津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

こう姫様

2009-02-11 12:05:25 | 徒然
 
 細川家菩提寺・泰勝寺(現・立田自然公園)にある斉茲公のお墓に、寄り添うように一つのお墓がある。これが六女耇姫(こうひめ)のものであることを知ったのは、古い話ではない。永青文庫には斉茲の筆とされる、大きなお座布に座った愛らしい耇姫の絵が残されている。元々は狩野弘信によるものらしいが、これを模写したものらしく、打ち掛けその他の色合いが違っている。
   www.city.kamakura.kanagawa.jp/kokuhoukan/mh-kouhime.html

 それにしてもさすが殿様芸で見事であり、尚又耇姫に対する愛情が窺がえて興味深い。年老いてからの子供(64歳)だから一層の事であろう。耇姫は本山屋敷で生まれたとされる。後に「城下の人」を著した石光真清一家が過したという、石光家が拝領したとされるあの屋敷であろう。

 ところで耇姫の絵が残されている鎌倉・妙法寺は細川家の庇護を受けていたらしいが、ここに有る大覚堂には、熊本城天守閣にあった加藤清正の像が細川家により寄進されているという。
   www.geocities.jp/ktmchi/2006/0111_05.html

 タイトルでは耇の文字が表示できませんでした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

島原の陣--決戦の日・・44(最終回)

2009-02-11 10:00:31 | 歴史
■小笠原氏・木下氏・毛利氏より此方へ被附置候使者の武功吟味被仰付、興長より書付差出候

 一、小笠原壱岐守様御使者前場与次右衛門事、二ノ丸門一番ニ着被申、戸ひらかうし
   の間より鑓を数多突出シ、鉄炮石を打申候所ニ度々鑓をつきこミせり合被申、下人
   なとも鉄炮にてうたれ申候由、其時小出半左衛門と申浪人と二人門之右脇を被越、
   敵弐人つき倒シ被申候へ共御軍法故首を取不被申、それより奥ニ而十人計居申候
   を鉄炮之者二人参会、弐ッ三ッ打せつきかゝり申候へは其まゝにけ申候由、其刻生
   田四郎と申者ニ言葉を合被申、本丸江乗被申刻ハ私手江居申浪人菅与三右衛門
   と一所二乗被申候、城之上ニ而は牧平左衛門言葉を合申候、其夜ハ本丸ニ居被申
   候、明ル日津川四郎右衛門ニ被逢候由、奥の松原ニ而は松平伊豆守様御内二被
   居候浪人水谷左近右衛門・宮川金兵衛と申仁一所ニかせき被申候由、木戸口ニ而
   之様子松平丹波様御家中西村左吉と申仁慥二被見候由、御家中にてハ竹原庄大
   夫見申候由、書付被指越候事
 一、毛利市三郎様御使国屋才兵衛と申仁今度働之様子、立花殿家中ニ居申候浪人嶋
   田勘左衛門と申仁平野弥次右衛門親類之由候、彼者弥次右衛門ニ首尾能御座候
   段懇に咄申候由、弥次右衛門より私方江書状を差越申候、私内松井采女も働之段
   見届申候由御座候事
 一、木下右衛門大夫様御使滝五郎左衛門と申仁廿七日肥後守様御本陳江被参、三ノ
   丸御乗込之刻不被参会、二ノ丸ニは先手同前ニ被乗込、本丸浜手ノすミ石垣際迄
   つき被申、足を鉄炮ニ而うたせ、そこにて私内中山助九郎と申者外松野半助・黒田
   角大夫ニも申届被帰候由、手負被申何之働も無之候へ共、二ノ丸本丸にも早ク付
   被申段書上可然之由ニ付如此御座候事
    右三人之衆私手ニ付居られ候御使者二而御座候、右之通可被仰上候、以上
       寛永十五年二月廿九日         長岡佐渡守
          津川四郎右衛門殿
   尚又佐渡ニ被仰付、三家江書状相添、働之様子委細相認、御感之旨夫々申贈り、三使を
   返し候

■一、廿九日、立允主城跡諸手の様子等御覧可有とて御出候、別而御乗入被成候道筋
   等入念御覧有之候、清田石見ハつよく鉄炮手負候得共、あおたに乗候而城跡等見
   めくり候と也

■一、廿九日、今度死傷の者を改名附可被相達申上使被仰候間、三月朔日迄ニ追々御
   達被成候、但足軽・中間・小者ニ至迄悉く其名を改偽なきの旨神文を以被遂吟味、
   太刀・鑓・長刀・鉄炮・矢疵之外木石臼杵類ニ而被打以来之疵ニ不成、或は塀石垣
   より腰を打刃旗(折刃族)にて踏貫き痛之類ハ、敵合にあらさる故手負の内ニ入さる
   なり、他家ニハ此類も手負の書付ニ入候由

■寛永拾五年二月廿七日、於肥前国有馬城、貴理師旦御退治之時、細川越中守人数手負討死目録
   手負、合千五百五拾四人内
      三拾八人ハ   組頭・番頭・足軽之頭
      百九拾六人ハ   自分之馬乗
      九拾八人ハ     家中之馬乗
      七百八拾三人ハ   侍
      四百三拾九人ハ   下々
   討死、合弐百六拾七人
      九人ハ      組頭・番頭・足軽之頭
      拾九人ハ      自分之馬乗
      四拾五人ハ     家中之馬乗
      八拾九人ハ       侍
      百五人ハ        下々
    惣合千八百弐拾壱人
   右自分之馬乗之分、名付別紙ニ在之
      以上
       二月廿九日      細川越中守御判
           松平伊豆守殿
           戸田左門殿

           
             これを以って一応完了と致します・・管理人

      
   
   
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする