津々堂のたわごと日録

わたしの正論は果たして世の中で通用するのか?

長岡姓を賜る

2011-11-16 07:32:16 | 歴史

細川家家臣の主だった人たちが長岡姓を賜るのは、細川家の豊前入国後慶長六年七月七日だとされている。「於中津去年岐阜・関原・木付の役ニ手ニ合候者不残御饗応、御能仰付、各戦功御感賞、倍士(陪臣)迄も功有ハ御目見被仰付候」と、「御饗応之席」が設けられた。村上八郎左衛門・薮内匠・益田蔵人らが「一座被仰付」られ、「若き面々ハ御給仕いたし候」とある。与五郎(興秋)や有吉与太郎(興道)らもこれに加わった。

 玄蕃殿(五千石)、松井(五千石)、有吉(三千石、五千石とも)、加々山庄右衛門(弐千石)、牧新五(弐千石)、沢村才八(千石)ら六人に無役の知行が下された。

 この折、長岡姓を賜ったのは次の人々である。
・松井新太郎(興長)長岡式部少輔
       父佐渡守は「世に知れたる者なれはは名を替不被遣候」とある
・有吉四郎右衛門を長岡武蔵守
       「古の武蔵坊(弁慶)にもおとるまじ」とある
・米田与七郎を長岡監物興季
・沼田小兵衛を長岡勘解由左衛門
・篠山与四郎を長岡肥後忠直
       のち父飯川豊前とともに誅伐される。忠興二男興秋出奔にかかわってのことかと考えられるが、真相は闇の中にある。

又、名を改めるようにとの沙汰が在ったのは次の三人である。
篠山五左衛門を飯川豊前
・加々山少右衛門を加々山隼人興長
・牧新五を牧左馬允興相         とした。

 

時代の特定が出来ないが次の人たちも長岡姓を名乗ることを許されている。
      ・長岡河内   村上八郎左衛門景則      忠興公死去後離国
      ・長岡信友   織田信雄男、後柏原藩主織田高長
      ・長岡孝以   中院通勝男            後、嵯峨氏(細川家家臣)
      ・長岡元信   南条元信 細川興秋女婿    絶家
      ・長岡伊賀守  三淵好重・・幽齋公末弟     四代目にて長岡姓返上三渕姓となる

尚、細川一族については連枝は細川姓、一門は長岡姓となった。
忠興公長子・忠隆公(内膳家)、五男・興季公(刑部家)は一時期細川姓であったがのち長岡姓となった。いわゆる一門払いの結果によるものであろう。

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