久野次郎左衛門に関する二つの史料を、「清田石見」関係者の方からお送りいただいた。御礼申し上げる。
左は大坂城普請に関する史料であり、右は天草島原の乱に於ける久野氏の働きの証明の写しである。
久野次郎左衛門 私先祖ゟ相達候紙面写
一貮人六分者 小豆嶋石切過上 一ニ月廿七日有馬本丸出丸久野次郎左衛門
一大坂御普請未進過上無之 一所に乗込申候儀紛無御座候事
右之通聞届申候已上 一本丸石垣ニ何茂一所ニ着申候處次郎左衛門石ニ而
〇六月十八日 打れ申候儀慥ニ見届申候以上
六月廿八日
清田石見殿
右之通御座候文字本書之通写進之候
左の内容についてはよく理解できない。専門家の見解をお聞きしたいと思っている。
右は「私」の先祖が、久野次郎左衛門の有馬陣に於ける働きを証明した文章であり、それを一字一句書き写して誰かに
「進之」したとする文書である。「私」が誰なのかが、文書からは伺えず残念である。
ただ久野家からすると、先祖の有馬陣での働きの有様が判る貴重な史料である。
清田石見は有馬陣(島原の乱)に於いては自ら手負いしているが、戦後、一万有余の細川家臣の戦場での働きについて吟味にあたって奉行の一人である。
原城陥落後すぐに各人の働きを書面で出すように要請している。
その内容に従い、紙面に書かれた証拠人宛に文書を発し、その事実を書面で提出するように依頼している。
これ等の調査にもとづき、働きが顕著であった者に対しては加増や褒賞などが行われた。
以下は、阿部権兵衛(阿部弥一右衛門の嫡男、後縛り首の刑の処せられた)の線上での働きについて、その清田石見が証拠人・沢村権十郎にその事実確認の依頼をした文書である。(沢村家文書より引用)
今度嶋原ニて二月廿七日に阿部
権兵衛本丸石垣ニ着石手
負被申候 證人ニ御立候様子具ニ
御書出可給候以上
六月五日 清田石見
沢村権十郎殿
沢村家にはこのほか数件の依頼状・証拠状が残されている。(肥後藩士沢村家資料集・所収)