津々堂のたわごと日録

わたしの正論は果たして世の中で通用するのか?

細川内膳家と希首座の祠

2011-11-28 08:36:58 | 歴史

 忠興公の大徳寺の僧・希首座殺害事件について私はその詳細を知りえないでいた。熊本県立図書館の敷地内で偶然見かけた祠が、まさにこれに関係するものだと知り青天の霹靂の思いであった。

(財)島田美術館の先々代・島田真富氏が「江津荘物語」という一文を二回に亘り某雑誌に掲載されていた。江津荘とは旧・細川内膳家の下屋敷(現・熊本県立図書館)のことだが、一時期井関農機株式会社が所有していた。その時期「江津荘」と称していたのだろう。
この一文の中で氏は次の資料を紹介しておられる。これが事件の全容であろう。

【慶長十九年二月十七日大徳寺之出家希首座仔細川有之(ママ・仔細有之カ)三齋様御手討被成候処出家を左様被成物には無御座候と申上二つに成候由依之大徳寺之僧故板倉伊賀守勝重まで訴状を指出候へば伊賀守被申候は成らぬ迄も越中守殿身躰を此専にて亡ぼし可申と被思候や夫ならば一山何れも江戸へ訴訟あるべし、若し又夫に不被思候はゞ御分別あるべし、大徳寺に替えて越中殿の身躰を御潰しなさるべきとはよもや公義に被思召間敷と存候と被申候へばおのずから泣寝入に成候由 此儀に付希首座弟速水孫兵衛を御成敗被仰附候 仕手は松山権兵衛元重・松岡久左衛門也 江戸御普請の石場伊豆国宇佐美にて諸国の者入込み候間騒敷無之密宿に仕留め可申旨被仰付候に付首尾能仕留申候 其後御手討の御刀は希首座と被名付平日御秘蔵の腰剣也しが希首座の祟りにや不思議の事共有之により毎年二月同日追善の法要を営まれしにより変事も止みたりと也  本浄院様へ御譲被成代々伝来

 

三齋忠興公は天正十年九月八日、妹聟一色好義有を丹後宮津の城に招きこれを殺した。細川家の歴史の中で、汚点とも言うべきこの事件に、希首座殺害の事件も連動しているのである。殺された二人は、この一色義有の子供であるといわれている。親の敵を討つべく義有の子・希首座は大徳寺に出入りする忠興を狙い、この寺の僧となり機会をうかがっていた。それは事前に忠興の知るところとなり、逆に殺害される結果を招いたとされる。大徳寺側も僧の殺害、それも寺内であることを怒り幕府に申立をしているが、事は細川家擁護の処置と成りうやむやのうちに終わっている。弟、速水又兵衛も殺害されるなど、忠興のこだわりの深さが異常にも思える。
忠興の妹・伊也にも男子が在ったが、この人は愛宕山福寿院に入山したが若くしてなくなった。殺された二人は異腹であることは間違いないが、史料では伺えない存在である。

異常さは希首座を殺害した刀に、その名前を銘したことでも伺えるが、以後忠興公周辺で異常なことが頻発するため、霊を弔う事をして平常に戻ったという。そしてこの刀は細川内膳家に伝えられ、その屋敷跡が井関農機株式会社に移つたのちも、希首座が亡くなった二月十七日に慰霊の行事が執り行われた事を、島田真富氏が「江津荘物語」に記しているのである。

先の文面の最後部に希首座と命名された刀は、本浄院様へ御譲被成代々伝来とあるが、この本浄院とは細川忠隆の嫡男・次男忠清の事である。

しかし私が調べた内膳家に伝わる「細川忠雄家譜」に於いては、久しく絶交状態にあった忠興と忠隆が対面した折に内膳家に渡ったとされる。以下その顛末である。

  忠興公御隠居以後御上京之節者
  
吉田江被遊御逗留 内膳様御先祖忠隆公休無様御事ニ者
  二十年余御對顔無御座候処寛永三丙
  寅年之冬数十年御遠之處被成御座
  候頃共御老年ニ被為成候ニ付被遊御對顔
  度被思召上候旨ニ付忠隆公之下京北野
  邸江被為入忽親子之御中被遊       
  御和親御互ニ御機嫌能此節御對顔
  之事被遊御満悦候

細川内膳家史料「細川忠雄家譜」の書き出し部分である。
二十数年対面することのなかった三齋公と長男・休無公(忠隆)が寛永三年冬にお会いになり、休無公始め御子たちとも対顔を果たされた。
三齋公は其節細川家に伝わる品々を休無公に差上げておられる。その中に「希首座」と命名された刀が含まれていた。

  希首座之御腰物別而御秘蔵之御道具ニ而候得共御譲被進候

三齋公はその後休無公に、八代領の相続を持ちかけられたとされるが、これを断り徳川直臣たらんことを望み、忠利公にその斡旋方を願われたらしい。しかしながら事成らずして、その御子は細川家一門として熊本へ下られることとなる。忠興公からこの刀を託された内膳家にとっては迷惑なことであったかもしれない。霊を鎮めるために、内膳家がわざわざ建てられたものであろうか。
それも下屋敷内に祀られたと言う事実も、この事件の深刻さを示しているように思える。
三齋公も罪なことを為さったものである。

 *希主座の読みについて、島田氏は刀の名前として「きつそ」と振り仮名をつけておられる。
  首座は通常「しゅっそ」または「しゅそ」とする。本当の読みは・・・?

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1 コメント

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仔細有之 (ツツミ)
2011-11-28 22:01:46
津々堂様
「江津荘物語」紹介資料本文出だし部分、「大徳寺之出家希首座仔細川有之三齋様御手討被成候処」のうち「仔細川有之」は、原文ママでしょうか?「川」は無しでよいのでしょうね。

ところで、永青文庫の再開は、来年初めだったように思うのですが、久しぶりにホームページを見ると、4月に延期されたようです。「閉鎖中」の張り紙のある門前を、うらめしく見ながら、通り過ぎる日が続きそうです。

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