津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

「旦夕覺書」 鳥--6

2011-06-23 21:58:04 | 旦夕覺書

一、今の世に善人といわるヽ人上下共に有兼申候と聞申候 たとへは少の事にても扨々能仕候の能申
  たるのと誉られて自慢顔にて居申者多く候 世々代々家々數萬人の勤たる路にてたとへ見聞いたさ
  す共おのすと工夫にて仕候事も聞及ひたるの見及たるなとヽ申候 自慢顔にて居申よりは一位能き
  人柄と存候 功譲ると申古賢の傳は右の心得たる人まれには數十年江戸御供にて上下の侍中に出
  合咄申候は少の事にても其身は自慢顔にて咄申候 今度江戸中に壱度も御奉公をかヽし申さす熊
  本にても個様/\と咄申人多有之候 小者中間下々一年給銀取候末々の申様成る事と拙者は歩の
  御使番勤申時分より心の内には扨々あの男は物頭にも被仰付先祖代々御知行をも被下候者のさ
  もしき心底成と存候へ共能奉公人と申に成たる儀多く御座候 右之通の者忌かヽる軽き親類なとは
  隠し忌の内にも勤申を承及ひ申候 或は生れ付不気根に病よわき人は其時々には引籠養生仕快成
  候て勤可申事に候 尤虚病にて夫程の事にて無く度々御奉公を勤不申候者も御座候へとも夫は人外
  と存候へとも必々左様の者は不實故あなたこなたと軽薄仕却て實儀に勤たる者より能く成り候者有
  之候 併天道明らかに御座候へは必々後には悪敷成申候 たとへは御意に叶候へはわき/\より
  も其節々誉申候けいはくの者の不實は天の御にくみにて必々後には悪敷成候事歳寄候へは能く思
  ひ合候事多く候 此後各も年若く候へは随分心かけ各より末々に筋目有之者或は實儀にてうすもれ
  たる者は引立被申候心持第一に我身の命も天明候へは願てもならす貧福も同前にて候 右の通の
  心得は天道に叶ひ差當ては其人の為能人にて候へは御為にも成り申候 當世は大形我心に叶たる
  者をは色々才覺にて能く成り申候へとも其人にあらされはうかへる雲のことしと申聖賢の詞の通各
  も定て心底には思ひ可被申候 拙者事に値へは數十年の儀覺申候 其上に先御代の咄も承傳候
  日本には聖賢と申は人王以来少く御座候也 又明大将と申も少く御座候つる 人の目利は聖賢なら
  てはならぬ事と承り申候 うかへる雲のたとへを能々工夫可被仕候 必々浦山敷被存ましく候 不實に
  て欲心深き人は必々天罰承申事定りたる儀に候へ共或は不仕合者の又あれさへ如斯なとヽ當世の
  人は大形天道を恐れ不申不實は目に見へす利發口利口に當時/\間合せ申者を能人と沙汰仕候
  事三十四五年此かた別て多く候 江戸表の儀承傳候へば昔を御好被成候と聞候間次第/\に實儀
  成者と不實者とあはられ可申と人の非をかくし申事道にて人の善をは少の事にても顕れ申様にと心
  得候事専用と見へ候得とも當世はうらおもてにて我身は不及申他人も気に合候へは非と存なから
  色々能申直し候 しかし人をめくむ心にて候へは非を改善に移り候はヽ天道も御ゆるし可被成哉其身
  聖賢にてなく愚人の目利に合兼可申候 實成人は必働不申候 侫奸に必發明利發者と見へ申大にて
  は家をたをし小に人をたをし申候 東照宮の御遺訓に大賀彌四郎と申人御目利違にて信長公へ御附
  御悔の儀委細に書て有之候 左候へは末々の人の目利相違候事有間敷物にてなく候兎角人をめく
  むと申事天道の好事と申候へはめくむ心にて目利相違は其人により御ゆるしも可有候 主人之為と
  申て大形に其身/\の為に成事多く有之故天罰多く有之と見へ候

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

一、妙解院(忠利公)様御代に御國中の竹の皮を請申銀子差上可申と京都の町人とも以才覺達御耳熊
  本にて御郡奉行其外御勝手方の役人に如此京都の町人さへ申上候に郡を御預被成候者共御為を
  おろそかに存候故心付不申と御叱り被成候由 其趣何某とか申仁申上候にいかにも心付申候へと
  も當分銀■差上申は御為めの様に聞へ申候へ共以後に御為に不成候 其譯は御國中の竹のかはは
  其處の村々に老人或は病者にて子供に懸り居候者何百も御座候 其者取候而すけ笠同前に笠を拵
  へ或は草履に仕渡世を送り申候 子供の助けに成り申候 町人に被遣候てに其渡世おくり申者子供迄
  も迷惑におよひ候はヽ夫/\御吟味の上にて大分の米不被為拝領候はヽ成間敷候 他國へ聞へ候
  ても御外聞も不宜と奉存候故其分にて召置候由申上候へは扨々尤成儀と御誉被成候由宇野理兵
  衛郡奉行寄合の刻此咄承り候て咄被申候 誠に此事を存候はに諸事に付て如斯心持有可之事と書
  置候 寔に信實に御為を奉存心より顕れ申候先見の明と有之聖賢の言に後年の儀を考申事と申候

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Congratulations

2011-06-23 18:57:40 | 徒然

           JR九州の九州新幹線TVCMがカンヌ国際広告祭で金賞受賞!

           http://www.youtube.com/watch?v=g5kU6mImUh0

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御代々様御参勤御帰国 (2) 忠利公

2011-06-23 08:04:43 | 歴史

忠利公
          http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E5%BF%A0%E5%88%A9

