津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■川田順著・細川幽齋「歌仙幽齋」 選評(二)

2021-12-01 10:22:51 | 書籍・読書

      選 評(二)

 明石潟かたぶく月も行く舟もあかぬ眺めに島隠れつつ

 秋部「播州御陣の時、所々見物のついでに、明石の浦にて夜のふくるまで月を見
て」と詞書あり。天正六年、四十五歳の作と一應推定す。此年五月、織田信忠は中國
征伐の羽柴秀吉を援けんと播州に入つたが、藤孝、これに随行したものと考へられ
る。詞書に「播州御陣」といひ、又「所々見物のついでに」などと第一線にあらざる長
閑なことを云つてゐるのでも、信忠の随行といふことが看取される。信長自身安土か
ら出馬せんとしたのだが、都合あつて嗣子を派遣することになつたらしい。〇この歌
は、古今集の、

 ほのぼのと明石の浦の朝霧に鳥がくれゆく舟をしぞ思ふ

を、輕く本歌に踏まへてゐる。當時藤孝は三條西實枝(天正七年薨)の門人として、古
                  。。。。
今集を再考の手本としてゐた。あかしがたかたぶく云々には言葉の上の技巧が用ゐら
れてゐる。本歌は舟の見えなくなるを言つただけである。けれども、藤孝の歌は、落
月と行舟と二つとも島隠れよくと詠じた點が複雑になり、後世の好みに合つてゐる。

 有明の月も明石の浦風に浪ばかりこそよると見えしか

 これは平家物語所載の平忠盛の作だが、おなじく武將の秀歌として、藤孝の吟と竝
べて鑑賞するのもよからう。〇さて、この歌、衆妙集には秋部に入れ、愚考の夏季(五
月)説と明白に合致しないが、必ずしも集の部立を妄信するには及ばぬ。集は幽齋歿後
六十年を經て編纂されたもので、作年月などを一々考證したものではなく、月の歌な
るが故に定石的に秋部に入れたに過ぎぬ。この歌、夏季にあらずと云ふことは出來な
い。研究の内容としては、先づ第一に、作者の傳記を知ることが大切だ。藤孝又幽齋
が秋の季節に播州に出陣したことはない。

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