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津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■前を向いて

2016-05-01 13:18:11 | 熊本地震

 地震発生以来続けてきたレポートと、「熊本日日新聞」のご紹介を月が改まったのを契機に終了する事にした。
まだ小さな地震は数多く発生しているし、避難所生活や車中泊の方々も身近に多くお気の毒としかいい様がない。
避難所や車中泊の場所は閉鎖されるし、給水サービスもそろそろ終了するらしい。

私の毎日のレポートの中で、三食の給食状態をご覧になっていろいろご心配いただいた。
それがそのまま私の食事だった訳ではなく、避難者の人達の状況をお伝えしたかったが故である。
もっとも頂戴したものは捨てることなく有難く頂戴した。
熊本市内はともかく、益城・西原・南阿蘇などの激甚地での生活は如何ばかりであろうかと思う。
これらの地に暖かいご支援をお願い申し上げたい。
熊本城の被害に象徴される今回の大災害だが、水前寺の池の水が干上がる等自然災害の一面も深刻である。
まだ直接つぶさに見る事はできないが、一日も早い復旧を望みたい。 

熊本に墓地がお有りの方は、お墓の転倒などがひどいので確認をお願い申し上げたい。
災害の状況は引き続き「熊本日日新聞」のくまにちコムサイトでご覧いただきたい。

私はといえば愛用のメガネがとうとう見つからず難儀している。
大問題は住まいの事、住んでいるAPの半壊認定を受けて家主さんから7月いっぱいの退去を求められている。
膨大な住宅難民がある中、どうして住まいを見つけるか頭が痛い問題である。
励ましのお電話やメールを数多くいただいた。またわざわざ東京からお出で頂いたり、お見舞いの品をお送り頂いたり、皆様の心温かい応援をいただきこの上ない幸せであり深く感謝申し上げたい。

有難う御座いました。そして前を向いて頑張ります。

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■宇土軍記 肥後・下 (廿九)~(三十二)

2016-05-01 06:58:33 | 史料

      廿九 寄手持口之事

一、大手堀田黒門口は寄手一番侍の頭加藤百助持口也、武者奉行庄
   林隼人相添也 
一、搦手馬場村口天守ゟ南西の間ハ寄手飯田国兵衛持口也
一、右の外持口のぎ不相知也

      三十 清正急に城を責可給子細之事   
         付寄手城を乗不足(定)事・森本儀太夫事

一、寄手昼夜の境を無之精を出し仕寄手を付候に依て、後口ハ外郭
   の堀を悉埋メ、塀際に竹束を難無打寄たり、依之諸物頭共打寄
   令内談、殊ニ森本儀太夫義別て進ミ出、清正え陳害(ママ)せしハ右の
   通に候へは城能乗塩にて候間、惣乗可被仰付由申達候処に、清
   正被申候ハ、何れも申分尤至極せり、乍去今度ハ某存る旨有之
   間暫相待可申候、子細は人数を不損して此城を只取にすへし、
   各心易可存との義ニて免し給ふへく候ニ付、不及是非任下知罷
   有候、陳中の取沙汰にいつれも早晩軍勢に先達の敵城を乗給ふ
   事にて候処に、今度ハ扣給ふ事不審成との事也、後思ひ合すれ
   ハ関東ニて家康公御勝利疑無之事を兼て能考給ひ、心底に深
   く納おき給ふに付かくのことし、後道のつもり少も違わす城を
   只取に被致候、誠ニ/\良将かなと諸人かん心せしとなり、
   古法に城を責に種々の心得有之、先右の儀ニ付二ツ趣有之、人
   数の可損にも構無之俄責にする時も有之、又心静に責る節も有
   之上ハ、急の二ツを可心得事也、清正の心底此二ツを不備得給
   ふ事也、
一、右の通に城責の事制し給ふといへとも乗能けに見ゆる所有之、
   余もとかしくおりハ外の者にも不言合、有時鉄炮頭名字失念助左衛
   門と申者、西の口より不計塀の手にて乗候て、矢倉ヲ一ツ引崩
   乗込んと有し時、内に堀有之おもゐの外堅固の所に付、不定し
   て引取けると也、城内には内堀・穴道、或宇土もかり樹木抔仕
   様に種々有之、兵書不具成殿(故カ)略之
一、有事森本儀太夫竹束表ゑ下知せし処に、鉄炮に中り危かりし処
   に、庄林隼人助来り引取しを也、此時森本広言の事とも為有之
   由、此様子不具候、森本は右の通最前に手負たるニ付、此陳中
   ニは何の働も不罷成よし也

