津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■原稿差し替え「阿部一族の一考察」の宗像兄弟

2021-12-11 14:40:54 | 論考

 かって小倉葡萄酒研究会の小川研次氏より寄せられた「阿部一族の一考察」について、「その二」における「宗像兄弟」に就いて「『宗像兄弟』は当初、大友氏系と見ていましたが、最近の史料により毛利氏系と判明しましたので、差し替えします。」という、原稿の差し替えのご依頼があったのでまずはここにご紹介申し上げる。
尚、2020:03:16日の該当項の差し替えに就いては、後日と致したい。


宗像兄弟(宗像加永衛、宗像吉太夫、年齢不明 五月二日)

忠利殉死者に宗像姓が二人いるのだが、加兵衛景定とその弟吉太夫景好である。宗像兄弟には他に弟二人いたが、藩主光尚の命に従い思い留まった。(『綿考輯録・巻五十二』)

さて、宗像家は「宗像大宮司宗像氏貞之子孫也」(同上)とある。細川家との関係は父清兵衛景延が小倉藩主忠興に仕えたことから始まる。

花岡興史氏「新発見の豊臣秀吉文書と肥後宗像家」(『沖ノ島研究』第六号)によると、宗像大社大宮司宗像氏貞の後室は豊後の大友氏系の臼杵鑑速(あきはや)の娘である。大友宗麟の養女でもあった。

そして鑑速夫婦の三女が備前住人の市川与七郎に嫁ぎ、与七郎は宗像清兵衛と改名する。(「大宮司系譜」) その経緯を考察してみよう。
天正十四年(一五八六)三月四日、氏貞が逝去する。そして大宮司家を継いだのが、養子益田景祥(かげよし)である。毛利氏家臣益田元祥(もとなが)の二男であるが、十歳とされ、幼名は「宗像才鶴」という。(花岡興史) ところが、文禄四年(一五九五)に実兄広兼が急死し、益田家に戻り、小早川隆景の家臣となる。この時に養母と二人の娘が伴ったと考える。奇遇だが、景祥の後室に養母の同系である臼杵甚右衛門統尚(むねなお)の娘が入ることになる。統尚は大友宗麟と奈田夫人の娘と結婚することから、この娘は宗麟の外孫となる。そして統尚夫妻の早死により、久留米藩主毛利秀包と妻桂姫の養女となるが、桂姫は宗麟の娘でマセンシアという洗礼名を持ち、夫婦共に敬虔なキリシタンであった。つまり、マセンシアは姉の子を引き取ったのである。

やがて、関ヶ原の戦い(一六〇〇年)で敗軍の将となった秀包は妻らと長門国へ向かった。そして景祥と出会うことになる。「イエズス会日本年報」の一五八一年の項に「臼杵殿」の記述がある。
「本年洗礼を受けた貴族の中に臼杵殿Vsuquindonoと称する臼杵の領主がある。この人は異教徒なる一子に国を譲ったが、彼の如き人物であり、また大いに智慮あり且富んでおり、多年当国を治めている故、彼の帰依は大いに評判となった。彼と共に家臣が多数洗礼を受け、その子は我等の友となったので、臼杵全体が帰依することも近かろうと思われる。フランシスコ王(宗麟)は長き前よりこの大身に勧めてデウスの教を聴かせんとしたが、遂に聴聞して奉ずるに至ったのである。」(ガスパル・コエリョ『イエズス会日本年報上』)
「臼杵殿」は誰だろう。臼杵氏は歴代、水賀城(臼杵市末広)城主をつとめていた。七代目の鑑速は一五七五年に没しており、嫡子統景(むねかげ)は叔父鎮続(しけつぐ)と共に一五七八年の耳川の戦いで戦死している。鑑速の弟に鑑続(あきつぐ)がいるが、一五六一年に没しており、残るは末弟鎮順(しげのぶ)である。事実、統景の後を継いだのは鎮順の息鎮尚である。つまり、イエズス会の記録はこの父子のことである可能性が高い。しかし、益田景祥に嫁いだ娘の父は「統尚」であり、「鎮尚」ではないが、同一人物にもみえる。いずれにしても、統尚の娘はマセンシア桂姫に育てられたことから、キリシタンであったことは容易に想像できる。このような家族関係から景祥はキリシタンに理解していたのであろう。

さて、小早川秀秋家臣の市川与七郎は長州から来た氏貞の後室(景祥養母)の三女と結婚となる。ところが、慶長七年(一六〇二)、秀秋の急死に伴い小早川家は無子断絶となり、これ以降、与七郎こと宗像清兵衛は小倉藩細川家に仕えるために妻と共に小倉へ入った。秀秋の実兄は木下延俊で豊後日出藩藩主であり、細川忠興とは義兄弟であった。また、この頃、大大名になった細川家は少なからず毛利家家臣を召し抱えた。村上水軍の村上八郎左衛門景広、二保惣兵衛がいた。(共にキリシタン) また「二保太兵衛ハ宗像兄弟縁者之者」(『綿考輯録・巻五十二』)とあり、身内もいたのである。

清兵衛妻の母は臼杵鑑速の娘で大友宗麟の養女であることから、小倉藩に仕えた宗麟二男親家(客分)、三男親盛、長女ジュスタの系列清田家、長男義統の三男正照など多くの「身内」と親密になったことだろう。つまり、彼らはオールキリシタンであり、清兵衛や妻への影響があったと考えられる。
転宗したキリシタンは「類族」とされ、家族や子孫も監視対象となるが、松野正照(右京)の陪臣に「転切支丹臼杵内蔵助」(『肥後切支丹史』)がいた。臼杵一族だろう。ちなみに清兵衛も肥後では「松野右京組」に属していた。(「新・肥後細川藩侍帳」) 右京は豊前キリシタンの柱石だった加賀山隼人の後継者と目された宗麟三男親盛の養子となっていた。

