津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■「北村甚太郎覚書」を読む--15

2014-09-24 11:03:05 | 史料
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■御恵贈御礼「第45回古書籍即売展目録」

2014-09-23 08:45:28 | 書籍・読書

 毎年鶴屋百貨店を会場として行われる「古書籍展」も、今年で45回というからまさに熊本の風物詩ともいってよかろう。
毎年この目録をお送りいただいているが、内容を眺めるのが楽しみである。我が懐具合を確かめながらさてどうしようかと思案することしきりである。
目指す書籍が売れ残ってくれないかなどと不遜な考えも浮かんでくる。年金生活者の懐具合はこんなものである。御恵贈に感謝申し上げる。 

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■御恵贈御礼「白隠・江戸の社会変革者」

2014-09-23 08:43:54 | 書籍・読書

 国立歴史民俗博物館の高橋敏名誉教授にはひょんな御縁でご厚誼をたまわっている。
9月18日初版の御著をお送りいただいた。ふして御礼を申し上げる。 

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■写真で見る第14代・細川護久公と御子たち

2014-09-23 07:54:18 | 史料

                                          イメージ 1

                                                14代当主・細川護久公

 

                                                                                           

                                                                                                  15代当主・細川護成公

 

                                                   

                                                 16代当主・細川護立公

 

                            
                             左から
                               猶(ユウ) 明治31年9月1日死去・20歳
                               宏子夫人(鍋嶋斉正・閑叟公女)
                               悦子 公爵一條實輝公後室
                               護全(モリハル)明治37年戦死・24歳
                               護晃(モリアキ)14歳にて男爵家創立、明治31年8月27日死去
                               護立(モリタツ) 兄護晃死去後の男爵家相続、大正3年宗家護成(異母兄)死去後宗家を相続す。

 

      尚異母兄妹(深水縫子の子)に、15代当主・護成(モリシゲ)、嘉壽(細川興生夫人)、宣(松平直亮伯爵室)、志津(阿蘇惟孝男爵室・離婚)がある。

                                        

                                

                                                 左より 宣・嘉壽・志津様

                      

                                                       

                                                       志津様                                   

 

 

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■「北村甚太郎覚書」釈文--13・14

2014-09-22 08:13:13 | 史料

                                三斎様豊前御拝領被成慶長六年九月亀右衛門儀

                                被召出千石被下御鉄炮三拾挺御預ヶ被成候其後

                                忠利公肥後御拝領熊本御打入之刻御先乗被仰付御

                                鉄炮五拾挺御預ヶ居屋敷見立重申働被仰付高麗門

                                の前尓て拝領仕度由其柳屋敷支配奥村権左衛門方迄                  

                                願如届ニ被仰付候由御先乗の相役ハ寺尾左助と承候

                                熊本御着座大手御門尓御入被遊候後亀右衛門組乃

                                御鉄炮道中切火縄尓て参りを御城尓御入被遊候と

                                其侭一同尓打放させ申候由承及申候亀右衛門ハ隠連

                                な起者尓て色々武功多く咄有之仁尓て御座候事

                                礼々略之

                              一、明る廿六日より何の沙汰もなく竹束尓て付寄昼夜情を

                                入申尓付城中少しも無油断鉄炮津るべは那し申候殊尓夜の

                         ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                                             
                                竹把情を出し付寄申尓もさる火を出し阿やしき所へハ鉄炮を

                                打懸申候 関東へ歴々被召連候ゆへ稲留鉄炮の弟子四人ならでハ

                                城中尓無之候 大野弥十郎・篠山五右衛門・村野庄助・北村甚太郎

                                なり 此外町遠物なと打候もの無之候 夫尓ついて

                                幽斎公より大野宗順・松田忠右衛門を以被仰出候ハ城中尓居

                                申候鉄炮初心の者共尓ハ能々教へ打せ候いか様大事なり共

                                今度の儀尓候間随分おしへ可申旨北村甚太郎へ被仰付候
                                       の旨申渡され候条
                                間被申付候 奉得其意城中を走り廻り其大筒尓ハ薬何程

