忠興文書の元和六年(1620)四月十八日項がなかなか多彩で面白いのでご紹介しよう。
210、四月十八日書状
・和子入内ニ付上洛或ハ使者差遣無用トノ觸状アリ
京都市上京区のサイトに「徳川和子の入内」があり有難い。これによると江戸を立つたのは5月8日であり、20日を費やして
上洛二条城に入った。6月18日無事に入内している。14歳という若さであったが帝の御母・中和門院が優しく接せられた。
元和九年(1623)には女一宮・興子(おきこ)内親王が誕生した。
後に後水尾天皇が二条城に行幸、中宮和子が父である大御所秀忠、将軍家光に接するのは、寛永三年(1626)のことである。
・伊丹康勝ノ肝煎ニテ進物ヲ献上ス
これは明らかに入内する徳川和子に対しての献上物であろう。
・松井興長母・自得院、江戸ニ著ス、松井政之ヤガテ帰国セン
江戸證人として江戸へ赴く自得院は病となり、しばらく京で静養している。入れ替わりに證人として江戸に在していた甥の松
井政之(実は沼田与次郎)が帰国することになる。
・和子上洛ニ付土井利勝ノ通達
内容不詳
・五百坪ノ栗石
下記、江戸城普請のための準備か?
・来年江戸城普請ニ付秀忠駿府滞在ノコトは不定ナラズ
・妻木之徳女房衆親類ノ者召抱
之徳とは貞徳二男・旗本1,000石その奥方の召抱えのことだが、妻木勘兵衛だと思われる。
・木下延俊女ノ縁談
こちらは忠興の外孫(女・加賀女)だが、長女(桜井松平忠重正室)、次女(北野松梅院某室)、三女(木下利当正室)と有
るが、人物の特定ができていない。
・大阪城普請ニツキ大坂普請奉行細川家ノ為大ニ斡旋ス
奉行の名は「渡邊勝」、慶長10年以降に、千姫附属となった人物であろうか。母親は二位局と称し、秀吉や淀殿の申次を務めて
家康の覚えめでたき人である。大阪城落城に際しては脱出している。
細川家との友好的な関係がどうしたものかは不明である。
最新の画像[もっと見る]
- ■「水戸裁件 外桜田一件」安政七庚申年(3月より万延元年に)8丁 写人:阿〇〇文吉 細川越中守(細川斉茲)様 水戸役人大岡知七郎 21時間前
- ■GWのちょっとした買い物 2日前
- ■白川蛇行説の痕跡現る 3日前
- ■白川蛇行説の痕跡現る 3日前
- ■藤原道兼の子孫・庄林隼人のこと 6日前
- ■にたつよりもやあたつ 7日前
- ■本妙寺参道下のトンネル道開通 2週間前
- ■Before & after 2週間前
- ■Before & after 2週間前
- ■かっての世(代)継橋周辺 2週間前