忠利公御参府御帰国之年号等 御旧記不詳 相知居候分如左

一、慶長五年正月廿五日大坂御発駕 江戸為證人御越 于時御十五歳
一、同九年夏 三齋公於豊前御病気御大切付 忠利公初御暇被仰出豊前御下向 忠利公御證人後始而御帰国
一、慶長十年四月従小倉京都御越 此時伏見ニ被為在候と見へたり
  此春秀忠公御上洛 四月将軍宣下付而也
一、同十一年御在府 六月十日御暇被仰出 豊前仲津御越
一、同十四年御在国 此年四月於仲津御城御婚姻
一、同十五年春 諸家様御一統尾州名護屋城御普請御手伝 忠興公被蒙仰 忠興公名護屋御越
  御勤後忠利公御出御代御勤
一、同十六年三月 家康公御上洛付 忠利公京都御越 御迎
一、同十九年春、従仲津江府御越 十月御暇被仰出 江戸御発駕筥根迄御越之処 大坂之難御承知
  御願御帰府 同十一月秀忠公御随従大坂江御越 此時大坂調和儀成
一、翌元和元年春御暇被仰出御帰国
一、同年夏再ひ大坂御陣付 四月家康公秀忠公大坂御発進 依之忠利公四月晦日仲津御出陣
  陸地より御進備前国片上迄被遊御押候処 五月七日大阪落城之由被遊御承知 片上より御人数御
  返し直伏見御越 五月十五日家康公秀忠公江御謁 八月秀忠公東都還御付随従御着府
  同年冬御暇被仰出御帰国
一、同二年三月駿府御越 廿四日家康公秀忠公御拝謁 四月御暇被仰出候得共御滞留 此年四月
  十七日家康公薨御 秀忠公従駿府東都還御付 忠利公御随従江戸御越 此年御暇御帰国と見へたり
一、元和三年春 従仲津江戸御越 此年秀忠公御上洛付き御先京都御越 十月江戸御越
一、同四年十月御暇被仰出候処 有御故而御滞留 十一月江戸御発駕 十二月十五日仲津御着
一、同五年五月八日秀忠公御入洛付忠利公自仲津御越 同年秋冬之間京都御発駕江戸御越
一、同六年十一月廿八日御暇被仰出御帰国 此年冬忠興公於江戸病気付忠利公急仲津御発駕
一、同七年正月二日江戸御着 即日御登城御拝礼 同七日御家督御登城御拝礼 同年夏御暇被仰出御
  帰国 此年忠利公小倉之御城江御移
一、元和七年十一月小倉御発駕 十二月十四日江戸御着 同十六日御拝礼
一、同九年夏 秀忠公御上洛付忠利公御先京都御越 秋御暇被仰出京都御発駕 小倉御帰着
一、寛永元年 元和十年改元 諸家様御一統尾州大坂城石垣御普請 忠利公被蒙仰候付 三月六日小倉
  御発駕 十七日大阪御越 御普請場御巡覧 四月八日江戸御越
一、同二年四月御暇被仰出 五月廿八日小倉御着
一、同三年五月十三日小倉御発駕京都御越 九月家光公御参内付御迎御扈従 同九月廿六日上使
  吉田之御屋舗御出御暇被仰出 十月十七日小倉御着
一、同四年二月五日小倉御発駕 同廿八日江戸御越 三月朔日御拝礼 此年冬御帰国
一、寛永五年十一月小倉御発駕 十二月十八日江戸御越 廿一日御拝礼
一、同六年冬御暇被仰出 江戸御発駕 十二月五日小倉御着
一、同七年十一月五日小倉御発駕 同晦日江戸御着 十二月朔日家光公江御謁 同六日秀忠公江御拝謁
一、同八年御在府
一、同九年正月御暇被仰出 二月十日江戸御発駕 三月四日小倉御着
一、同年依召九月十三日小倉御発駕 十月三日江戸御着 東海道御旅行 同四日肥後国拝領 同八日右
  為御礼登城 同十二日御暇被仰出 同十五日江戸御発駕 東海道御旅行 十一月十日小倉御着 十二月五
  日小倉御発駕 同九日肥後御入国 熊本城御入
一、寛永十年九月十二日熊本御発駕 十月十日江府御着 同十三日御拝礼
一、同十一年家光公御入洛御参内付而 忠利公御供奉被蒙仰 五月御暇被仰出江府御発駕 同廿一日
  上鳥羽御着七月十八日御参内之節 忠利公御衣冠而四足御門御候 同年閏七月廿九日御暇被
  仰出 八月朔日上鳥羽御発駕 同十三日熊本御着
一、同十二年正月十六日熊本御発駕 二月十四日江戸御着 同十八日御拝礼
一、同十三年五月御暇被仰出江府御発駕 六月九日熊本御着
一、同十四年三月廿日熊本御発駕 閏三月九日江戸御着
一、同十五年嶋原一揆付 依御願正月十二日被為召 即日江戸御発駕 同廿五日熊本御越 御城
  不被為入 立田村より白川御渡河尻江御越御乗船 翌廿六日己刻直嶋原御着 賊徒御討捕之 二月
  廿七日原城落去 三月二日有馬御発即日熊本之御城御凱旋
一、此年三月廿六日熊本御発駕 同廿九日小倉御着 諸御大名様追々御到着 四月四日上使太田備中
  守様今般於有馬忠利公昼夜御郡労御感之旨御演述之 即日忠利公小倉御発駕 小国通南郷御入湯
  同十日熊本御着
一、同十六年二月廿六日熊本御発駕 三月廿三日江府御着 四月四日御登城御拝謁 御前近く被為召
  於有馬被為尽御精力候段上意 
一、寛永十七年四月御暇被仰出 五月十八日江戸御発駕 六月十二日熊本御着
一、同十八年三月十七日於熊本御逝去