                                こみ何丁尓てハ何と見て放候へと打て見せ玉行合点いた
                                                                  左衛門
                                させ申候 右之様子松山権兵衛佐方宗順同与三左衛門少納言
                                     て候                   与九ハ
                                存生尓候間御聞可被成候然とも敵方猛勢尓て夜昼軍役
                                                       
                                尓て夜ハ何間昼は何間寄候へと間積尓仕候と見へ候て

                                はや堀際間近く竹把仕寄申候 我等存候ハ兎角常の玉

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■「北村甚太郎覚書」を読む--14

2014-09-22 07:05:59 | 史料
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■「北村甚太郎覚書」を読む--13

2014-09-21 18:20:40 | 史料
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■二人は詩人・・・

2014-09-21 14:37:54 | 徒然

 

 俳優・火野正平の自転車の旅「日本縦断 こころ旅」の秋のシリーズが始まるのを前に、特別番組が放映された。
温泉や名所旧跡等をたずね、うまいものを食べて褒め合ってと云うような旅番組には食傷してしまうが、この番組は視聴者からの手紙でその人の思い出の地をたどろうというもので、作為がなく火野の言葉や行動が彼の人柄を伺わせて面白い。心豊かな噂の色男である。
今日は過去の放送のBest3も放映されたが、一位になったのが7月下旬ころに放映された映像である。
これはたまたま私も見ていて、えらく感動し不覚にも涙をボロボロ流してしまったものだった。 

                    

 北海道当麻町の「シャタキ山(射的山)」を訪ねる旅である。
 
 はつねちゃんは火野正平が道を尋ねたおばあちゃんの孫娘である。目的地に向かう火野のあとをはつねちゃんはおばあちゃんの車で追ってくる。
小高い丘にはつねちゃんと二人登る火野、頂上での会話の中ではつねちゃんが病気であることを知る。さりげない火野の思いやりの言葉が胸に迫る。
眼下の田んぼの稲が風に揺らいでいる。それを見たはつねちゃんの言葉に更に胸を打たれた。

「風が吹いているから田んぼがなんか動いている・・・・」
それに火野が応える。
「あれな、風の足跡っていうんだ」 風の足跡?」 「風が足跡つけて動いてるみたいだろ」 「うん」 「そういうふうに見えるだろ。なんとなく」 「うん、なんとなく」 

一人でTVを見ていたからいいようなものの、又涙々である。はつねちゃんの病気がどの様な物か放送の中にはなかったが、明るく元気で大きくなってほしい。

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■先祖附 高見(怘)家

2014-09-21 08:15:31 | 先祖附

     森鴎外の「阿部一族」にも登場する、阿部一族誅伐事件に於いて、裏門から突入したのが高見権右衛門率いる一手である。
 

                                                 五百石 高見 怘(マモル)
                              一、先祖和田但馬守儀丹波國氷上郡和田之城主
                                四万貮千石代々領之 其子和田兵衛尉も和田之
                                城主而居申候 丹波領主赤井悪右衛門籏下
                                天正七年信長公之依命明智日向守光秀
                                丹波江發向赤井と及合戦被討果候 其節
                                赤井籏下之者共分散仕候兵衛尉も退城
                                牢人仕候 右兵衛尉儀和田新九郎と改申候 羽柴

                                大和大納言秀長被召抱候 右新九郎舅播州
                                高野郡堅間之内荒田城守高見助之允と
                                申候 新九郎嫡子長左衛門次男半次三男庄五郎と
                                申候 半次儀は天正十八年之冬奥州合戦之節
                                討死仕候
                              初代
                              一、高祖父和田庄五郎儀文禄年中於丹後
                                三齋様御代被召出御知行貮百石被為拝領候
                                其後 休無様被成御附候 岐阜関ヶ原御陳

