津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■細川光尚宛、従兄弟・蜂須賀忠英書状

2022-08-18 06:28:48 | オークション

  寛永19年(?) 書状 折紙形式 計1点 徳島藩 第2代藩主 蜂須賀忠英 花押 熊本藩主 細川肥後守あての返書 滞在先からの発信 阿波国        
        

 阿波徳島藩二代目藩主・蜂須賀忠英(蜂須賀小六の曾孫)から、肥後細川藩二代目藩主・細川光尚にあてた書状である。
それぞれが挨拶状を交わしている。忠英は腫物が出来たらしく光尚はこれにもふれているが、どうやら全壊している。
二人の親し気な文通は、忠英の生母が徳川家康養女・敬台院(小笠原秀政女・万)であり、光尚生母も又家康養女・保壽院(小笠原秀政女・千代)であり従兄弟の関係である事による。
小笠原秀政室は徳川家康嫡男信康の女登久姫(峯高院)であり、長女が万姫、次女が千代姫である。
男子は忠侑(嫡男長次が中津藩主)、忠真(小倉藩主)、忠知(杵築藩主)、松平重直(出羽上羽藩主)などそれぞれが大名となった。

商品説明が詳しいが、寛永19年の書状と比定して居られる。光尚は前年3月17日に死去した後5月5日遺領相続、5月19日に江戸発駕、6月14日熊本着。ひょっとすると18年かもしれない。

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