津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

松井家・三淵家と分部若狭守 2

2011-05-12 15:11:22 | 俳句

2010-08-07 のブログ「松井家・三淵家と分部若狭守」で、次のように書いたがいささか間違いがあったので訂正する。

       度支彙函の【三〇〇】に、次のような記述が有る。 

   一、三淵伊織助殿、分部若狭守様御弟松之助殿御養子被致度由被相願候處、如願被仰    
     出候旨昨日 被及御達候、此段御知せ申達候、以上
         (安永二年)八月廿五日               御奉行中

     (1)
     三淵伊織助とは、三淵家七代の澄鮮のことである。「細川藩主要系図」によると分部若狭守
                   (2)
     光臣の二男だとされる。八代八郎右衛門澄盈は伊織助の実弟とあるから、松之助とはこの
                      (3)
     八郎右衛門のことであろう。先の「主要系図」によると澄鮮には女があり、松井家八代営之
     に嫁いでいる。松井家資料によると継室であり、大溝藩主(二万石)分部光命女と紹介され
     ている。その主水営之の四男が三淵家九代・澄昭である。
     三淵家・松井家と分部家の縁がどのような経緯で結ばれたのか、大変興味深いし未だ解明
     できないでいる。

(1)「細川藩主要系図」にある分部若狭守光臣なる人物をを見つけ出せないでいたが、これは分部光命の事であること。光臣とあるのは誤植か?
(2)「八郎右衛門澄盈は伊織助実弟」と記したのは
「細川藩主要系図」によるところだが、「度支彙函」の記述「分部若狭守様御弟松之助殿御養子被致度由」にある若狭守とはこれも分部光命である。
(3)
澄鮮には女があり、松井家八代営之に嫁いでいる」と書いたが、「細川藩主要系図によるとそれを思わせる書き方がなされている。しかし完全な間違いで、これは松井家資料に分部光命・女と明記してあり、澄鮮・女ではなく妹を養女とした(推測)のではなかろうか。

以上のことから、七代・澄鮮(伊織介)、八代澄盁(松之助)、松井営之室は、大溝藩2万石藩主・分部光命の子供であり兄弟(姉・妹?)である。

         http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%86%E9%83%A8%E5%85%89%E5%91%BD

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