津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■肥後藩の教育 藩校「時習館学」入門―寺子屋・私塾・藩校の実情

2014-09-18 14:15:51 | 書籍・読書

 

肥後藩の教育 藩校「時習館学」入門―寺子屋・私塾・藩校の実情

 
                 トライ




【目次】(「BOOK」データベースより)
第1部 肥後藩の教育機関ー寺子屋・私塾・藩校(江戸期の教育機関ー寺子屋・私塾・藩校(用語解説)/初等教育機関ー「寺子屋」(読み・書き・そろば
     ん)/中等教育機関ー「私塾」/肥後藩内の「私塾」/「私塾」小楠堂の教育/高等教育機関ー「藩校」/肥後・人吉藩内の「藩校」)
第2部 肥後藩校「時習館」教育の全貌(藩校「時習館」開校と目的/「時習館」の教育機構と教育内容/「時習館」の教授・助教・訓導の陣容/「時習館」
     教育への批判・提案/「時習館改革」の試みと頓挫/「時習館」の蔵書内容ー越前藩「明道館」との比較/今後の藩校「時習館学」の発展のため
     に)
第3部 「時習館」の教官名録・肥後人物志(完)

【著者情報】(「BOOK」データベースより)
堤克彦(ツツミカツヒコ)
文学博士。元熊本大学非常勤講師。菊池女子高校講師。熊本郷土史譚研究所主宰。各種講座講師(横井小楠関係、熊本・菊池の郷土史、論語・古文書など)。1944年福岡県八女市立花町生まれ。1967年同志社大学文学部文化学科卒(日本文化史・日本民俗学専攻)。1967年熊本県立高等学校教諭(38年間)社会科。2006年熊本大学大学院社会文化科学研究科・博士課程修了文学博士号取得。主な研究テーマは横井小楠・長岡監物、肥後実学・時習館学・教育史、論語・李退渓・魏源(海国図志)、近世・近代思想史、近世古文書、地域史(全時代)、日韓交流史、日本民俗学など

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■松寿庵先生 第115講

2014-09-18 09:01:08 | 史料

                              http://1860-kenbei-shisetsu.org/meibo_77.html

            このサイトに遣米使節77名の一覧がある。木村鉄太とは別に熊本藩士・荒木数右衛門の存在が確認されるのだが、この人物の詳細が
            判らない。どなたかご存知であればご教示いただきたい。 

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■「北村甚太郎覚書」を読む--12

2014-09-17 18:37:48 | 史料
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■「北村甚太郎覚書」を読む--11

2014-09-17 18:33:52 | 史料
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■先祖附 尾藤(閑吾)家

2014-09-17 07:23:22 | 先祖附

 従五位下にして讃岐十八万石を領し、後秀吉の勘気を蒙り切腹を仰せ付けられた尾藤左衛門尉一成の二男・尾藤金左衛門知則を家祖とする尾藤家をとりあげる。

                                                 三千石 尾藤閑吾

                                              一、先祖小山公清は大職冠鎌足十一代之苗裔
                                 武蔵守俵藤太秀郷玄孫ニ而御座候
                               一、尾藤尾張守知郷右公清嫡男ニ而御座候被住
                                 尾張守尾張國居申候故始而尾藤改申候
                                 秀郷六代之孫ニ而御座候ニ付知郷と申候由尾藤家
                                 代々知字を通字ニ用申候
                                 尾藤源内は右尾張守末孫ニ而尾張國江居

                                 申候由江州坂本合戦森三左衛門殿手ニ加り元亀
                                 元年九月十九日其子又八郎父子共一所討死
                                 仕候又八郎江男子無之候依之私家嫡家ニ立申候
                               一、尾藤甚右衛門一成初名十二兵衛と申候右源内二男ニ而
                                 御座候母は生駒玄求娘ニ而御座候右十二兵衛儀
                                 豊臣秀吉公江仕甚右衛門と御名附被成候黄母衣衆
                                 にて御座候由播州多可郡之内壱万千石餘之
                                 地を給候 天正十三年八月廿八日之知行目録于今