時代は下り、寛永十三年(一六三六)七月八日、清兵衛は忠利より切腹を命ぜられたのである。理由は「御咎之筋有之」(『綿考輯録・巻五十二』) とあるが不明である。
しかし、その後、継続して四人の子らは召し抱えられた。(同上)

同年七月十三日、忠利は家中のキリシタン家臣らに「切支丹転宗書物」に署名させている。キリシタンから仏教徒への転宗したという証文だが、上述の大友ファミリーを中心に二十七名に上る。(『肥後切支丹史』) 母ガラシャの命日は七月十七日だが、四日前である。
前年十月十八日付の江戸幕府老中酒井讃岐守忠勝宛の忠利書状に切支丹取締りに関する項目があり、経験からか、事細かに記されている。
「きりしたんにて御座無しとの儀の宗躰の証拠を書物に仕らせ、一人ひとり右の通堅め置申候」(同上) とあり、翌年、家中で実行したことになる。
特にガラシャの命日前とは、幕府から厳しい目を向けられていたに違いない。
推測だが、大友ファミリーの清兵衛は夫婦共にキリシタンであったが、署名を拒否したための忠利の処断ではなかろうか。証文の日付の五日前というのも納得できる。また、罪人ならば、そのまま子供らを召し抱えることはできない。
この忠利の恩義があるが故に宗像兄弟全員は殉死を決めたのである。(『綿考輯録・巻五十二』)

しかし、母のことを考えると、夫が切腹、子供ら全員が殉死となると、どのように生きていくのか。二代目藩主光尚はせめて母のため、御家存続のためにも弟二人に生きることを願ったのである。

慶安二年(一六四九)十二月二十六日、光尚が没した。宗像家三男の少右衛門が二日後の二十八日に殉死したのである。末弟長五郎も望んだが、老母一人にはできないと兄少右衛門に説得されていた。(『綿考輯録』)
宗像大社大宮司宗像氏貞の孫である宗像三兄弟は藩主への追腹の道を選んだのだが、父の生き様と武士の恩義がそうさせたのであろうか。

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■12月初旬の散歩コースです

2021-12-11 10:15:03 | 徒然

 風もなくて暖かい今年の師走は、爺様にとっては散歩も楽しく有難いことです。
近くの公園は落ち葉が折り重なって、絨毯の上を歩いている心地です。
本格的な寒さの到来がないので木々の紅葉もまちまちで、中にはまだ緑々した木々もあり、織りなす色の饗宴も一入です。
師走定番の山茶花も色とりどり花の饗宴を見せていました。

                                               

              

              

 

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■川田順著・細川幽齋「歌仙幽齋」 選評(九)

2021-12-11 09:00:37 | 先祖附

     「歌仙幽齋」 選評(九)

 君がため花の錦をしきしまや大和しまねもなびく霞に

 春部「文禄三年二月二十九日關白殿吉野の花御覧の時人々つかうまりつけるに、花
の祝を」と詞書あり、前出歌と同じ時の作。我等が主君豐太閤の威勢を賀せんがため
であるが、「花の錦をしきしまや」と枕詞へ詞を懸け、更に「山徒しまねもなびく」
すなはちの本の津々浦々まで太閤の威風になびき從ふと言つて、霞のなびくことに詞
を寄せたのである。美しき言葉の組み立が目に付きすぎ、いかにもたをやめぶりて、
征韓役後の秀吉に對する頌歌としては、物足らぬ。これが二條流なのである。初句
「君がため」は秀吉のための意なること明らかで、かやうの歌ひ方、言葉づかひを當
疑ふ餘地がないのである。

 たれか又こよひの月を三島江の葦のしのびにもの思ふらむ

 雑部「慶長二年昌山御不例のよし聞て八月十五夜よぶねにて大阪へくだりけるに三
島江に舟をとどめ葦間の月をながめて」と詞書あり。六十四歳の時の作。昌山は幽齋
の舊主足利義昭、室町最後の將郡なりし義昭、諸国を流浪し、遂には備後鞆の津の安
國寺に昌山道休と號して引籠り、毛利氏の庇護を受けてゐたが、慶長二年十一月廿八
日、六十一歳にて大阪に歿した。此年八月、京都の幽齋は昌山重患と傳聞して、舊恩
を忘れず、大坂までか、或はもつと遙々と備後までも見舞に行つたものらしい。幽齋
の人柄が偲ばれて、美しくおもふ。一首の意、われ以外に何人あつて、今夜の名月を
觀ながら、もの憂き微行の旗をして世間を憚る物思ひをするであらう。かやうに述懐
して、自分一人悲しき月見すると嘆いたのである。「こよひの月を」見る「みしま江」
と詞を懸け、「葦のしのび」は葦の葉のほそくしなふ(撓)ことを忍び、とこれも縣
詞にしたのだ、内容は深きものを藏しながら、近風の技巧を弄しすぎて、さまで悲し
さうに響かない憾みはある。これが當年の流儀なのだから致し方ない。三島江、淀河
西岸の水驛で、葦が殊に多く茂つてゐたと見え、昔から「三島江の葦」と澤山に詠ま
れてゐる。「葦のしのび」といふ言葉は鎌倉時代の中葉から時として和歌に現はれ
る。幽齋が後世の歌を仔細に勉強したことは、かういふ端からも窺ひ得るのである。

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