津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■「明暦前後」地図散歩

2017-08-14 08:50:36 | 地図散歩

                                                                                                                          
右上の藩主居館「御華畠(花畑邸)」表示の中に「明暦前後」の書き込みがある。
すぐ近所に慶安三年に佐藤傳三郎によって殺された林外記の屋敷があり、外記の奥方が逃げ込んだ隣家の明石玄碩は 「万治二年知行被差上候」事態になっているから当然この屋敷から離れているだろう。二人の事からして「明暦」の書き込みは間違いといえるが「前後」とあるから大きな幅を持たせていることが判る。
この時期の名入り絵図は珍しく、岐阜攻め、関ケ原、大坂の陣、島原の乱などで活躍した人たちの名前も見える。

林外記の屋敷があるのは(1)「桜馬場地区」である。
  小笠原備前、小笠原民部少輔の大きな屋敷が背中合わせにある。右手に見えるのが備前堀、小笠原備前の屋敷前であることに由来する。
  備前邸右手の道が城内南門につながる南坂、現在の行幸坂である。
  民部少輔邸の左手が慶安坂、この二つの屋敷跡が現在の「桜馬場・城彩苑」、観光客でにぎわっている。
  小田原友庵・岡部道宇・関太郎兵衛・内匠(?)・小原無楽・岩男加入・平野弥五右衛門
  住江求馬・内田安右衛門・阿部主殿・山崎傳右衛門・久野与右衛門・内藤左兵衛 等の屋敷跡は国の機関の建物が立ち並んでいたが今は
       それぞれ転居して空き家状態である。
  
(a)林外記明石玄碩・平野源太左衛門・続次大夫・仲光半助・堀内三盛・穆門・横山五郎大夫・古市快庵

桜馬場地区の横山五郎大夫の屋敷の左手の細長い空地はいつの頃からか道となっている。
その左手の堀に囲まれた一帯が(2)「古城地区」、大方が現在の県立第一高校の敷地となっている。
  内藤宗印・石田理齊・長岡道伯・清田石見・田中左兵衛・長岡右馬助・坂崎清左衛門
  藪図書・岩間清大夫の屋敷はこのブロックに入れるのは正確ではないが便宜上ここに入れておく。

古城地区を取り囲む堀は後には相当部分が埋め立てられてこの時期の面影はない。堀の跡には住家が立ち並び現在では一部が公園化している。「古城堀端(ふるしろほりばた)」と呼ばれていたが、現在では「こじょうほりばた」と呼ぶ人が多い。
道を挟んだ西側をここでは(3)「新町地区」としておく。絵図では書き込みがないが左上隅部分は勢溜である。新三丁目御門があり法華坂へつながっている。
  (b)藪市正・田中左兵衛・長尾伊織屋敷とその下屋敷、浅野七右衛門・衣笠平大夫・薮嶋之助・西村半兵衛・真玉半右衛門・西嶋六左衛門
  御客屋・旅人衆・前川一角・佐分利加左衛門・竹田了由・佐分利弥左衛門・同吉左衛門・吉十郎・権兵衛・乃美兵大夫・同市郎兵衛・木戸治部右衛門

大きく蛇行する坪井川に囲まれた地区が(4)「塩屋町地区」である。
  高田五郎三郎・竹原道印・岡田茂兵衛・黒部孫兵衛
  住江四郎兵衛・斉藤忠三郎・谷助十郎・松野道遊・山崎加平太・横井牛右衛門
  長瀬助之丞・藤本伊織・伊良子喜左衛門・竹原金右衛門・白井孫左衛門・古橋小左衛門・明石十左衛門・生駒平左衛門
  岡田助兵衛・明石五左衛門・岡十郎左衛門・前川平左衛門・薮嶋之助下屋敷・御客屋
  斉藤又大夫下屋敷・佐分利次郎兵衛・横井牛右衛門下屋敷・一村弥三兵衛・見古・関膳左衛門・米田甚左衛門・藤本勘助・村上百助・貴田角右衛門・堀太兵衛・山田右左衛門・鳥井藤左衛門・前川平左衛門・萩嶋之助下屋敷・御客屋

藩主居館「御華畠」の前に広がる地区が(5)「桜町地区」である。
左から上下方向にブロックを追いご紹介する。
  広大な屋敷が沢村宇右衛門尉(沢村家二代)である。このブロックの左下に山崎天神が見え、森崎玄三・久野角大夫・八木慶固・上田忠蔵と続く。
  酒巻弥五右衛門・八木長右衛門・益田孫大夫
  牧丞大夫・林弥五右衛門。清田石見下屋敷
  清田石見下屋敷・奥村安大夫・岡崎七左衛門(切米取)・森半大夫・水間十右衛門

  八並太左衛門、加助・西山徳左衛門・岡部庄之助・平井文之進・(c)竹内数馬後家・北村宗雲・冨田惣兵衛・鈴木伝兵衛・桑木浅右衛門・横山玄与・刑部殿下屋敷
  弓削五郎兵衛・北里次郎左衛門・久武権左・川方清庵・清田助十郎・吉田加右衛門・杉村喜右衛門、星野伝吉・福田権兵衛・大塚仁右衛門、左次衛門・村山七兵衛
  樽見惣兵衛・宮部加右衛門・長谷川忠右衛門、藪右衛門・宮部市右衛門・瀬戸五兵衛・安本山三郎・一村市之進・小野右衛門・松下又一・竹村弥右衛門・大塚七郎