                                 持傳申候 左衛門尉ニ被成候由其後讃岐國■都合
                                 十八万石之領地申傳候 武功之儀書記無御座候
                                 数度之働は御座候由申傳候 天正年中様子御座候而
                                 讃岐國被召上武具も被召上候 浪人之後天正
                                 十八年八月十五日切腹被仰付候 旦那寺千壽院
                                 下野國小山と申所ニ有之由御座候 家之紋単桔
                                 梗幕之紋違斧ニ而御座候 右浪人之時妻子
                                 京都江差越申候節家頼之中武功之侍林□□(半助カ)

                                 附申候由■中自然事も■無■■可相心得旨申附
                                 其節左衛門尉ゟ刀一腰黄金取出右半助と申候此刀ハ
                                 左衛門尉讃岐拝領之為嘉儀蒲生飛騨守殿ゟ被遣候
                                 飛騨守殿其節被申候は伊勢一国ニ換間敷刀ニ而候へ共
                                 此節譲申候由津之一國と名付致所持候由ニ而御座候右半助は
                                 讃岐ニ而貮千石知行仕候御家之林孫兵衛先祖ニ而
                                 御座候故孫兵衛方江右一國と申刀今以所持可仕候右
                                 刀本先祖刀ニ付先年私家ニ返可申と其節

                                 孫兵衛隠居仕請入致挨拶候得共由緒有之林家
                                 持傳候条此方江は申受間敷旨金左衛門(二代目)致
                                 返答候此孫兵衛旧居之眼を以申入候趣御座候右甚左衛門
                                 嫡子尾藤宗左衛門と申候寺沢兵庫頭殿江仕
                                 申候初名宗次郎有馬御陳前於江戸果申候
                               初代
                               一、高祖父尾藤金左衛門知則初名正助と申候右甚左衛門
                                 二男ニ而御座候母は森三左衛門殿家老細野主計
                                 娘ニ而御座候金左衛門儀初福嶋左衛門大夫殿江致

                                 勤仕候左衛門大夫殿小舅津田因幡殿娘を左衛門大夫殿
                                 養女ニ被成筋左衛門江嫁娶之由惣躰懇意故諱
                                 正則之則字給知則と申候知之字は右通字ニ而
                                 御座候左衛門大夫殿御改易之後致浪人森美作殿江
                                 致勤仕候森三左衛門殿手ニ而祖父源内討死仕候由
                                 ■を以之由御座候三左衛門殿は美作守殿御祖父
                                 之由美作守殿御息右近大夫殿江附人ニ而罷有
                                 申候由森之御家断絶之後浪人ニ而江戸江

                                 罷有申候金森出雲守様御内縁有之御懇意
                                 被成候津之御取持ニ而
                                 妙解院様御代寛永十二年被召出御知行三千石
                                 被為拝領御左之着座被仰付此節江戸ゟ御國江
                                 引越申候刻嫡子尾藤甚之允(※)妻子共乗被
                                 船父金左衛門妻子共乗申候船ニおくれ難風致
                                 破損溺死仕候此節家ニ傳候系圖書出之類
                                 海ニ沈申候ニ付先祖委敷儀傳不申候右

                                 甚之允相果候儀
                                 妙解院様達 尊聴父金左衛門江御吊之被成下
                                 御書候于今所持仕候右甚之允存命仕候得は
                                 外ニ五百石被為拝領御約束と申傳候右金左衛門
                                 薩摩江御使者被差越候段申傳候御用筋
                                 年号共相知不申候右金左衛門寛永十四年
                                 有馬落城之節前年板倉内膳正様
                                 石谷十蔵左馬有馬江御出陳之節小倉迄

                                 御迎志水新之允共両人被差出候由申傳候右
                                 金左衛門寛永十五年二月廿七日有馬御陳城乗
                                 之時三ノ丸乗通二ノ丸土居ニ登申候節は家来
                                 浅川喜平次柴田長右衛門福山太兵衛手を取
                                 引上申程之難所之由本丸石垣之下ニ早ク着
                                 石打甲ニ中リ申候得共とつはい甲を着用ニ付
                                 石すへり疵付不申候故急ニ乗込申候刻
                                 鑓手負其場討死仕石垣之下ニ落申候

