津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

細川家家臣・不破氏を調べる

2011-10-30 20:24:33 | 歴史

 先に細川家家臣の墓所・菩提寺をお尋ねしたところ、早々にご連絡いただいたのが「不破氏」である。
その後「先祖附」をお持ちではないことが判り、お送りするお約束をした。ご丁寧なメールを頂戴し「歴代霊位尊號」その他の資料を頂戴した。
よくよく眺めると藤原姓であり、歴代通名に「昌」が使われている。

 不破氏といえば、加賀前田家の重臣にその名前が見える。「武家家伝-不破氏」には次のようにある。

  (不破)光治は子の直光とともに浅井・朝倉氏や越前一向一揆との戦いで忠節を励み、天正三年(1575)には、前田利家・佐々成政とともに越前府中に配された。この三人を府中三人衆と称するが、かれらの役務は、越前を預けられて北庄に配された柴田勝家の監視であり、今立・南条の二郡を給された。光治はその後も各地に転戦するが、天正九年九月から翌年三月の間に没して、子直光が家督を相続したものと推定される。直光は信長の死後、前田氏の家臣となり、加賀藩で惣領家は四千五百石を給された。また、一族の多くも加賀藩に召し抱えられている。 

        河内守・彦三
          光治--------直光------光昌

    不破光治  a.wikipedia.org/wiki/不破光治
    不破直光  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E7%A0%B4%E7%9B%B4%E5%85%89
    不破光昌については次の史料が見受けられるようである。
                  由緒帳「加賀藩史料」第2編 p509
                  加陽諸士言行筆記「加賀藩史料」第2編 p509
            

 短絡的な発想だが、光昌の子孫が細川家に入り、「昌」の字を通字としたことが考えられるのではないかと思っている。
又、細川家家臣として三流四家の不破家があるが、私は同根であろうと思っている。二流三家は「昌」の字を名乗り名に入れて居られる。
ところが頭を悩ませているのが、三流の家の家紋である。加賀藩不破氏は「三つ巴」なのだが、同じものがない上に三流とも紋が違うのである。
こういう機会に少し踏み込んで勉強をしておくと、意外なつながりが見えてきて楽しませてくれるものである。

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