津々堂のたわごと日録

わたしの正論は果たして世の中で通用するのか?

■元和六年四月十八日の忠興文書から

2024-04-18 07:32:34 | 歴史

    忠興文書の元和六年(1620)四月十八日項がなかなか多彩で面白いのでご紹介しよう。

 210、四月十八日書状
 ・和子入内ニ付上洛或ハ使者差遣無用トノ觸状アリ
     京都市上京区のサイトに「徳川和子の入内」があり有難い。これによると江戸を立つたのは5月8日であり、20日を費やして
     上洛二条城に入った。6月18日無事に入内している。14歳という若さであったが帝の御母・中和門院が優しく接せられた。
     元和九年(1623)には女一宮・興子(おきこ)内親王が誕生した。
     後に後水尾天皇が二条城に行幸、中宮和子が父である大御所秀忠、将軍家光に接するのは、寛永三年(1626)のことである。
 ・伊丹康勝ノ肝煎ニテ進物ヲ献上ス
     これは明らかに入内する徳川和子に対しての献上物であろう。
 ・松井興長母・自得院、江戸ニ著ス、松井政之ヤガテ帰国セン
     江戸證人として江戸へ赴く自得院は病となり、しばらく京で静養している。入れ替わりに證人として江戸に在していた甥の松
     井政之(実は沼田与次郎)が帰国することになる。
 ・和子上洛ニ付土井利勝ノ通達
     内容不詳
 ・五百坪ノ栗石
     下記、江戸城普請のための準備か?
 ・来年江戸城普請ニ付秀忠駿府滞在ノコトは不定ナラズ
 ・妻木之徳女房衆親類ノ者召抱
     之徳とは貞徳二男・旗本1,000石その奥方の召抱えのことだが、妻木勘兵衛だと思われる。
 ・木下延俊女ノ縁談
     こちらは忠興の外孫(女・加賀女)だが、長女(桜井松平忠重正室)、次女(北野松梅院某室)、三女(木下利当正室)と有
     るが、人物の特定ができていない。
 ・大阪城普請ニツキ大坂普請奉行細川家ノ為大ニ斡旋ス
     奉行の名は「渡邊勝」、慶長10年以降に、千姫附属となった人物であろうか。母親は二位局と称し、秀吉や淀殿の申次を務めて
     家康の覚えめでたき人である。大阪城落城に際しては脱出している。
     細川家との友好的な関係がどうしたものかは不明である。

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