津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

慶長・元和・寛永期の大地震

2006-05-06 20:38:15 | 歴史
 慶長元年(1596)の大地震では伏見城が崩壊している。謹慎中の加藤清正が駆けつけて、そのおかげで(?)謹慎を解かれた話は有名だ。別府湾の瓜生島もこの時海中に姿を消したとされている。
 慶長五年の「時慶記」をよむと、地震の記録が沢山見える。慶長元年の記憶がトラウマになっていたのかも知れない。1/20・此暁地震動■、1/23・巳刻ニ地震動候、2/9・寅刻斗ニ地震動、裏ノ堀水引、土ヲ上サセ候。水の濁りが取れなかったのだろうか、12日新たに井戸を掘って要る。2/15・丑刻斗ニ地震動、裏ノ堀ノ水引故ニ又サラエサセ候。4/27・地震申刻ニ動、又モ夜ニ。6/24・地震、卯刻、夕立、申刻雷鳴。6/27には地震には関係なかろうが、「酉刻ニ光物南カラ北へ飛由申候」とある。7/10・未刻地震大動・・・晩ニ又少地震、この日の記録には「北政所霍乱」とある、地震のせいだろうか。7/18・細川忠興室ガラシャが自裁。翌7/19・この日伏見城は「二の丸焼払」ている。その日の「申刻地震大動」、時慶記の著者西洞院時慶は翌日、北政所を見舞っている。この時期は天下騒乱の中である。七月下旬市中に鉄炮の音が夥しく、8/1伏見城が落城した。8/3・地震辰下刻、雷鳴夕立ハ申刻。8/24・地震巳刻又戌刻両度鳴。翌25日「岐阜ノ儀合戦負ノ由」とある。時慶の立場が伺える。8/29地震両度巳刻申刻也。9/17・金吾(小早川秀秋)手返ニ付而天下騒動、関ヶ原戦に決着がついた。
9/22・地震未刻に動、翌23日石田三成、安国寺恵瓊が捕縛される。そんな中でも揺れる揺れる、9/26・地震巳刻ニ動。9/28・巳刻地震動。10/1三成、安国寺、小西行長処刑。11/20・初夜ニ地震大動。11/30・暁地震。慌しかった慶長五年は、このような中新年を迎えることになる。細川家は、忠興室が自裁し、幽齋は田辺城に籠城、松井佐度は九州にて大友と激戦、忠興らは数々の功名を挙げ豊前国を賜り、年の瀬慌しく新しい領国へと旅立っていった。

 残念ながら、時慶記は慶長六年の項がない。しばらくは地震も続いたのだろう。
慶長九年(1605)京大阪、慶長十六年(1611)三陸でM8程度と考えられる、大きな地震が起こっている。元和元年(1619)には、熊本においても八代の麦島城が崩壊する大きな地震があった。寛永二年(1625)の地震では、熊本城の火薬倉が崩壊大爆発で石垣も壊れたという。地上で天下分け目の大騒乱が起きていた時、地下に於ても鯰共が覇権争いをしていたのだろうか。
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端午の節句

2006-05-06 11:50:09 | 徒然
 端午の節句、かっては邪気祓のために、菖蒲や蓬を軒端に投げ上げる風景がみられたが、最近はそんな風情ある風景をみることも無く一寸寂しい。昨日所用の帰り道、乳母車を押す、若いお母さんに手を引かれた可愛い女の子の髪に、菖蒲のリボンが飾られているのをみて思わず声をかけた。「リボンが可愛いねー」女の子は「ほら○○くんも・・」と乳母車を指差す。弟君が乗っていて、菖蒲の鉢巻をしている。
通りがかりの人も微笑を残して通りすぎて行く。若いお母さんなのに素晴らしいことだ。女の子の頭を撫ぜ、弟君の寝顔を見ながら「お元気でね」と手をふって分かれた。二三歩歩を進めたところで、「バイバイ」と女の子の元気な声が聞こえた。振り返って手をふりながら、涙が出そうになって思わず天を仰いだ。涙腺が緩みっぱなしの最近の私である。
コメント (2)
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