                                御供仕相應之御奉公相勤申候 其以後
                                休無様加賀被成御越候節御供仕候 高野山
                                御法躰被成候節越前中納言様江御領分而居
                                申候處中納言様就御逝去浪人仕居申候
                                慶長十六年帰参被仰付於豊前御知行五百石
                                被為拝領御番頭被仰付候 其砌高見権右衛門と改
                                申候 元和四年病死仕候 其節間七大夫迄
                                覚書指出候處

                                三齋様御自筆之御書入御朱印被為頂戴候
                              二代目
                              一、曾祖父高見権右衛門儀高祖父権右衛門果候節
                                九歳罷成申候 元和四年六月頃
                                三齋様御知行百石被為拝領候 御隠居被遊候以後
                                妙解院様御側被召仕寛永三年四月御加増
                                百石被為拝領御側御者頭被仰付候
                              一、同七年正月百五拾石御加増被為拝領候 同十一年
                                十二月百七拾壱石四斗御加増被為拝領候 同十四年

                                肥前嶋原一揆之刻
                                妙解院様御供仕心馳を茂仕候得共右御役儀
                                御指圖無之不届ニ被 思召上遠慮被仰付候
                                同二十年二月阿部権兵衛兄弟共御討果
                                被成候節被仰付相勤申候
                                真源院様御代同二十一年七月御加増三百石
                                被為拝領候
                                妙應院様御代御使番之觸使(頭)被仰付候 其後

                                御小姓頭被仰付候
                                妙解院様 真源院様御當代江戸定御供
                                仕候
                              一、妙應院様御代茂江戸御供度々相勤申候
                                其外御隣國之御使者等相勤申候 明暦二年
                                十月病死仕候
                              三代目
                              一、祖父高見権之助 (以下略)

 

  先に■阿部茶事談 余滴を書いた。ここで大きな間違いをしていた。(その分は-------で訂正をしているが・・)

引用した阿部茶事談には次の様に書かれている。
      松平下総守忠弘公の御前御藤様御出生の女中 後真如院と云 後權右衛門ニ被下置高見権之助其外出生・・・」
つまり松平忠弘公夫人藤姫(忠利公長女)の生母が、後に高見権右衛門に嫁ぎ三代目権之助その他を出生したという訳である。

細川家譜には藤姫の生母に付いては触れていないが、阿部茶事談の記述に依り「真如院」という女性であることが確認できた。
 

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■「有明の茶入れ」に関する幽齋公の書状・・?

2014-09-20 21:14:04 | オークション

 ちょっと興味ある品物がオークションに出品されている。
私もブログで何度か書いた事が有る「有明の茶入れ」に関係するものらしい。残念ながら読み下し文が良く判らない。チャレンジしているが難しい・・・・・

 

                  送料込★掛軸★細川幽斎 ありあけ茶入 書状★書寸 50x31.5cm 


                              送料込★掛軸★細川幽斎 ありあけ茶入 書状★書寸 50x31.5cm_画像1   送料込★掛軸★細川幽斎 ありあけ茶入 書状★書寸 50x31.5cm_画像2   送料込★掛軸★細川幽斎 ありあけ茶入 書状★書寸 50x31.5cm_画像3

送料込★掛軸★細川幽斎 ありあけ茶入 書状★書寸 50x31.5cm_画像2

 

                              

 
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■随兵寒合

2014-09-20 17:57:54 | 徒然

 天候不順の夏とは云いながらそれでも二三日前までは30℃を越していたのに、昨日今日は23℃・21℃とぐっと冷え込んできた。
短パン・Tシャツ姿での散歩ももう終わりにしなければならないようだ。
明日は藤崎八旙宮の秋の例大祭、まさに随兵寒合と相成った。50數頭の飾馬が街中を練り歩くが、さて天気が心配される。
16号台風を心配していたが、これはどうやら北の方へ向かってくれそうだ。しかしその台風のおかげで一気に秋めいて行くのだろう。

今日は史談会の9月例会、大役を終えて外に出ると街中は次第に秋めいて行く随兵寒合の風情である。

 

                           

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■第二回・知道会講演会

2014-09-20 15:15:05 | 熊本
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■ある村の幕末・明治《「長野内匠日記」でたどる75年》