                                 同所右家来喜平次も乗申候石打甲ニ中り
                                 破られ申候得共直ニ乗込候処是又鑓ニてつかれ
                                 金左衛門側江落重り申候由喜平次其深手ニ而無
                                 御座金左衛門手之牢人西野五左衛門と喜平次両人ニ而
                                 金左衛門江取付引立申候得共金左衛門息は絶
                                 申候旨其後外之侍共取付死骸をかき陳屋江
                                 帰申候■中蓮池之上ニ而沢村宇右衛門江討死
                                 之通右家来喜平次申達候馬場三郎左衛門様も

                                 御一所ニ御座候由
                                 妙解院様二ノ丸之御本陳江金左衛門死骸かゝせ
                                 参上可仕旨被仰下右家来喜平次又寺垣

                                 八兵衛金左衛門鑓持共三人ニ而抱参上仕候得は
                                 妙解院様御目見江金左衛門死骸かき居へ
                                 申候様被仰付討死之次第右喜平次江御直ニ被
                                 聞召具ニ申上候由■被成御意候はよいそ
                                 つれてゆけと被仰出退出仕候旨御座候右

                                 金左衛門討死之儀必死之覚悟とそ相見申候
                                 何方江遣候書状とハ分り不申宛所無之自筆
                                 物于今残申候廿八日惣攻之前ニ調急拙者儀
                                 長岡佐渡手に加り先手仕候手安乗取可
                                 申候其身は■至と討死を■申候あとの事た(堂)
                                 調申候處折節惣攻ニ罷成候故右之状模置
                                 打立申候而急ニ三ノ丸江趣申候由一幅を二ツ宛
                                 切割キ五幅ニ仕候折も不大吹貫之差物ニ黒塗

                                 仕候大中くり之立物二尺五寸之陳刀大さしはの
                                 鑓ニ而御座候于今持傳申候右之立物
                                 妙解院様御目ニ附死後ニ御取寄被成御写成様
                                 傳承申候其後御用ニ無之趣ニ而其節之立物は
                                 家ニ請取置申候金左衛門出陳之刻人数二百人
                                 其内馬乗六人浪人廿人之由申傳候家来
                                 討死手負之者共家司■野角兵衛儀二ノ丸
                                 本丸ニおゐて浅川喜平次は石手鑓疵を

                                 蒙り申候馬乗之内山田清兵衛今一人討死仕候
                                 若輩之小姓中間小者共も討死仕候者御座候
                                 右之書出其砌長岡佐渡殿有吉頼母殿江
                                 仕候私家之扣は先年焼失仕候委細相知不申候
                                 右家来角兵衛儀御帰陳之上ニ而
                                 妙解院様御座之間迄被召出御直ニ御褒美
                                 之由長岡佐渡殿御取次ニ而御座候段加々山
                                 御傍ニ罷在申候由津川四郎右衛門ゟ之褒美

                                 状所持仕候
                               二代目
                               一、曾祖父尾藤長四郎知成儀寛永十五年金左衛門
                                 討死仕候節九歳罷成十五歳ニ満不申候得共右之
                                 様子を以家督無相違被為拝領御左之着座被
                                 仰付候元他国者ニ而此方江親類無御座候故佐藤
                                 安大夫落合勘兵衛を右金左衛門入魂ニ仕候趣被
                                 聞召上長四郎幼少ニ付右両人諸事心を附候様
                                 被仰付候由其後金左衛門ニ改申候

                                           (以下略)

 

 尾藤重吉---+--又八郎
         |
         +--知宣------+--頼次 (室真田昌幸女・於菊)
         |         |
         |         |       +---甚丞(※)          
         |         |             |
         |         +--知則---+---知成・・・・・・・・・・→細川家家臣・尾藤閑吾家
         |         |
         |         +---●
         |             ∥・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→ 同上 尾藤九平家
         |            知成
         | 宇多頼忠
         +--二郎三郎--+---頼重
                   |
                   |  真田昌幸 
                   |    ∥------+--幸村
                   +----寒松院   |
                   |          +--於菊
                   | 
                   |  石田三成
                   |    ∥
                   +----咬月院
 