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すぐれもの

2011-06-22 16:44:31 | 徒然

                       値段1,480円(アマゾン)

 首からさげられて歩けて使えるの防災ライト。片手で使える簡単スイッチ。強・弱・点滅の調光機能。雨天でも使える防滴仕様。LED3灯で明るく、足元灯としても使用可能。ウォーキング時にマーカーライトとして使える点滅機能付き。電池寿命:強/約10時間、弱/約60時間、点滅/約100時間。使用温度範囲:0℃~40℃。質量:約45g(コイン電池を含む)。明るさ:強/約60lx(1m前方、電池初期時)、弱/約10lx(1m前方、電池初期時)。光源:白色LED×3個。電池:CR2032×2個(電池付)。明るさ約6倍(BF-973BP比較)
     

     パナソニック(Panasonic) LED防滴ネックライトBF-977P ECM977 ECM977

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「旦夕覺書」 鳥--5

2011-06-22 13:16:08 | 旦夕覺書

一、上田新兵衛咄にて承候廣島にて此以前安藝守様御家中に縁組に出入有之中々六ヶ敷成申候 何
  某とか名は失念候 歴々の嫡子年若く候へとも智勇義兼たる人にて候故無事に取持事済申候 其後
  御下國被成候て御家老御用人なと被召出色々御聞被成候時に右の取持被申たる親罷出被申候は
  未被聞召と奉存候 今度御留守の内にヶ様/\の儀御座候而六ヶ敷罷成候處私嫡子取持事済申候
  此段は是に居候者とも能存申候 尤親の身にて申上候段いかヽ共奉存候へとも是は御家中の侍と
  もの平生覚悟可仕事にて後に御召仕候時御用立可申子供の為にて御座候 御褒美を可被下儀と奉
  存候と申候由安藝守様御聞被成扨々能申上候とて感申候 此咄は舎人殿にも度々咄申候 新兵衛殿
  被申候 上田主水は新兵衛殿母方の祖父天野半之助は主水聟かと覺申候 両人ともに隠なき人に
  て半之助は若き時分は松倉豊後殿に居候 大坂夏陣に高名仕安藝守様に三千石にて御召出候
  右之通の筋目故新兵衛殿は眞源院様御代に御召出御年頃に御召出候由承申候 嫡子の儀を申上
  候人も右の両人の内か慥には覺不申候 扨々明白成心底と感心仕書置候 総して武士は武勇を専
  ら用る事と見へ候得とも乱世の時は銘々の志の働にて名も高く候へとも御静謐の時には平生の言
  行専一に身を嗜心を明白に夫々の勤真實に命を上ケ置候しるしの外にも願はるヽ程の人はたとへ
  は明君成れは遠近となく被見届上の好勇義下々にも多く何事も上の好ことく成ものヽ由聖賢の傳言
  各も見可被申候へとも書付置候
        貴慎     樂義士 
      上有好利行則  下有盗賊俗
        用謀     佞好徒
  如斯乱世の時さへ心にかけ候へは名も高く子孫の面目にも成り申候 御静謐の時節は座敷の上に
  ての勤食事おもふ様に給へ衣類居宅も相應にとおこる心さへすくなく候はヽ上中下ともにくらし能時
  節殊更江戸表の儀を傳承候へは當世のおこりを御嫌ひ古風を御したひ被遊候様に相聞誠に以各は
  結構なる時節に御逢ひ候と存候 からやまと共に昔の善人と申程の人上下共におこる者をきらひ申
  さぬはなきと見へ申候 武田信玄の内武勇すくれたる者ともに奉行役其外色々に被召仕候に如願万
  事能埒明申候由 されとも乱世の時分にて差當戦場の御用大事に思召古の人々に或は侍頭足軽頭
  に城代境目を御預け候由に候 左候へは明白成心にても武道もすくれ夫々の役も明白に埒明申たる
  と聞へ申候 しかれは武士たる者は専一に心を清く朝暮我身を主君へ上置たる事忘れ申さぬやうに
  嗜み申候はヽ先我身の養生能息災に無之候ては勤も成り申間敷候 兎角我身を我と思ふ故に或は
  私欲多く立身を心かけへつらひ可申事も諸人にしかられぬ様にと口をすくみ萬事我とくるしむ事人は
  しらぬと思へ共諸人目も耳もかわらぬ物故おのすと見およひ聞及ひ笑ひそしり申事八十に成り候へ
  は數十年能覺申候名大将衆は御家来は不及申牢人を被召抱候に十人ともに誉申は御不審にてけ
  いはく者かと侫奸者のかろきは人をそかないおもきは國天下乱れと成事古今書物に見へ申候 右二
  色は明白心不明にては見へ不申物と聞へ申候 三好・松永・石田其末々にも數田記録候 唯今も可
  有之候へ共すくれたるも善悪共に乱世に成候ては少く成候と見へ申候

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御代々様御参勤御帰国 (1) 忠興公

2011-06-22 08:17:25 | 歴史

忠興公
          http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E5%BF%A0%E8%88%88

