津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

細川家家臣・楯岡氏

2008-08-03 18:09:26 | 歴史
 私の知る限りで、細川家にお預けになった人で、本人若しくは子息などが細川家に召し抱えられた家が三家ある(楯岡氏・細田氏・小栗氏)。その内の一人楯岡孫市郎の父・最上甲斐守光直は、いわゆる「最上騒動」に連座し小倉細川家にお預けとなる。
    (ウィキペディア--最上騒動) ja.wikipedia.org/wiki/最上騒動
    (武家家伝--最上氏) www2.harimaya.com/sengoku/html/mogami_k_dj.html
    
【最上は家久敷代々出羽の領主ニ而山形ニ在城、元和三年家親卒去、嫡子源五郎義俊幼年之処、家臣不和にして論争いたし、幼主を可守立志ニ不至領地被召上、家中の歴々ハ西国の大名衆に御預、楯岡も今度小倉ニ被差下候・・】と綿孝輯録は紹介する。

 元和八年十一月二日、最上義俊の一門家老楯岡甲斐守光直、忠利君御預之事ニ付而御国江之御書民部(小笠原民部)者急差下候、最上浪人楯岡甲斐と申仁我等ニ被成御預候間、跡より可差下候、甲斐守下着次第、百人扶持相渡可申候、宿ハ何レニても寺を可申付候、下国之上家ハ可申付候、当分之兵粮塩噌以下見計可申付候、謹言。
直々、甲斐守大阪よりも船中廿日分為賄百人扶持相渡候へと申付候、又甲斐守人数上下百弐三十人も有之由ニ候、可有其心得候、以上。
    十一月二日                      内 忠利   (綿考輯録・巻二十九)

  11代         12代
  最上義守---+--義光---+--義康
          |       |  13代  14代
          |       +--家親---義俊
          |       |
          |       +--義親
          |       |
          |       +--(山野辺)義忠
          |
          +--光直---+--孫一郎・定直---→(楯岡小文吾家)
                  |
                  +--蔵之助--------→(楯岡三郎兵衛家)

 
 甲斐守光直(哲斉)は、最上義俊一門家老、一万三千石・楯岡城主、父は山形最上氏11代当主の最上出羽守義守であり、姉は伊達政宗の生母である。

その光直や家族についての消息がある。
          
 寛永十九年八月五日付 「松平伊豆守・阿部豊後守宛--細川光尚書付」抜粋
最上源五郎(義俊)家来楯岡甲斐守(義久)、元和九年亥之正月ニ越中守(忠利)ニ被成御預ケ候、寛永六年巳之五月ニ於豊後國小倉歳六十ニ而病死候、其子孫一郎歳廿二、弟蔵之助歳十五、孫一郎姉歳四拾四、家中村井内蔵助と申者ニ女房ニ遣シ、于今熊本ニ罷有候事 
       (大日本近世史料・細川家史料十五 p162)

 嫡子孫市郎が正式に召し出された時期ははきとしない。 
孫市郎・定直 
    (1)御扶持取方 百人 此子孫代々席上 (於豊前小倉御侍帳)
    (2)百人扶持  (肥後御入国宿割帳)
   *肥後入国後御知行千石被下、座配御左之着座二被仰付、慶安の比よりハ
    松野・木下・津川・楯岡と次第いたし四番座ニ相成・・・・・(綿考輯録・巻二十九)
    (3)人持衆、番頭并組外衆 千石 (真源院様御代御侍名附)
    (4)千石 (真源院様御代御侍免撫帳)
    (5)有吉頼母允組 千石 (寛文四年六月・御侍帳)
    室・尾藤家初代金左衛門女(尾藤家系図)
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