                               
                                  

                                 
                                 
                                  

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■明智光秀の乱―天正十年六月政変 織田政権の成立と崩壊

2014-09-16 07:12:44 | 書籍・読書
<form class="formArea ml00 mr00" action="http://www.kinokuniya.co.jp/cart/CCtAddGoodsToCart.jsp" method="post" name="goodsForm">

 明智氏一族宮城家相伝系図や、熊本の安國寺にある明智系図に依拠した論文ということで、すでにお読みになったご厚誼をいただいている「美濃源氏フォーラム」のH氏からわざわざのご連絡をいただいた。御礼を申し上げ、紀伊国屋のサイトから引用してご紹介申し上げる。

                                            明智光秀の乱―天正十年六月政変 織田政権の成立と崩壊

 

                            明智光秀の乱―天正十年六月政変 織田政権の成立と崩壊
                                        小林正信著
                                        価格¥2,700(本体¥2,500)
                                        里文出版(2014/07発売)


</form>

内容説明

天正十年六月政変 織田政権の成立と崩壊。いわゆる「本能寺の変」で知られる明智光秀の謎は何を意味するのか。本書ではその実像と政変の動機に迫ることで、日本史研究における中世と近世の間に生まれた空白の真実を解き明かす。

目次

序章 三鬼清一郎の学説と「室町幕府奉公衆」(「明智光秀の乱」から「天正十年六月政変」へ;顧みられなかった第一人者の学説;明智光秀と「室町幕府奉公衆」)
第1章 室町幕府と「織田・明智体制」(天下人織田信長と室町幕府;明智光秀の地位について;「織田・明智体制」の成立;足利義昭の出奔と織田政権)
第2章 明智光秀とは誰なのか(明智光秀の出現と信長;明智光秀になった人物;明智光慶と光秀の妹ツマキについて)
第3章 信長の政権構想と「織田・明智体制」の崩壊(将軍権力襲撃事件(将軍御所・本国寺・本能寺)
織田信長の歴史的使命
「織田・徳川同盟」と明智光秀
「山崎の戦い」と室町幕府の滅亡
信長と光秀の十七年間)

著者紹介

小林正信[コバヤシマサノブ] 
1962年愛知県春日井市生。2001年織豊期研究会参加。三鬼清一郎名古屋大学名誉教授に師事。2011年博士(比較社会文化)九州大学(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

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■奉行所日録(抜書)から宮本武蔵の俸禄について

2014-09-16 07:12:15 | 史料

 上妻文庫にある奉行所日録の抜書には、宮本武蔵の俸禄に付いてまとめられている。

※1          寛永十七年八月十三日
            一、宮本武蔵ニ七人扶持合力米拾八石遣候 寛永十七年八月
               六日ゟ永相渡者也
                  寛永拾七年八月十二日 御印
                                   奉行中
                  右御印佐渡守殿ゟ阿部主殿を以被仰請持せ被下候右之
                  御印を武蔵ニ見せ不申御扶持方御合力米ノ渡様
                  迄ヲ能合点仕やうに被仕候へと被仰出旨主殿殿所より
                  佐渡殿へ奉書を相添候と佐州ゟ被仰聞候也
 

   この時期忠利は江戸に在る。武蔵は松井興長を頼って熊本に入るが、早々に江戸の忠利に伝えられたのであろう。
  七人扶持とある所を見ると小姓や下働きなどが七人いたということか、八月六日に遡り扶持米を支給することを命じている。
  十八石は切米ではなく合力米と書かれている所を見ると、即支給されたものか。※2において新たな指示が為されているから、それまでの間
  これで過ごすようにと言う事であろう。「永相渡者也」とあるから、武蔵を永く客分として預ろうという忠利の思いが見える。
  この奉書(右御印)は見せずに、「御扶持方御合力米ノ渡様迄ヲ能合点仕やうに」という言い回しが面白いが、この待遇で合点してもらうように
  よく話しせよというのであろう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

