水汲みに動き回り、引越し先を探し廻り、引越しの準備をし、もらい風呂に出かけ・・・・これが最近の日常である。
そんな中で奥方の殊勲で引っ越し先がどうやら決まりそうな感じである。奇跡と言うべきかも知れない。
今日の午前中部屋を確認、奥方は大変ご満悦である。・・・まずは祝着。あと1週間ほどの辛抱である。
現在のAPに引っ越すとき大きな棚二本が玄関から入れられず、クレーン車を雇ってベランダから入れたことが有る。
この棚をどうしようかと思案していたところ、そのまま残しておいて良いと言う話しに成った。建物を解体するからである。
これには正直ほっとしたが、これでは本や資料の収納が出来ない。先に■落選しました・・・を書いたところ、沢山の皆様から暖かいお申し出やご提案をいただいた。
またメールも頂戴し「お預かりしましょうか」というお話も頂いた。誠にありがたい事と深く感謝申し上げる。
最低座右に置きたい物だけを運び出すことにして、図書館でコピーした資料は大方廃棄、その他のものも処分しようと考えている。(処分したものも多い)
今度のMからは図書館が近くなりこれが一番の喜びである。
昨日も震度3が3回あった。今日は余り感じられないが外出中に揺れたのかもしれない。
そろそろ避難場所に成っていた各学校が授業を再開する。まだ多くの被災者が避難所暮らしを余儀なくされているが、18箇所に集約され致し方なく退所される方も多いようだ。皆様のご健康を祈りたい。
○又云、肥後ニて申伝ニ云、忠利公於御長命ハ熊本の御城を川尻へ
被為引度思召ニて、御絵図等御内証ニて出来、江戸表従御内意
此以下欠文か不分
御心懸被遊置候由申伝候、此処は近く四方ニ見所無之、大河流候
へハ水筋如何様ニ候共舟入も有之、其自由能るへし、誠ニ堅固繁
昌の勝地たるへきもの也
伝記ニ云、隈本古城ノ由来、菊池四代肥後守経宗の三男太郎蔵
人経信、菊池郡出田を領して出田讃岐守と称ス、経信十三代出田
筑後守秀信と云、飽田郡の内八十町を領して隈本の城ニ住すと菊
池の家譜ニ見へたり、秀信在城の年代ハ未タ不考之、此時の城ハ
今云千葉城也、其後大永・亨禄の比、斎院次官親能十四代鹿子木
三河守親員入道寂心ハ飽田・託摩・山本・玉名の内ニて五百六十
丁ヲ知行し、隈本在城四十四年と云伝たり、今ニ云古城也、寂心
ハ代々菊池家の家臣ニて文雅の名ある人也、藤崎の宮を再興候、
桧垣の謡も寂心作れり、又菊池能運・同武包・同義武等隈本登城
の事、隈部基興当城を攻る事有、是ハ寂心在城の時の事か、未考
之(也カ)、菊池家衰へ寂心も豊後大友ニ属ス、其子民部少輔親俊も父と
共ニ在城セリ、天文八年一族城越前守ニ当城を譲り、寂心父子ハ
当郡高橋上代の城ニ移ル、城越前守親冬菊池郡出田の城ゟ当城ニ
移る、城氏ハ菊池家は八代右京大夫能隆四男城六郎隆経を始祖とす、
隆経八代越前守親冬也、其子越前守親賢初メ大友ニ属ス、後ニ薩
摩ニ従ふ、大友義鎮大ニ怒り兵を当城ニ向て攻れ共利なし、親賢
天正九年十二月廿九日卒す、其子十郎太郎親政也、嶋津義久一字
を与へて久基ト号ス、幼少の時ハ出田左衛門入道一要をして後見
たらしむ、一要ハ久基の叔父ニて出田式部重基か子ニて宮内少輔
武房か父と聞へたり、城氏も飽田・託摩両郡を領ス、其比嶋津氏
強大ニ成近国を侵掠す、依之天正十五丁亥年二月秀吉公九州へ下
向、同年六月肥後国を佐々陸奥守成政ニ給る、成政自害以後一国
を加藤・小西ニ給り、清正ハ隈本在城して後ニ茶麿山ニ城を築く、
今の御城是也、忠広遠流以後寛永九壬申年十月四日、肥後国を細
川越中守忠利公御拝領、同年十二月二日熊本御入城と也、
(了)