忠興公参府且御帰国之儀は御旧記桔闕多 御在府御在国之年月等不詳 大概相知候分如左

一、慶長五年十一月二日豊前国御拝領 十二月廿六日御入国 仲津御居城
一、同六年春御入洛 六月廿日御帰国
一、同八年正月従豊前小倉伏見御越 前年十一月仲津御城より 此年二月家康公御参内
  将軍宣下御拝賀付 忠興公御扈従付而也
一、慶長八年七月廿一日大坂御越 同廿六日家康公御拝謁
一、同九年小倉御在国
一、同十年春従小倉伏見ニ御越
  此年春秀忠公御上洛 四月将軍宣下御拝賀付而也
一、同十四年五月従小倉駿府及江戸御越 八月御帰国
  此年忠利公御婚姻付為御禮御参府
一、同十五年尾州名護屋城御普請 諸家様御一統ニ忠興公被蒙仰 御越
  御参勤後忠利公御出御代 忠興公御帰国
一、慶長十六年二月従小倉御入洛 吉田御住 同五月御帰国
  此年家康公御上洛付而也
一、同十七年江戸御城石垣御普請 諸家様御一統ニ忠興公被蒙仰 御越
  此節御出府御勤而可有之候得共 御出府之儀御旧記不詳
一、同十八年十二月廿六日江戸御越 廿七日御拝礼
一、同十九年四月十日江戸御発駕御帰国 十二月大坂御陣付忠興公依御願
  小倉御出陣 門司浦江御越候処大坂御扱成注進付 従同所御帰国
一、元和元年 慶長二十年改元 御在国 此年大坂御陳付忠興公御先鉾御願
  四月廿八日小倉御発 五月三日攝州花熊浦御着船 同五日攝州淀御越
  同八日大坂落城 同十日洛外吉田御越 閏六月御暇を賜御帰国
一、元和元年冬駿府ニ御越 此時信国御脇差御拝領且可被復細川氏之台命等有之 従是江戸御越
一、同二年之春御暇被仰出御帰国
一、同年十二月江府江御越
一、同三年春御暇被仰御帰国
一、同年六月従小倉京都御越 十月御帰国
  此年秀忠公御入洛付而也
一、同四年七月光壽院様御病気付 急小倉御発駕江戸御越 数十日御滞留御帰国
一、同年十一月廿四日江戸御越 同廿七日拝礼
一、同五年四月廿一日御暇被仰出 同月廿五日江戸御発駕 五月七日吉田御越
  八月吉田以上使御暇被仰出
一、同六年冬江戸御越
一、同七年正月依病気御隠居 三齋公と改 御暇被仰出御帰国
  此年六月廿三日従小倉仲津之御城御移
一、元和八年十二月十五日江府江御越
一、同九年五月御暇被仰出 京都御越御滞留 家光公御入洛御待 閏八月或九月仲津御帰国
一、寛永元年 元和十年改元 十二月仲津御発駕
一、同二年正月江戸御越 同年冬御暇被仰出 仲津御帰国
一、同三年六月仲津御発駕 京都御越十一月御帰国
  此年 秀忠公太政大臣 家光公左大臣御転任而御上洛付而也
一、同四年夏江戸御越 十一月十四日御暇被仰出 同廿二日江戸御発駕 翌年正月仲津御着
一、同六年江戸御越
一、同七年御在府 八月十四日御暇被仰出 同廿日江戸御発駕 九月廿九日仲津御着
一、寛永八年秀忠公御不豫付十二月十四日比江戸御越
  九月十三日小倉御出船
一、同九年御在府 此年十月忠利公肥後國御拝領
一、同年十月御暇被仰出 十一月十四日仲津御着 同月廿六日仲津御発駕
  十二月廿日肥後國熊本御城御入 同廿二日八代御城御入 御請御城入ハ廿五日
一、同十一年家光公御入洛付六月八代御発駕 同廿日京都御着御拝謁 八月八代御帰着
一、同十二年三月八代御発駕 五月五日江戸御着 十月四日八代御帰着
一、同十三年秋御病気付御願 十一月八代御発駕 洛外吉田御越
一、同十五年二月廿七日吉田御発駕 三月十日江戸御着 九月御暇被仰出十四日江戸御発駕
  十一月四日熊本御着 五日八代御着
    此時嶋原賊徒蜂起付 三齋公御事 将軍様御代々御約諾之旨有之由而江戸御越
一、寛永十六年四月四日江府御着 十八日御拝礼 同十一月十八日御暇被仰出
  閏十一月五日江戸御発駕 十七日吉田御着 翌十七年七月吉田御発駕八代御越
一、同十八年三月十七日忠利公御逝去 五月光尚公御遺領御相続付 三齋公従八代江戸御越御礼
一、同十九年四月廿五日御暇被仰出 廿六日江戸御発駕 六月十七日八代御着
一、正保二年十二月二日於八代御逝去 