  福田杢左衛門・古市宗庵・鎌田杢助・落合勘兵衛・欲賀了益・佐藤権丞・磯野治兵衛・安藤平兵衛・的場勘兵衛・洞院与三兵衛
  服部武左衛門・豊岡理助・内藤源丞・熊谷小三次・辛川忠助・熊谷孫兵衛・岡田甚五左衛門・磯貝惣左衛門・原田十兵衛・平野治部左衛門・志方十兵衛
  荒瀬角兵衛・野々口又之丞・上田吉十郎・木村九兵衛・荒川三右衛門・宮崎伝四郎・岩崎権平・寺井小三郎・出田作庵・佐方清左衛門・荒瀬左太右衛門
  柏原新左衛門・荒木教大夫・永井安大夫・永井左門・一宮勘十郎・生田又助
  竹田平大夫・上田久兵衛・神足少兵衛・宇野弥次兵衛・西沢伝兵衛・出田七大夫・蒲田弥左衛門

大きく蛇行する坪井川に二つの橋が架かっている。藩主の居館御華畠から城内に入る下馬橋(現・行幸橋)下方にあるのが洗馬橋である。
洗馬橋の右手のブロックを(6)「洗馬地区」とする。
  竹原少大夫・曽根権三郎・平野先右衛門・佐野九左衛門・岩佐真左衛門・古川五大夫、理左衛門・東条新左衛門
  中野七右衛門・桑原主殿後家・刑部殿下屋敷・長坂三郎左衛門

  (d)内藤長十郎・奥村喜内・金森四郎右衛門・井上七左衛門・木野左兵衛・津田半右衛門・宇野喜太郎・宗像少右衛門・小川安左衛門・永田三郎・刑部殿下屋敷
  香山源兵衛・中路加兵衛・鯛瀬小左衛門・河村長吉・金子主善・尾崎伊織・成田十左衛門・久野又右衛門・中路新右衛門・津田茂左衛門・郡与茂丞・奥村安大夫下屋敷
  林勘左衛門・小林伝三郎・中山左次衛門(高橋町奉行)・太田安大夫・古屋七右衛門

「洗馬地区」の東側が(7)「山崎地区」である。
  高森九郎大夫・角田団四郎・野田小三郎・加藤新兵衛・(e)高見権右衛門・坂井七郎右衛門・上村甚五左衛門・仲光金大夫・脇坂五郎右衛門・関安丞
  杉山権兵衛・山田久丞・門川三丞・川方三右衛門・遠山半兵衛・門川茂左衛門・高見少五郎・不破兵大夫・不破十丞
  太田九郎兵衛・岩崎角丞・志方十兵衛・魚住久太郎・萩田又兵衛・斉藤文大夫・(f)栖本又七・平野清兵衛・古橋惣左衛門・加藤九郎兵衛
  出田宮内少輔・矢野三郎兵衛・服部武左衛門   尾池伝右衛門

  明石源兵衛・辛川文大夫・本田作左衛門・竹内八兵衛・安場五大夫・大塚甚右衛門
  生野猪助・可児次郎右衛門・可児小七郎・野本平八・小林吉大夫・可児長三郎・林長兵衛
  津田了斎・鎌田源大夫・牧牛之助・南條牛之助・上村理左衛門

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この絵図では忠利公没後の殉死者やいわゆる「阿部一族」誅伐事件の関係者の屋敷が散見される。
  (a)林外記 阿部一族の誅伐に際し、竹内数馬を「忠利公懇の者」として主将に指名した。
        光尚公の死後、御供するであろうと噂されたが殉死せず非難された。
        佐藤傳三郎により殺害(差違い?)された。
    明石玄碩 林外記の夫人が逃げ込んだ屋敷。600石御医師。
  (b)藪市正 阿部一族の嫡男権兵衛は忠利公三回忌の墓前で自らの髻を伐り、捕縛され薮屋敷に預けられた。
        権兵衛は光尚の大いなる怒りを買い後井手の口で斬首される。

  (c)竹内数馬後家 阿部一族の誅伐に際し主将を勤め表門から入って戦死した数馬の屋敷。
  (d)内藤長十郎 森鴎外の小説「阿部一族」によると、殉死前に酒をたしなみ寝込んでしまい、時刻に至り若妻に起こされて殉死の場所に出かけたとされる。
          鴎外の捜索であろう。
  (e)高見権右衛門 阿部一族の誅伐に際し副将を勤め裏門から入り活躍した。
  (f)栖本又七  阿部屋敷の隣家の主人。つまりこの栖本家の隣・斉藤文大夫屋敷が阿部一族の屋敷跡である。
          熊本の民放RKKの局舎が建っている。著名な作家・荒木精之氏が場所を特定された。
  

  

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