※2          一、宮本武蔵ニ米三百石遣候間佐渡さしづ次第ニ可相渡候
               以上
                  寛永拾七年十二月五日 御印
                                   奉行中

   ※1は緊急的な処遇を指示したものであったのだろう。約四か月後、無役の蔵米三百石を遣わすことを指示している。
  つまりは家臣としての扱いではなく、あくまでも客分としての待遇である。四公六民として考えると、知行に直せば750石の高禄と等しい。
  武蔵が黒田家家老・寺尾氏の養父であることを慮ってとする研究者の説が多い。 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

※3          一、宮本武蔵ニ米三百石遣候間可相渡者也
                  寛永拾八年九月廿六日 御印
                                   奉行中

   ※2と同様の指示であるが、このとしの三月十七日に忠利は死去しているから、この指示書は光尚によるものである。
  光尚も忠利の意向を踏襲したことが判る。 

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※4            宮本武蔵ニ米三百石遣候間可相渡者也
                  寛永拾九年十一月八日 御印
                                   奉行中
                宮本武蔵ニハ御米被遣候時御合力米と不申唯堪忍分之
                御合力米として被遣候由可申渡旨奉七郎右衛門 


   ※3と内容は変わらないが、追而書きがある。この文章によると三百石は合力米なのだが武蔵にはそうは申さず、「堪忍分」であると云って遣わせ
  といっている。堪忍分とは次の様に定義されている。 http://kotobank.jp/word/%E5%A0%AA%E5%BF%8D%E5%88%86
  合力米(ごうりょくまい)とは「施し与える」米であるから、より穏やかな「堪忍分」の表現をするようにとの気配りである。

  細川藩に於いて合力米がどのような形で支給されたのか詳しい資料が見受けられないが、サイト「金春流肥後中村家」の中の「閑話休題・合力米の
  ことなど」
にみる資料は大変興味深い。 

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 奉書    高位者がその意思・命令などを特定者に伝える際に、家臣などの下位者に一度その内容を口頭などによって伝えて、下位者が自己の
        名義でその旨を記した文書を作成して伝達の対象者である特定者に対して発給する形式を取ったもの。

 蔵米(取) 藩庫に納められた米から、俸禄として現物支給された。
   ・擬作(あてがい)  知行取に準じるが地方を持たず蔵米から支給される。(公租の対象と成る)

   ・切米取    春・夏・秋三回に分けて支給
   ・扶持米取  一人扶持を米五合として毎月支給 
 

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■海舟・龍馬が見た豊かな国

2014-09-15 14:31:34 | 歴史

                                                  



 1995年初版の「貧農史観を見直す」という本がある。BOOKデータは「むしろ旗を立てて一揆を繰り返す“貧しき農民たち”は事実か。年貢率、生産力のデータを検証し、江戸期の「農民貧窮史観」を覆す。」と紹介している。

熊本に於いてはこの著に応じるように、蓑田勝彦氏が「天保期 熊本藩農村の経済力 --生産力は200万石以上、貢租はその1/4--」を発表された。

文化・文政期になると農民も豊かになり多くの地域で目鑑橋が建造されるようになる。谷に阻まれた土地に導水する通潤橋などは今もって利用される熊本がほこる土木遺産である。藩の能吏・上妻半右衛門や真野源之進の元で、布田保之助らの活躍で完成したものだが、「マンパワーで出来た通潤橋」の筆者・石井清喜氏は、「この通潤橋が出来た嘉永七年(1854)が熊本における明治維新のスタート」だと喝破しておられる。

又、有明海や八代海沿岸その他の干拓も目覚ましく水田面積の約3割がこれによってもたらされている。
細川氏の肥後入国から幕末維新までを、実高75万石ほどで押しなべて議論するには大変無理がある。蓑田氏の「生産力は200万石以上」に応ずる論考をまだ見ることが出来ない。 

 文久四年(二月廿日改元・元治元年--1861)二月、長崎に赴くために豊前佐賀関から鶴崎・野津原・阿蘇を通って熊本入りした勝海舟・坂本龍馬らは豊かな熊本の地を目の当たりにして日誌にその感慨を記している。通潤橋をさすと思われる知識も十分にお持ちである。