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熊本県立図書館の「富永家・武道関係資料(牧堂文庫)展」

2011-06-21 11:36:38 | 徒然

 熊本県立図書館の3階の一画で、「富永家・武道関係資料(牧堂文庫)展」が催されている。何度か拝見したが長期にわたる、企画を入れ替えての展示が中盤に入った。  

            http://www.library.pref.kumamoto.jp/event/kityoshiryo.html

 試し切り(胴斬り)の模様を描いた絵図などには腰が引けてしまった。
非常に興味深い資料が見受けられぜひともご一見をお勧めする。

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「旦夕覺書」 鳥--4

2011-06-21 07:54:52 | 旦夕覺書

一、眞源院様御代に上月文右衛門五千石にて被召抱候 其刻八代にて 三齋公へ村上河内申上候は
  此頃熊本にて大身なる者を被召抱由申上候へば御意にて肥後は人數寄にて候間左様に可有之何
  と申者かと御尋の時上月文右衛門と申福嶋左衛門太夫殿にて城代勤居いかにも御聞及被成候者
  の由御意被成候 河内申上候は最早年が無御座候と承及び候由申上候へば以の外御立腹にて扨
  々侍に年がいる物か今日被召置早用に立侍越後の忠太をしらぬかと御意被成候由其日のうちに
  熊本に聞申候へば年寄たる侍中何れも八代の方を拝申候由遠坂関内殿咄承り申候 先年拾七人の
  義士御預の刻此咄仕申候へば何れも承り被申被奉感候 河内も大坂陳にても能壱萬石被為拝領候
  へとも河内申上候言と御意とは扨も/\上下の相違と書付置候 我等式も年寄申候へば別して
  /\奉感調候内に感涙仕候 武士たる者は高下なく身を捨御静謐の世には夫々勤申役儀に身をす
  て勤がたく存候事は断申候ても又相應の勤も可有事に候 役料にはなれ難く兎や角と能き手立を求
  申上をかすめ申様成者は大小ともに數十年の間の事近年廿年餘致休息思ひ合せ申儀多有之候 
  右の御意の通に御代々思召候て御取立多くは御代々被召仕候 子供何も親同前に思召家を御潰し
  不被遊候様に養子迄如願被仰付候 此御恩を奉存候はヾ親々よりは精を出勤候筈に候へとも或は
  世上の仕合よきへつらひ者の不實成者を浦山敷存御為と存候ても傍輩へさわりありて迷惑仕者も
  色々取なしにて能成候 實成る者は多くは働不申事遅く埒明候へ共誤り少く發明と申者又は埒明け
  申は多くは當時の間にあひ候へとも以後にはあらはれ申候兎角我が心にて御為存る事道に叶たる
  事と或は御為には少御損も可有之哉併御家中御國中の為に成り申事は少の御損にても大き成御
  仁政に成候へば身を捨て可申上事に候 我等十年斗勤申在江戸にても如形大勢の諸侍城中下咄承
  候へども百は百ともに御為/\とばかり承傳候 是は少御損参り候へ共御家中御國之為と申事一言
  も承り不申候 昔の咄は當世にはあわぬ/\とばかりにて當世/\御意に入候様はかり上中下共に
  勤申たる事能覺申候 長谷川久兵衛と申仁老父心易く度々悔被申たる事覺申候 拙者もその時分は
  不入事を被申候なとと存候へとも扨々近年に成申 扨長谷川は能被申たる事哉と先見の明と聖賢
  の書に見え申候 如形文盲成る仁にて候へども志は聖賢に叶たると存候一国壱人と存る尤おろかに
  て心付不申者は天罰も蒙り申間敷候 世を渡ることのみ工夫仕時々にあわせ我身の為ばかり存候
  者上中下覺申内に罰を蒙りたる人多く有之候 誠に/\當世は明将少く善悪分り兼候へども天道は
  明らかに罰を蒙り申と奉存候 右之通昔は御用立■申侍は五千石にても他國にて名顕はれ申者は被
  召抱候 幸に御家代々被召仕候者夫々に禄を被下被召仕候者我身を■ひ御奉公をば不實に勤め上
  に御免被置候ても御代々の御罰蒙り申も天罰同時に奉存候 八十に成候て如此書置候事も心底に
  は隠居相應の忠節と存候 大坂御陳の時松平加賀守殿内に家老の隠居松平阿波守殿内に家老の
  隠居何も七十八十迄堅固相勤候由にて東照宮御父子様より御褒美被下候 難波戦記に見へ申候
  我等一代御静謐にて戦場の御奉公不申儀は不及力事に候 せめて同名中の内へ御静謐の内には
  其段々に被仰付候勤を身を捨相勤られ御用に立被申かしと日本國の尊神奉存上候儀一ッの忠にも
  成り可申や拙者子孫は不及申堀内名乗申中大勢有之候へは何も同前に可有之事にて候日本國中
  の昔より武士たる人名高書置候書物に御覧可有候人と生れ成ましき事に無御座候 心懸申様にと
  世々書置候 御静謐の世には夫々の勤戦場同前に可存事に候 

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「旦夕覺書」 鳥--3

2011-06-20 07:15:59 | 旦夕覺書

一、私歩の御使番の砌江戸竹御門未た小屋なと出来不申候刻宗宇御門の向に居候刻御供仕御歩行
  にて被成御座候 御側のわかき衆中四五人被召連被成御座候刻折節五月朔日にて青山之方の昇
  なと被成御覧 あれ見候へ青きは竹木にまきれ見へ兼候白きと赤き黄なと能見へ候 何も心を付け
  差物抔可仕事と御意にて馬役の者共に申付候而駒なと遠乗にのり申昇を見せ申様に被仰付候
  折節馬場に節々出申馬乗り候自分故細々遠乗に可参と悦申ひたと尋候へとも失念被仕候か右之御
  意御馬役終に承り不申由 扨々不及是非心底様々御用も多く出頭にて御意を夫程大事に不存候故
  名は書付不申 皆々拙者に十も十四五も弟に候へとも何も疾く果申候御主の罰と存候
一、同名文左衛門熊本にて被参候刻大坂に金紋のあをり可申遣とて注文調へ候所へ被参候て扨々御
  家中に居申不存候哉御家のとう油のあをり其外皮籠或は具足箱刀箱は御旗本衆御心安衆より前
  々より御貰ひ被成候 角入拝領の刀箱挟箱見申候へ第一戦場にて人に能きと御申候
  光尚公御意に小身なる者は不断指申大小を陳場へ差申心得にて柄頭小尻前々より差被申候
  御意の通ともっともに存候て覺居申候
一、角入老へ弾蔵殿若き時陳桶の儀申来候節居合候而承候 若き者の申越候故申付遣候 わりこなと
  役に立つ事にてなく候 常々給申わんを糸そこを引切候て持参能きと古人申たる由御申候 島原の刻
  承候に箱或は桶の類皆々ひしけ申候 皮の類にてなく候へはくたけ役に立不申候由拙者陳場馬ひし
  やく革にて申付候 柄杓は長岡與八郎殿中間持候て御馬屋に参候時見覺申新知拝領之時申付候
  陳桶革にて塗り不申からし申候て置候事関内殿見被申扨も/\能物數寄とて事の外誉被申候 親は
  討死祖父越後は隠なき武功の人兄の孫九郎は追腹段々の血筋の人誉られ嬉敷存候つる
一、角入老江戸にて御咄被成候 老父三盛は古き事覺居申し候へとも話數寄にて事永く成候故尋置不
  申事残念至極と神以被仰聞候
  萬葉に  物はたヽあたらしきよしひたはたヽ
             ふりぬるのみそよろしかるへし
  此歌の心と存候
  平九郎殿へ申候
  古き事御聞被成度むかし御慕ひにて覺候事共申候へと被仰聞候御尤に存候て覺書の内あらため
  如斯段々書付進申候 最早致出府御咄申事は有間敷候 折々御覧被成候様にと存候 拙者も御同前
  に存書付置候 自然御心得にも成候へば本望に存候 各へ申入候何もと申心にて段々思ひ出候書道
  候故御意なども無勿體存候へ共書置申候

