津々堂のたわごと日録

わたしの正論は果たして世の中で通用するのか?

■福地平左衛門死して福永・地本両家を残す

2015-04-24 08:17:26 | 史料

 「肥後文献解題」をみると、堀平太左衛門が書き残したとされる「福知一件」というものが次のように紹介されている。

  「梅の匂、梅原福知一件等の別名がある。慶安二年十二月廿六日細川光尚公御逝去後、肥後国を両分して幼主綱利公
   と宇土丹後守殿とに分け与えんとの噂があった時、松井佐渡守は梅原九兵衛を以て酒井雅楽頭を説き、本領安堵を得
   しめた。一方宇土侯では福知平左衛門が江戸に急行して丹後守殿を諫諍し遂に御手討にあった事をかいてある。」 

一 此砌宇土丹後守様行孝御手寄之御老中江御密事之筋有之候肥後半國御分知ニ相成 六丸様御後見と
  可被仰出段 大形御手遣出来寄候由 早打飛脚を以宇土江到来 彼方御家老を初 役人中会所江出勤 右之御左右
  承知仕 何も恐悦至極と歓候處 福地平左衛門者 扨々是者大切至極之出来ニ而 御家之滅亡此節ニ極り候
  程 次第ニて御本家ニも可被為障歟 侫姦之奴原上を奉冥候条不届き千万 拙者直ニ是より江戸へ罷越 身命

  を差上奉諌とて直ニ行立 極々早打ニ而 十三四日振ニ茂江戸江着候由 左候而小屋ニ不寄 直ニ御館へ罷出
  御目見を願 御直ニ奉諫候由 然共曽而御承引無之 小屋ニ引込居候様被仰付候ニ付 不得止引退 翌日尚
  又出勤 押手御目見奉願 如前日強而御諌申上候処 御立腹ニ而御手打被仰付候由

     一説ニ者 翌日御呼出ニ而御手討被仰付候共申候共申候 切殺候人者 釼術者浪人名を失念益々御意ニ叶 常々
     御座之側ニ罷在候由 其節も御差図ニ而 右之浪人切候由 初太刀ハ切損 二刀二切留候由也

  右之事御母上様被聞召 以之外逆鱗ニ而 御目通ニ不被成御出と被仰 一年餘も御對面不被成由 左候
  而丹後守様従 公義被為召候ニ付 御出仕之御支度ニ而御式台迄御出被成候處 平左衛門か亡霊切害被仰付候節
  之通ニ而 御式台之真中御通筋ニ 屹座着罷在候を被御覧候故 忽チ御気絶候様ニ被為見 御出仕相止候而
  其後御気分不勝 終ニ御出仕無之由 彼方ニ而ハ極々密事なから いかゝして式部殿被成御聞候歟 其節
  段々御手寄之御老中様江 仰達候様共有之八代ニ者 委敷御記録も有之候由咄傳申候 左候而 其以後御
  末家より御代替ニ而 奉對 御本家 隔意を企申間敷段 八代江誓紙を被有御取候由ニ候

     但福知屋敷其後他人居住仕事難成とて明屋敷ニ成居申候
一 月翁様(細川興文)之御時 芦田瀬兵衛二男 三五兵衛と申者を福永と改名被仰付 福永平太夫と申候 外ニ今一人 柴崎勘左衛
  門二男 地本常右衛門と改名被仰付 両人共百五拾石宛江戸・宇土ニ分ケ 新規ニ被召出候 福地之名字
  を二ツニ分ケ 其跡御立被成候 芦田・柴崎共ニ家老職也

一 丹後守様 福地主霊を神ニ祀 江戸二本榎御下屋敷内ニ小社を建立 霊神宮と崇メ今以御尊敬有之申候 祭日者
  六月三日也

 この一件は「秘書」として伏せられており、長く知られることがなかったものと思われる。堀平太左衛門の記録の存在が知られるに及び
 この不幸な事件が知られるようになった。丹後守とあるのは宇土細川家二代行孝公(初代藩主)のことである。
 寛永十四年(1637)生まれ、事件当時(1650)十四歳であるため事の信憑性にいささかの疑問もあるところだが、宇土細川家侍帳に
 福永・地本両氏の名前が覗える。 

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■松寿庵先生 第139講

2015-04-24 06:42:40 | 史料

                                

                                   住宅建築などで鬼門を気になさる方はいまでも沢山居られますね。

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