       ■十五日 五時
          豊前、佐賀関、着船。即ち徳応寺へ止宿。
          地役人、水夫、火焚へ酒代遣わす。惣計五両一分。
       ■十六日 豊後鶴崎の本陣へ宿す。佐賀の関より五里。此地、街市、可なり。
          市は白滝川に沿う。山川水清し、川口浅し。
                                    大御代はゆたかなりけり旅枕一夜の夢を千代の鶴さき
       ■十七日 野津原に宿す。五里、山の麓にて、人家可ならず、八幡川あり。
          大抵一里半ばかり、川堤に沿うて路あり。
          海道広く、田畑厚肥、桃菜花盛、関東の三月頃の季節なり。
                                    民のかまどゆたけきものをしらぬいのつくし生てう(おうちょう)野津原のさと
          野津原の宿より出ずれば、山路。この道、久住山を左に見る。
          往時、この宿の村長三輔なる者、山中より水源を引き、三渠を引く。
          これより古田二十余町、新田三丁余町を得たりと、その事業を記し碑あり。
          七里。
          豊後佐賀の関五里泊。
          港せまし。上下二所あり、入口、上の口暗礁あり。山脚に沿うて入るべし、中央危し。
       ■十八日 久住に宿る。細川矦の旅邸。惣体、葺屋、素朴、花美の風なく、庭中泉を引き、
          末、田野に流る。七里地は、久住の山脚にして、殆ど高崇、地味可なり。
          山泉を引きて左右に導く。小流甚だ多く、架する橋は皆石橋、円形に畳み、橋
          杭なし。導泉、意を用いて左右数所。林木これが為に繁茂し、稲、栗、皆実る
          べし。その高名、尽力の至る処殊に感ずべく、英主あらざれば、この挙興しが
          たかるべし。他領、公田の雑る所、熊領に及ばず。また聞く、この地の南方、導
          泉の功、この地の比にあらず。或いは山底を貫き、高く噴出せしめ、或いは底な
          しの深谷に帰さしめ、皆田畑の用に応ぜしむと。
          山上より阿蘇嶽を見る。この嶽に並び立ちたる高峯あり。猫が嶽と云う。
          人跡到らず。山の頂上、大石、剣の如く成るもの直立す。妙義山に比すれば、更
          に一層の奇峯なり。
       ■十九日                       八里
          内の牧に宿す。この地もまた山中、山泉自由なり。
         惣て鶴崎より此地まで、土地厚■、熊領は大材甚だ多し。此地より街道杉並樹、
         数十年の大林、左右に繁茂す。我、此地を過ぎて、領主の田野に意を用いしこ
         と、格別なるに歎服す。また人民、熊本領にして素朴、他国の比にあらず。 
          内の牧より二里、的石村あり。爰に領主小休の亭あり。素質、底は山泉一面に
         流る。夏に宣し。北に北山あり、南に阿蘇あり。阿蘇の脚甚だ広く、田野あり。
         また一里半にして二重の峠あり。甚だ高く、峠の道十八、九町、最難所、路、山
         の脚、殆ど頂上をめぐる。
         峠を下り少々行けば、大石直立、大斧壁をなせし所あり。侘立十丈ばかり、横
         また同断。路を挟みて左右に直立す。これを過ぐれば大杉、山脚に並し、山腹
         鬱として殆ど唐画と一況。
         大津宿に到る。五里。大津宿より、熊城下までは少低の路、左右大杉の並樹、
         この中、桜の大樹十四、五丁の並樹あり。道中甚だ広し。熊城を路二里より望む。
         天守孤立、築制他城の比にあらず。外周最大なり。武士屋敷、その中にあり。
         郭畳高く、堅牢おもうべし。
         熊城下新町の本陣に宿す。矦より十文字の鑓刃を賜う。我が門の藩士、数人来訪。
         横井先生へ龍馬子を遣る。
       ■二十日 (元治と改元、海舟がこのことを知るのは三月九日長崎に於いてである)
       ■二十一日 新町出立、馬にて高橋宿に到る。同所より乗船。此夜、島原へ渡る。此地、小川
        あり。小船にて川口へ下る、半里。
              高橋の郡奉行岩崎物部に面会。志士なりと云う。
       ■二十二日 払暁、島原へ着船。