一、山田竺印江戸へ被参候刻古佐渡殿・古監物殿へ暇請に参被申候へは御両人共御入國迄は存命
  ましく候間貴老へ申置候 在江戸中に御機嫌見合被申し両人申上候と可被申候 妙解院様たとえば
  御客御座候ても即刻御廣間番見かけ候間御口上も不承誰様御出と申上候へは其儘御出被成候故
  御書院へ御通候而夏は御汗も不被入冬は火鉢も出申さぬ内に御客衆に御逢ひ被成候
  真源院様は御病気にて御痔を御病被成候事多く御自由に被成候ては中々おそくたとへば御客方御
  出被成候而も御口上御聞被成扨御取次衆も段々に有之申上候故御書院へ御通候にも御客方御待
  兼被成候 右御両所さまの間を御思慮被成候て宜敷様に被遊候様に申上候へとの由拙者幼少にて
  茶の宮仕を仕候て覺へ申候 御尤成被仰上と書付申候

一、江村節齋先年咄被申候は珍敷傳承り申候 松平左京太夫様御出被成候 此頃法輪院様へ参候へは
  其刻左京太夫様御入候て御意被成候は節齋は御城の様子存間敷候間咄聞せ候 越中殿公儀わゐ
  唯今同列に無之様子に候間悦申候へ しかしながら親父肥後守殿には被及と思召候 唯今に肥後殿
  は若く候時より病気にも有之候哉唯今に肥後殿間と申御禮済申前御休息所有之候 冬は火鉢出候
  よし唯今御三家の外に火鉢出申事は無之候 是を思召候へば肥後守殿には被及ぬと思召との左京
  様御咄にて初て承ると節齋申聞候 乍恐能々了簡仕候へば保壽院さまは 権現様の御嫡孫にて岡
  崎信康公の御孫にて其筋目故かと奉存候 御家にて終に不承候事とて節齋被申聞候 此儀は多分
  御聞及び被成間敷と書置申候 三十一にて御逝去被成候へば其内の儀と奉存候

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江戸藩邸を調べる

2011-06-19 21:42:40 | 徒然

 きょうは六月の史談会例会。会員の皆さんの報告の中で、会員諸氏の研究や活動が、いろいろ活字になっていることのご報告があった。それぞれ興味深く掲載されている冊子など取り寄せ、完読したいと思っている。
会の終了後近くのホテルで昼食を頂くのが恒例なのだが、ここでも談論風発楽しい時間である。
隣の席のF氏が一枚のCDを取り出し、見てくださいと私に託された。細川家の江戸藩邸の事を調べておられることを以前から話を伺ってはいたが、どうやらその成果がこのCDに収められているらしい。相当のページ数に及んでいることは伺ってはいたが、帰宅後いざPCで拝見すると、その量のすごさに驚いてしまった。時代がかった我がPCはそのページ数を確認できるまで数分を要したのだが、なんとワードに打ち込まれた原稿は192ページに及んでいた。10数ページをPC画面で読んだのだが、これはプリントアウトして読もうと取り掛かったら数枚で用紙切れ、トナーも準備して明日又チャレンジすることにした。
改めて今PC画面で読ませていただいているが、なんともすごいものである。良くぞこれだけまとめられたと、ただただ驚き入っている。細川本藩、宇土細川藩、新田藩、谷田部藩、加藤肥後藩、人吉相良藩と多岐にわたっているが、余りにも量が膨大であるため何が出てくるのやら、玉手箱を開けるような楽しい気分である。現況皆様にお見せできないのが残念である。

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細川九曜紋と七つ紋

2011-06-19 20:59:57 | 徒然

 大名細川家の七つ紋
     http://www.harimaya.com/o_kamon1/hanasi/kamon_j.html
 細川宗孝
     http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E5%AE%97%E5%AD%9D

 二つのサイトからお判りいただけるように、細川九曜紋と七所紋は宗孝公の江戸城内における刃傷事件以後のこととされるのが定説となっている。類似の九曜紋に見間違われないようにすること、また衣装の紋所を二つ増やして違いを際立たせることを念頭に於いてのことであろう。
今日の【旦夕覺書・鳥-2】でご紹介した堀内傳右衛門の記述によると、宣紀公(宗孝公父君)の時代すでに七所紋が流行し始めていたことが伺える。宗孝公の事件以後とする現在の説がすこし揺らぐことになるが、事件をきっかけに家臣の中でも定着したと理解すればいいのであろうか・・・・しかし定説を覆すようなこういう記録に遭遇すると、まさに快感である。