2014-09-19 22:15:36 | 書籍・読書
ある村の幕末・明治《「長野内匠日記」でたどる75年》
 
                          弦書房

文明の風は娑婆を滅ぼすー村の現実を克明に記した日記から見えてくる《近代》の意味。幕末期から明治初期へ時代が大きく変転していく中で、小さな村の人々は西洋からの「近代化」の波をどのように受けとめたか。文化10年(1813)~明治20年(1887)、驚異的な行動力と筆力で、村の日常、事件、災害、人の往来、小倉戦争、西南戦争、阿蘇一揆などを克明に記録した膨大な日記から浮かびあがる当時の村の素顔。

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■「北村甚太郎覚書」釈文--11・12

2014-09-19 06:41:21 | 史料

                             一昨日UPしました原文の写真が不鮮明でしたので、今朝ほど差し替えました。お詫びいたします。

                                                                
                                                                 たり
                                居申候時尓赤松左兵衛陳の内より母衣武者一騎馳出大

                                手のの馬場口へ乗廻し働申候ハか様一ふし可有之事と

                                城中各覚悟いたし候処左尓てハなく堀溝尓かゞミ引兼た

               井門龜右衛門ハ       累ものとも越引取可申との儀と見へ馬上尓さいを持振廻シ
               赤松左兵衛の                   
               家来別所刑          /\味かた越招き馬を乗廻し輪順逆尓乗りて皆を志づ
               部左衛門か物頭
               と井戸家記          か尓引取申候 殊之外見事成婦りなり母衣は白赤横尓段々
               にあり
                                 筋なり母衣のだしハ同色三ッはご間尓蛇の目阿り馬の

                                 毛は鹿毛とも栗毛とも見へ申候 城中より祢らひ鉄炮
                             
                                 阿また打懸候へとも運強く候那程遠く候ゆへか終尓
                                                 たつね
                                 當り不申候此仁乃事後尓能承候へバ赤松左兵衛物頭井門

                                 亀右衛門と申者なり有無尓其日ひら責つ婦さんと敵たく

                                 むと見へ申候へとも城中堅固尓して鉄炮稠敷打射殺申

                                 尓付乗取申事不成敵引取其日ハ暮尓及ひ申候其日乃

 

                                晩尓敵の首二ッ上り申候  幽斎公御覧被遊御祝着被成候一ッハ                                                                       
                                搦手より久我右近右衛門甲付久我太郎助と云もの尓取を差上

                                申候一ッハ大手尓て北村甚太郎申候ハ加ら免手より首上りたる                                                                                            イ妙庵公     
                                よし承り候 私首取候て上ヶ可申と御門外へ走り出申候ヘハ御

                                聞付被成甚太郎儀度々の働己尓先刻打倒し候事見届

                                申候なり然上ハ無用の儀なり大切尓被思召候間自余の

                                者尓可申付と被仰下尓付大塚源次家来岡本源内と

                                いふもの尓申付とらせ上申候城中尓は手負死人壱人も

                                無之候敵は阿また打殺申候手負も多く可有之との城

                                中沙汰之事

                                   傳ニ曰右の井門亀右衛門ハ赤松左兵衛尓て知行三百石

                                   鉄炮廿挺頭の由此場尓乗候馬ハ青毛母衣は赤き由

                                   関ヶ原御陳以後

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■勤番武士の心と暮らし 参勤交代での江戸詰中日記から

2014-09-18 14:16:51 | 書籍・読書
勤番武士の心と暮らし 参勤交代での江戸詰中日記から
 
              文芸社

 

豊後国(大分県)臼杵の藩士が書き残した「江戸詰中日記」を精細に解読すると、そこには豊富な挿絵とともに170年前の江戸時代の勤番武士の心模様、暮らしぶりが生き生きと描かれ、現代のサラリーマン生活と照らし合わせてみても興味は尽きない。その主な内容は、当時、江戸で頻発した火事の始末など勤番武士の仕事、花見や吉原見物など余暇を満喫する様子など、興味は尽きない。
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