                       (帰路は略す)



  
   

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■たまらん坂

2014-09-15 07:03:33 | 徒然

 毎朝の約30分2キロほどの散歩コースは高低差が15メートルほどある。段丘地の端の部分を削り取るような形で、国道57号線の通称東バイパスが走っているがこの坂が急坂なのである。私はひそかに地名から「下南部坂」と呼んでいるのだが、人様に話して通じることはない。
お江戸の南部坂(ねんぶさか)とは読みが違ってこちらは「しもなべ」坂である。熊本風に云うと「しもなべんさか」(ん=の)である。

時折往きと還りのコースを変えて歩くのだが、いずれにしろ登りと下りの坂があり難儀なことである。

二三日前の読売新聞デジタル版に忌野清志郎の「多摩蘭坂(たまらんさか)」の話が出ていた。
かって変な歌だな~と思って聞いたことがあったが、今改めて歌詞を見て見るといかにも清志郎らしさに満ちている。
 
                      http://j-lyric.net/artist/a001cbe/l01121c.html 

東京商科大学(現・一橋大学)の生徒が当時ぬかるんだこの坂を、「タマラン/\」と云いながら登っていたことが坂の名の由来である。

作家黒井千次の短編集に「たまらん坂」があるが、なんだか面白そうでさっそく読んでみようと思っている。
毎日「タマラン/\」と思いながら「下南部坂」を上り下りしているが、血圧も下がってくるという効果が出ると「タマラン」も72爺の楽しみとなった。
今日は敬老の日、津々堂はどうやら元気にしております。

                                       

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■細川家の一色氏誅伐と黒田家の宇都宮氏誅伐

2014-09-14 20:50:34 | 歴史

 大河ドラマはいよいよ秀吉の「九州征伐」へと場面が盛り上がってきた。今日は黒田氏の宇都宮氏誅伐であったが、見ていてどうも後味が良くない。
いわゆる騙し討ちである。宇都宮鎮房の死は天正16年のことだが、遡る天正10年には細川家が幽齋の娘婿・一色義有をやはり誅伐している。
細川フアンの私としては唯一面白くない一事である。黒田の方は秀吉の命令だとはいえ、この騙し討ちは細川の一色誅伐とよく似ている。
当然黒田は此の事を知っていただろうし、案外参考としたのかもしれない。そう思うとますます不愉快である。

因みに、忠興はその後大徳寺の僧となっていた一色義有の子を殺害している。亡霊に悩まされ小さな祠をたててこれを祀つた。現在熊本県立図書館の敷地(元・細川内善家下屋敷)のなかにこれはある。   細川内膳家と希首座の祠

一方黒田氏も同様で中津城、移封した後の福岡城内にも宇都宮親子を祀ったという。 

宇都宮頼房の子・朝房は肥後国植木に於いて黒田孝高の手の者に依り殺害された。
植木にほど近い玉東町の山手に宇都宮神社がある。ここに頼房と朝房が祀られている。

           http://5.pro.tok2.com/~tetsuyosie/kumamoto/tamanagun_gyokutomachi/utsunomiya/utsunomiya.html 

肥後国一揆も平定され、九州の姿も様変わりしてゆく。細川家が黒田氏に替り豊前入りするまで僅か12年である。

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■「北村甚太郎覚書」釈文--9・10

2014-09-14 07:12:37 | 史料

                                

                              一、同廿五日敵東西より一度尓貝を吹立巳の刻尓搦手の
                                 口   カハ
                                町に外輪まて時の声を上ヶ大勢責来り申候城中より

                                侍三十人斗り罷出鉄炮打合防申候處尓 幽斎公より

                                為御使石寺甚助藤木伊右衛門被遣急起引候て城中銘々の                                                                                                                 狭間 
                                持口を能守り候へと被仰渡付て引取々候て矢倉さ満塀
                                                     を            を
                                裏なと相堅め居申候處尓敵大橋越わたり本町筋越