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「旦夕覺書」 鳥--2

2011-06-19 08:59:15 | 旦夕覺書

一、京極丹後守殿に今野一郎兵衛と申千石被下丹後殿隠居被成候て安智と申候迄勤居候十二三之
  頃南禅寺にかむろにて居申を丹後守殿御所望被成被召仕候 加藤式部殿御改易の砌被仰渡外へ
  委細知れ兼候故右一郎兵衛は在江戸の一類多く有之候を丹後殿能御存知にて候ゆゑ其方は一類
  多き事に候間今度式部少へ被仰渡之趣とくに承て帰り申上候へと御申付候て初て使者に出申候
  並無出頭ゆゑ常々そねみ申者多く初而使者に出候間つくし申かしかられ可申などヽ批判仕候内に
  罷帰候て直に罷出御尋之通御改易之被仰渡江戸中之沙汰一々不残申上候へは丹後殿機嫌悪敷
  其儘閉門被申付候 其時に右の批判仕候者共夫見よ常に出頭にて初め使者勤閉門仕候とて打寄
  /\笑ひ申候由 四五日程有て例年茶の口切の時分いつも家老相伴に出候迄にて外に出候者は無
  之に右の一郎兵衛罷出候へと被申付京極之家に傳り申刀を御取寄候へは皆々承及手討に逢申候
  と其身も存罷出候由 扨家老壱人居申處に其外用人共歴々御呼寄被申聞候は今度加藤式部殿御
  改易之被仰渡委細御聞不被成候故何も存之様に一郎兵衛儀は江戸へ一類多く有之故世上之沙汰
  能々承り候て申聞候へと申付候處に式部少事第一侍共之召仕様悪敷或は暇を遣候様なる者は切
  腹申付切腹可申付者は成敗仕尤領國之仕置も悪敷有之候へども第一は家頼とも被召仕様悪敷御
  改易と沙汰仕候 扨此次には御前之事を式部同前に世上沙汰仕候由申聞候に付我等も風と腹立候
  故閉門申付候へとも能々致了簡候へば扨も/\ういやつ慥成者と存候 尤我等家にも武功之者共
  品々多く家代々の者も多く用に立可申と存る者も候へ共唯今迄我等身の上の善悪申聞候者壱人も
  無之候 此後も随分心底を不残一筋に勤申候へ 是は皆々存たる我等先祖代々相傳の刀にて候へ
  とも今度の褒美に被下候由にて御加増にて千石に御申付候由 幼少の時は皆鼻をたれ候故成人に
  て出頭の時もはなたれ/\と申何もそねみ申候由其時節世上に知れ一番鑓一番首は多き事に候
  へ共其上たるへき批判仕候 無双の忠臣と申たる由於江戸上月八右衛門所にて咄を承候而書付置
  候 右之安知老は京都に御座候て御子息丹後殿は私初江戸之刻御改易上屋敷大名丁は酒井左衛
  門尉様御幼少の時小五郎様と申時御拝領被成候能覺申候

  京極丹後守(高知)  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E6%A5%B5%E9%AB%98%E7%9F%A5
  加藤式部(会津騒動) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%9A%E6%B4%A5%E9%A8%92%E5%8B%95

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

                              
          肥後拵えの原型といわれる忠興所用の「六歌仙」(三十六歌仙とも)
          八代に於いて忠興が家臣六人を手討ちにした事に命名の由来があるという。

一、三齋公八代に被成御座候刻紀伊大納言様より申来候は御老躰にて御申兼被成候へ共此刀は加
  藤主計頭清正より御もらひ被成候刀にて御座候 拵古るく成り申候間御物数寄にて御拵被成被下候
  へ 御慰にも成候へは御本望之由にて被差越候由八代町中古き鍔なと御取寄被成御物数寄にて御
  拵被成被遣候由三浦九郎兵衛 三齋公御兒小姓にて被召仕候 先年在江戸之砌遠坂関内殿小屋
  にて咄申候處旦夕覺書付置候 近年も細川和泉守殿に松平越中守様御相役の時に和泉守殿は御
  家の事に候間 三齋の物数寄も御存知可有候へとも御拵見候へは當世にて候 拙者所へは 三齋御
  物数寄大小の拵三通迄致所持候 寫し拵進可申との儀と江戸にて承及申候 定て其通と存候 唯今伊
  豆守殿御家来共存候拙者覺申し候而も五十九年以前に初江戸にて参候 其時分は御家中うね打と
  申候て下緒何れも上下の侍中下ヶ申候 京伏見すあゐの女まても細川の御家中斗と申候 其外は
  大方唯今御座候かいの口其外色々時々はやり申下緒にて候 横山九郎右衛門御腰奉行の時 
  綱利公むらさきのうね打ち御下緒古きをもらひ小サ刀の下緒に仕に今能仕召置候 唯今の若き衆は
  うねうち見申間敷候 右之通に御座候 右之通に御座候へは刀脇差の拵さへ當世に成申候 其後細
  川丹後守殿長岡筑後守殿なと江戸にて見申候へは大小ぬり鮫多御座候間舎人殿なとも後にはぬ
  り鮫多成申候 御幼少の時の御拵御柄鮫なと拂に出申候 私も取申候 不残塗鮫にて御座候 大木隼
  人殿御小姓頭之時御玄関前にて見申に薩摩守様・陸奥守様・加賀守様御腰物皆々塗鮫にて金拵
  は見へ不申候 赤銅多きと被申候 加賀守様御供衆いつも皆其近所に居申候心付見申に四人宛腰
  かけに居申内壱人脇差白鮫金拵にて候 三人は赤銅拵にて同し人度々出合見申候 唯今の 
  太守様宣紀公先年泰勝寺にて見申候御刀塗鮫にて扨々目出度事と乍恐奉存候つる 役所も他家に
  ては細川家ちらし紋と申候由村井源兵衛事御家に参候て七所紋付申御家中付申さぬ男を事の外笑
  ひ申候 有吉殿小笠原は昔より七所紋被申候 能覺申候 拝領多く候故其外之衆自分之紋七所に付
  申たる衆すくなく村井か笑ひたるも尤御先祖以来の御紋さへ失念と見へ申候 其外の失念は尤也

