最近の朝散歩で、公園で日向ぼっこをしている数人の老人たちが釣りの話をしていた。
通りがかりの事ではきとしないが、「ようえ」ときこえる。どうやら松尾町の要江のことらしい。
ここは現在では百貫港として知られるが、もともとは要江と言っていた。坪井川と白川が流れ込む河口で、釣り好きの人たちが獲物を狙って集まってくるらしい。
坪井川をわずかに遡ると藩政時代に栄えた「高橋」がある。熊本城下への船便が坪井川と今では流路を異にする井芹川を上っていた。明治期には百貫電車が走り終点だったのだろう。
清正時代の熊本城の築城にあたっても、石材が水運によってもたらされたようだ。

この要江付近に盗人島があったらしいことが、「地衝き音頭」などでうかがえる。
「あら、えいとえいと」と一節ごとに合いの手が入り、私が幼いころまではあちこちの普請現場で見受けたものである。
この盗人島の場所を承知しないが、かって「灯台」があったらしい。島といってもその灯台を設ける位の岩場ではなかったのか。
「盗人島の帆掛け舟、大物かけて入る舟」とあるから、灯台をめかけて多くの船が行き来し、坪井川から高橋の方へ上っていたのであろう。
さきにちょっと触れた「御大工棟梁善蔵聞書控」やこの「地衝き音頭(永棟節)」などを深く研究がなされることを望みたい。

 

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■16ヶ月ぶりの再登場「湯浅五郎兵衛」の文書

2021-12-09 08:13:26 | オークション

 この品物は以前出品されたことがある。■ヤフオク二件(2020:8:24)でご紹介したが、湯浅五郎兵衛の名前を憶えていた。
前回は落札者がなかったのだろう、再び出品されたがこの度は応札者が居られて何方かが手に入れられることになる。
      【真筆】湯浅五郎兵衛 書状 (消息 江戸時代 武士 古文書 折紙 細川家 園部藩 細川忠利 大師流 掛軸)

              

 前回同様参考とことわって読み下し文がつけてあるが、間違ががあるように見受けられる。落札者において完読を願いたいものだ。
ついでに申し上げると、この人物は寛永五年から七年にかけて三件ほど小倉細川藩の「奉行所日帳」に名前が見える。
それによると、豊前時代の細川藩に召し出されていたようだ。寛永九年の細川家の肥後移封の頃にでも、細川家を離れたのではなかろうか?一族と思われる湯浅角兵衛は500石取り、こちらは細川家の肥後入国に随ったが、綱利の時代陽明学徒により追放された。


 ■日帳(寛永五年九月)廿三日
         |一、同湯浅五郎兵衛も御供ニ付、御鉄炮衆井門亀右衛門与都甲茂兵衛付遣候事、

 ■日帳(寛永七年一月)廿日~廿一日
         |              (側)                                               (横田)  (冨田)       (不破)

御弓鉄炮足軽ノ肩 |一、大橋へ被成御座候時、御例御弓・御鉄炮衆之かた替、四人は権佐与、三人ハ十太夫与、壱人ハ角
替        |        (湯浅)
         |  丞与、二人ハ角兵衛与、壱人湯浅五郎兵衛ニ付也、

          参考:湯浅角兵衛・・五郎兵衛の親族か 
                  側鉄炮頭 五百石 (於豊前小倉御侍帳)
                  御側弓鉄炮頭并組外衆 鉄炮頭 五百石 (肥後御入国宿割帳)
                  長岡監物組 五百石 (寛文四年六月・御侍帳)
                  五百石 寛文九年十月御暇被遣候 (※)陽明学徒追放による(十月七日とも)

 ■日帳(寛永七年三月)十ニ日
矢嶋某伜ノ初見皆 |一、矢嶋平三郎申候ハ、主子歳十六ニ成申候、今日湯浅五郎兵衛奉ニ而、皆川治部御取次を以、御目

川治部取次グ   |  見へ仕せ候由申候事、

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■部分御舊記・軍事部九(9)寛永拾五年肥前国於有馬原城働之御帳・4

2021-12-09 06:54:18 | 史料

                        寛永拾五年肥前国於有馬原城働之御帳・4

一、中山長吉
  一、二月廿七日敵本丸へ引取可申内ニ参本丸石垣下之坂中にて敵壱人鑓付鉄炮手負申候
      証人合申候

御切米取
一、矢野吉丞                     ィ鑓
  一、二月廿七日有馬二ノ丸にて小屋之口にて敵ハ内より鉄にて私は小屋の外より鑓にて突合仕留申候 其後本丸石垣へ
    上
り前後著申候而追付乗込申候
  一、廿八日本丸にて鑓を合敵一人突伏申候
      証人合申候

御切米取
一、郡 安左衛門
  一、二月廿七日有馬本丸犬走へ上り塀の破より鑓を合鑓にて突落あれ申候 石にてもたひ/\打おとされ申候 其後又上
    り可申と仕候処小笠原備前被申候ハ手負申候間引取候へと被留候ニ付而引取申候
      証人合申候

御切米取
一、野々村藤大夫
  一、二月廿七日有馬本丸塀の破口にて鑓を合其後本丸にてもやりにてかち合突たおし申候
      証人合申候

御切米取
一、渡辺平左衛門
       (ママ)鶴
  一、私儀隺崎ニ鍛冶奉行被仰付居申候 今度御陣ニ付而私叓石火矢・大筒打申候間御供仕度由御家老衆・御奉行衆江御
    理申上候ヘハ御吟味之上被遣則石火矢・大筒打申候
  一、二月廿七日城乗之刻有馬之城二ノ丸にて敵十四五人程居申所へ参会なた長刀にてかゝり申敵三人鑓にて仕留申候
      証人合申候

御切米取
一、財満平左衛門
  一、二月廿七日有馬原之城二ノ丸にて敵十二三人かたまり居申所へ参かゝり私ハ杖にて山刀・長刀持申敵其長刀をつ
    ゑにて打落し取申候 其長刀にて弐人仕留候 夫ゟ本丸江も参乗込申候
       証人合申候

一、藤本勘介
  一、二月廿七日有馬城乗之刻小笠原備前組之昇奉行仕候 昇之者參かね候を備前小姓に昇を持せ勘助手鑓を引本丸犬走
    に著申候 其時石にて数度うたれ痛申二付御人数乗込不申内ニ引取申候
       証人合申候

一、柏木少九郎
  一、二月廿七日有馬本丸石垣八分ほとにしハらくこたへ居申其後本丸にて高名仕候
  一、廿八日本丸にて鑓を合高名仕候
        証人合申候

一、小林半大夫
  一、二月廿七日有馬本丸石垣半分ほとにしはらくこたへ居申其後乗込申候
  一、廿八日本丸にて刀・脇差・長刀にて働申敵一両人鑓付申候
        証人合申候

 右之衆働之義面々差出ニ御座候証拠人之書物を取引合相違無御座候間書付上申候
    寛永拾五年七月五日       清田石見守
                    志水新丞
                    小笠原備前
                    長岡式部少輔
                    長岡右馬助
                    有吉頼母佐
                    長岡佐渡守
       坂崎内膳正殿

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