      三十一 舟手の寄手勝利を失事
          付り潮入断の事

一、清正の舟奉行梶原助兵衛身上五百石有説には梶原才兵衛と云々、塩
   田表の瓢箪渕に此所城より一丁内今ハ田とナリ舟を乗込所を、城内より是を見て
   大筒を放し懸、梶原か乗たる舟ハ不及云、其外十余艘の舟、或
   ハ打沈又ハ打破散々に成たる由、梶原被討死ス、此時舟奉行井
   口伊賀と申者も罷越候へ共働等のぎ不相知也、
一、右の梶原ハ、此節於大阪清正の御内室為人質城内の屋敷御入候
   所、大木土佐と申合盗出し舟に乗大阪出船、八月廿六日ニ豊前
   の中津え下着、此所の城主ハ黒田恕(ママ)水、味方ニて候ニ付熊本え
   送給ふ、同廿八日に熊本え下着と云々、右両人の謀深キ手段有
   之事長故略之、口津(ママ)可被伝候へし、
一、小西代海道路通のき、西の川口ゟ内に新開村と云所ゟ従城丙戌に当ル、行程
   壱里の由、宇土の城際に潮入有之、城下右の瓢箪渕ニ移り、夫ゟ惣
   堀え続たると申伝候、今ハ田と也たり、川すじ未庄城の後大沼
   えも潮の指引為在之由、大手ゟ搦手往来の所ニも橋無之候てハ
   難叶、これも不分明也、
   右沼を埋し手行に嚢沙の謀と云事有之、堅固の不堅固、不堅固
   の堅固と云る事可得心
一、清正の代に此沼より下り松橋と云所え従城陸一里辰巳ニ相当ル潮入ヲ振通、
   其自由よかりしと也、乍去はへの風強く砂を吹込埋り浅瀬に罷
   成、舟の往来指支申、度々砂をさらへ申候処城もわれ申候、以
   後ハおのつから潮入江(埋入)筋今ハ田地に罷成候由也
一、右海上より舟手働の事、何比彼表へ舟手の輩者着舟候也、日限
   不相知候、惣して従両方取詰るには互合図有之事也、又時によ 
   り遅速有之時は敵防よし、先ハ同時に海陸より押寄ル時ハ敵防
   かねるもの也、遅速同時は其時に考可有之事也、爰ニて此時ハ
   先手旗本共に城を取詰候已後陸の味方を頼ミて、城より一丁内
   有之瓢たん渕迄近々と乗込たると見へたり、清正の下知なれば
   うか/\と近ク乗込諸々の舟手失勝利申様成ぎハ在之間敷もの
   に候、其上舟おもかこミ可申ぎニて候、然に早速敗北有之たる
   よし、其塩合いか様に為有之か様子不相知候、大手・搦手・扨
   中筋は舟手都合三筋より為被取寄事也、右に委細なり、惣して
   舟軍の作法曽数多有之事也 

      三十二 寄手沼田の浅きをしらす事

一、宇土の城きハに大成沼田有之候に、寄手の考に此田ハいかかに
   も游泥深くして底の様知ず、人馬の足の及事ニあらす、卒爾に
   入におひてハ犬死する事成へしと諸人沙汰するに、依之其田の
   端迄仕寄せ付候得ともた(田)の中え入り付る事を得すして、徒に遠々
   と守り居たり、扨和談相済城を受取候ハ、後に尋れはいかにも
   沼浅くして、漸壱尺計足入りて底こたヽて人馬の往来自由也、
   熊本と宇土の間纔行程四里隔て、諸人往通いて常々よくしりた
   る所なれば、敵地となれば人々の心底恐疑するもの也、近き所
   えさへ此ことくなれば、況や遠国行て色々の手折可有之も難計
   ぎ也、敵国の境に入てハ心地の有さまを能察せよと古人の云る
   事可や、尤田の浅深の見分様古伝に在之事也、右の田の所何す
   と無之也
  

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