   うねうち: http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E7%B7%92

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殿様の俳句

2011-06-18 08:57:12 | 徒然

           http://www.lib.kumamoto-u.ac.jp/tokogen/pdf/no56.pdf

久しぶりに熊本大学図書館のHPから、図書館報「東光原」を開いてみたら、川口恭子先生の論考「殿様の俳句-細川藤孝と夫人由婦-」が掲載されてあった。

私たちがよく知っている重賢公のどてら姿の圖は側近・竹原玄路の描くところだが、ここに記されている句は重賢公の最後の句なのだそうな。(知らなかった)

           しくるヽ歟 あかり障子に音はかり  花裡雨(重賢公俳号)

 病の床での作句であろうか。正岡子規を思わせるような句である。

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「旦夕覺書」 鳥--1

2011-06-18 07:22:24 | 旦夕覺書

常に心の内をかへり見て一點の私欲邪念あらば早く去るへし 私欲とは名利名貨の欲とて名聞を好み利分を好み色を好の類耳目口體の好む處の私する欲を云ふ 邪念とは人を虐け人を怒り諍ひ私自身にほこり人をあなどり人をそねみそしり人にへつらい人をあざむき偽る類をいふ 皆是邪悪のこヽろ也 若是等の事露斗もあらばすみやかに去べし 心を害する事甚敷けれはなり 又気質の偏あらば勝べし 気質の偏とは生れ付にかたおちたる所有を云 気あらきとはさはかしきと又やわらか過てよわきと或はや過たるとにふくゆるすきたるの類 或生れ付ていかり多く欲深き類を云 皆是気質の偏也 心を害す凡気質の悪敷所を変化する事は極てかたし 平生心を用てかたすんばあるべからず 又あやまちあらば速に改むべし 過とは工みて悪をするにあらず是非を知らずして不意に道理にそむくを云 気質の偏により私慾の妨みよりて過を成す事多し 人聖人にあらず誰も過多し 過としらば速に改て善に移るべし 吝かなるべからず吝成とは過をおしみて改兼ねる云 凡私慾邪念気質の偏と過と此三ッの物ありては心術を害す 心を正敷し道を行んとすれども是等の過悪有て去されば徳に進べき様なし 假ば田を作るに莠を去されば水をそヽぎ肥ても莠のみしけりて苗に益なし 先莠を去りて水と肥を用るが如し 亦身の病を去りて後保養するがごとし

     日新之覺
一、忠孝武ノ三道片時モ不可忘此三ヲ能ワキマエ勤行事學ニアラザレバカタキ事
一、侍ノ格ヲハツサス一身ノ威ヲ不可失但威ヲ立ントスレハ威ヲ失フ事
一、邪智ヲ拂ステ心ハセテ誠實ナラシメ武略ノ外事を巧ニスヘカラサル事
一、行跡ハ正ク堅キ所肝要之事
一、言ハ少シテカリニモ偽カサルへカラサル事
一、義ニヨツテ交リ信ヲ以テナムヘシ不依親疎無禮スヘカラサル事
一、弓馬兵法等ノ家藝ニ不怠兼又合戦勝負ノ道ヲタツネ學フ事
一、好テ戯ノ遊宴ヲナスへカラス武器ニタヨリテ気ノ屈テ散ヘキ事
一、物ヲ玩ハ志ヲ失フトイエル言不可忘事
一、人ノ非ヲキラヒ嘲へカラス身ヲカエリミル事
一、神道ヲ能信シ尊テ聊モ軽シ奉ルへカラス但罪ヲ天ニウレハ■所ナシトイヘル言貴カナ
右何レモ中庸ノ徳ヲ不可失

                一牧士書 蒲池三郎兵衛
一、奉公之仕様新参に出たる時の志を後迄不可忘
一、孝行之為様身之養生を能して不煩を孝の第一とす
一、傍輩之者相廣交慇懃成がよし
一、内之者之使様教を先として呵事を次とすべし
一、所務之仕様免を軽くして催促を厳敷するがよし
一、造作之仕様丈夫に成果を本として奇麗を次にすべし
一、諸道具調様能物を高値に買がよし
一、軍法以味方實待敵之虚討
一、日取之事天気清明之日を吉日にすべし
一、身之行勇にして分別有て物言和かなるがよし
一、三悪とは偽と盗と臆病と也
  従若至于老可恐可慎者此三也

       赤松則祐の歌
  もてあそふその品々はおふくとも
    常にわするなものヽふのみち

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近くて遠い鹿児島

2011-06-17 09:33:37 | 徒然

    
    今日の熊本は雨も一休みです

 我奥方は昨日所用で鹿児島行き、大雨警報が出ている中友人の車で九州高速道を利用して出かけました。熊本でも午前中、バケツの水をひっくり返したような大雨、南九州はあちこちで被害が出て帰りを心配していたところ22時ごろご帰還となりました。高速道は通行禁止と成り、国道3号線を通って帰って来たようです。九州新幹線も止まり高速道も通行禁止となると、鹿児島という地は熊本からしても随分遠隔地であることを思い知らされます。

これは又地の利でもあり、島津氏が秀吉や家康に臣従はしたものの、永々とこの地を領有し独特の文化や強い連帯意識を持つ人間関係を形成し、ひいては明治維新の原動力ともなったのでしょう。最近薩摩藩の贋金つくりの話が出版されたりしていますが、まさしく地の利を生かしてのことであり、幕末の薩藩の潤沢な資金を考えるとまったく納得させられます。近くて遠い鹿児島県です。

    徳永和喜著 「贋金づくりと明治維新」 
      http://www.jinbutsu.co.jp/detail/index.php?id=9784404038319      

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