                                大勢時の声を上ヶ通り候て搦手の堀際まて小野木

                                縫殿介昇参る 然共其堀の橋兼て此方より引置申候付

                                敵勢堀際尓つかえ居申候處右塀の上尓大草矢倉

                                とて松山権兵衛預りの矢倉有之候 其時妙庵公より山林

                                勘右衛門をもって我等尓被仰付候ハ急ぎ大草櫓へ参り

                                権兵衛一所尓て鉄炮を打敵退ヶ候へと被仰下尓付則小林

                                勘右衛門同道いたし大草櫓へ参り下の堀際につかへ居申候


                                        
                                敵七八人打多をし申候尓付残る敵ともこらへかね皆々敗

                                軍仕候 右七八人の内一人ハ昇大将と見へ申候黒き甲黒皮

                                おとし尓鳥毛の棒を差物尓したる武者なり 残六人は

                                昇差と見へ候 其時権兵衛鉄炮尓て打倒申候ハ我等見

                                届申候 又我等鉄炮尓て打倒し申候ハ権兵衛見届申候 又
                                     未
                                其日の巳の刻尓大手へ敵大勢尓て責かけ申候 大手ハ殊尓

                                我等とも請取の口ゆへ急ぎ罷帰り荒木善兵衛丸山源十郎
                                               ィ此衆我等居申候
                                宮部市左衛門大塚源次右之衆居矢倉ならびなり各受取の

                                所々より鉄炮打申候 大手杉の馬場と申先の道城より二町

                                四五反斗有之其道へ小出大和山崎左馬昇参りて頻尓責時

                                をあけて責懸り申時先懸仕候武者昇差八九人打倒申候得は

                                跡勢志らミ道尓立留り溝尓かゞミ或ハ木の根尓取付かゞミ

                                又ハ其人の跡尓取付/\して暫く引兼て申ノ下刻まてかゞみ

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■「北村甚太郎覚書」を読む--10

2014-09-13 11:07:38 | 史料
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■「北村甚太郎覚書」を読む--9

2014-09-13 11:05:30 | 史料
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■読書中の二冊

2014-09-13 10:16:03 | 書籍・読書

 飛蚊症で読書をしていても目の前がうるさくてしようがないのだが、PCよりもよかろうとせっせと読書にいそしんでいる。

「幕末明治・女百話」は昭和46年3月が初版の本である。幕末明治期の有様を100人の女性に聞き取りを行った貴重な成果である。
大名・旗本・侍・町人又明治の元勲と言われた人などを近くから見届けた人たちの話しであり、それぞれの人達が急激な時代の変化に翻弄されていくありさまが、大変面白くも有りまた気の毒でもあり同情に値する。
「財産の金銀の隠し場所を考えた挙句、丸髷に結いこんで寝たが、翌日あまりの重さに起き上がれなかった」等という、落語に出てくるような話には、思わず声を出して笑いそうになった。聞き取りの作業をされた方に脱帽・・・・・

「慶長大名物語」は、日出藩主・木下延俊の慶長十八年の日次記だが、これは必要に迫られて読んでいるが今日で三日目、そろそろ読了としたい。
原本である 木下延俊慶長日記―慶長十八年日次記 も読みたいところだがこちらは後日・・・・

来週は週末の20日が史談会の例会、「阿部茶事談」をとりあげて最終回と成るため、机のわきに積み上げた五冊の本を読みこまなければならない。
 


 

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■たくさんの蚊

2014-09-12 15:53:38 | 徒然

 目の前にたくさんの蚊が飛び交っています。払っても/\飛び交っていてまったく鬱陶しい限りです。
「飛蚊症」がひどくなって困っています。代々木公園の「蚊」ではありませんから健康に害はないのですが・・・・・・
日がな一日、PCか読書か・・・ですから致し方ありません。仲秋の名月は二重にみえましたし、乱視がひどくなったらしく眼鏡が合わなくなったり・・散々です。

20代のころ「おひめさん」を切開してもらうために眼科医にいって以来、一度も受診したことがないのですが、「飛蚊症」って治療法があるんでしょうか???
 

コメント (2)
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