熊本で先に「針薬方」が発見されてから、明智光秀が薬師であったという若い時代の生きざまが明らかになりつつある。
明智十兵衛から薬の処方を教えられたという、この文書を書き残した貞能とは細川家三卿家老・米田家の初代・求政の事である。
この貞能が飯川信堅から薬方を伝授されたという史料が、「熊本縣史料・中世編Ⅱ」の米田史料に所収されている。
飯川信堅とは細川幽齋の室・麝香の姉婿である。細川藩・主要家臣系図によると、信堅は足利義輝生害の時に討死したとされる。(永禄8・5・19 沼田家系図)
しかし、この文書の日付は8・10・22日とあるから、是には首をかしげざるを得ないが。
米田氏と飯川氏との関りは、求政の子の是政娘が飯川肥後に嫁いでいる。
後に飯川肥後と父・豊前が忠興の命により誅伐されるという事件が起こるが、兄・米田是季はこれに抗議の意をもって細川家を出奔している。
そして大阪の陣では西方で働いた。その前後どこに住まいしたのかが謎であったが、米田家家臣のご子孫は坂本の西教寺ではなかったかと推測される。
是政室・雲仙庵は明智光秀の姪だとされ、是政ともどもここに埋葬されている。
まさにここは明智光秀室・妻木家ゆかりの御寺であり、深い因縁を感じている。
また、飯川肥後の相聟には明智の老臣・進士美作守國秀がいる。光秀謀反を忠興に知らせたのは義弟・権之助直次である。