私は昭和17年1月生まれ、18年に祖父母と父が相次いで亡くなった。六月に祖母が亡くなり、一月も経たない内に祖父が亡くなった。十一月の半ば病床にあった父が死んだ。母は上京してきた祖母(実母)と共に、三人のお骨を抱き、我々姉弟の手を引いて東京を離れた。多分19年の春のことだと思われる。東京大空襲は翌年20年の3月、今にして思うと良くぞ東京を離れてくれたと思う。終戦直前の広島・長崎の原爆投下のむごたらしさがよく語られるが、東京の被災は死者の数からするとそれ以上である。此の時期になると、父や祖父母の死が、我々を助けてくれたのかもしれないと、最近思うようになった。私・66歳。
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私の会社は、3年ほど前まで日本橋浜町にありました。道路を隔てた目の前に明治座がありました。隅田川のほとりです。毎年3月10日に明治座の脇に白い大テントを張って、慰霊祭が行われておりました。なんとなく眺めていたその慰霊祭の由来を知ったのは、早乙女勝元著『東京大空襲』(岩波新書)と、清水一行著『札束時代―赤たん褌―』(角川文庫)でした。火を逃れ、隅田川を越えて避難してきた数百名の人々が、明治座で蒸し焼きになっております。この二著により、東京大空襲の凄まじさを始めて知った次第です。
私の会社の建物は、昭和7年以前の築で、終戦当時「焼きビル」と呼ばれ、その姿は東京大空襲の焼け野原の写真の中に、ポツンと焼け焦げて建っております。当時は病院で、その後、明治座のオーナーになる新田建設の所有となります。新田建設の資材部長が、あの力道山です。これも『札束時代』に拠ります。その後、わが社が買い取り、老朽化により取り壊された今、マンションが建っております。