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津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■霜女宛米田是季書状

2023-05-15 07:16:53 | 先祖附

 ガラシャ夫人の最期を伝えるものとしてつとに有名なのが、侍女「霜」が光尚の乞いに対して書き遺した所謂「おしも覚書」である。
今回はその内容ではなく、光尚の指示により霜に対して義兄(姉聟)米田監物(助右衛門是政)の子是季がその旨を依頼した書簡を取り上げる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

正保四年三月光尚君江戸江御参勤之前、監物是季に御意御座候ハ、秀林院様御生害の事今程覚候者可有之哉、監物母雲仙庵か妹しもと申者御側に相勤、其節之儀覚居可申候、当年ハ御急被成候間、来年御登り之節京都御まん様(烏丸光賢簾中)江御寄可被遊候、其時分しも罷出候ハゝ可被聞召との事ニ付、監物より其段しもに申遣候

    又申まいらせ候 しかれハ ひこさまこゝもと御のほり前われらに おゝせられ候ハ、しうりん院さまの御さひこのやうすついに御聞不被成候、もはや今
    ほとその折ふしの事共くわしく存候ものハあるましく候、それさまハ御そんし有へきとおゝせられ候まゝ私申上候ハ、一段其とうりニて御座候、御はて被
    成候前かとの御つかひをもそれさまなされ候、御さひ期まて付て御入候、御ゆいごんをも御聞候て御出候ニ付、くわしく存られ候と申候得ハ、左候ハゝ今
    度江戸御下りニハ御急きなされ候まゝならせられす候、来年御のぼりの節ハ御まんさま江御より可被成候間、そのきざミそれさま 御まんさまへ御出ニて
    御入候へ、やうす御聞可被成候まゝ此よし私ところより申進候へとおゝせ置れ候、ふしミニて野々口丹波ニも左様ニ仰られ候よしニ御座候、もはやとしま
    かりよられ候まゝ、何事もわすれ申さるへく候へとも、まつ御意の通申つかハし申へきよし御返事申あけ候、めて度かしく
       (正保三年)五月十五日                       なか岡けん物
                御しもさま
                    人々申給へ

  右之通ニ付翌年霜より書付(おしも覚書)差上申候

ハ江州佐々木一族、田中之城主一ニ田中坊比良内蔵助江州比良之城主なり、比良太郎兵衛か親なりか妹也、米田助右衛門是政妻・野々口丹波妻ハ右内蔵助か為ニも姉也、しもハ同国和尓之城主入江兵衛尉に嫁す、兵衛尉父ハ入江順幸入道とて生国ハ摂津之由、織田信長に仕へ候
   一書、霜ハ近江七人衆の内比良娘にて、入江兵衛太夫一本ニ摂津侍女房、入江仁兵衛母と云々、又一書、霜は比良内蔵助妻之妹と有之米田家記 
夫ト兵衛尉山崎合戦の時明智殿の手にて討死、依之其子仁兵衛と共ニ助右衛門方ニ参、仁兵衛ハ与七郎と一所に在之、霜ハ秀林院様江相勤候、外ニ娘壱人有名ハかめ、後ニ京都浪人臼井九左衛門友甫と云者ニ嫁す、此故を以秀林院様御生害後ハ九左衛門所ニ罷越候、

    長岡監物室・雲仙庵とシモ(入江兵衛尉室)との関係を示す略系図
     

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■大日本近世史料・細川家史料「忠興文書-元和五年」を読む (2)

2023-05-14 11:07:51 | 先祖附

忠興文書-元和五年(1619)

  (九月十九日、於中津六丸=光尚誕生ス)

194、十月十一日書状(忠興八月九日ニ賜暇、十月ハ在国)
 ・来春大阪城普請ニ付摂津御影・飯森辺ニ石場ヲ取ル、淡路ノ石場ハ蜂須賀家(忠利相婿)ノ年寄衆ニ交渉スベシ

195、十月十五日書状
 ・筑紫主水(後広門)ノ出府ヲ了承
 ・山名禪高屋敷ヲ才覚(取得?)スベシ
 ・墨蹟ノ表具ハ気分回復セザル為遅ル
 ・茶入レヲ忠利ニ送ル、代金ハ内密ニスベシ
 ・大阪城普請ノ指令出ズ
 ・渡邊筑後ニ万事頼ミ入ルベシ
 ・普請奉行(花房正成・長谷川守知・日下部五郎八・渡邊筑後)、花房・長谷川ハ黒田長政ト知音(細川ー黒田家の関係悪シ)
  日下部五郎八ト入魂ニスベシ
 ・惣奉行戸田氏銕ニツキテハ土井利勝ヨリ依頼アル筈
 ・小田原城ヲ土井利勝ニ下賜ノ噂
 ・田中忠政出府、福島正勝越後下向
 ・木下延俊(室忠興女・加賀)女ノ縁談ハ土井利勝ノ同意ヲ得テ定ムベシ
 ・墨蹟・茶入及ビ茶入袋箱ニハ例ノ印ヲ押ス

196、十一月十三日書状
 ・秀忠ニ鷹野道服ヲ献ズ
 ・土井利勝・伊丹康勝ニモ道服ヲ贈ル

197、十二月三日書状
 ・土井利勝・酒井忠世・本多正純・伊丹康勝等年寄衆加増ヲ受ク
 ・大坂城普請坪数決定次第通知ヲ待ッ
 ・後藤又一郎(又兵衛二男)母ハ以前ゟ豊前ニ招ク積リ
 ・眼痛ノ為不干(佐久間正勝)妻木之徳ニハ返書ヲ遣サズ
 ・忠利米千俵拝領之由
 ・江戸茶湯流行
 ・所望ノ豊前焼無之ニ付、長崎ゟ取寄ノ品進之候
 ・秦宗巴ノ香炉ハ興元遺物目録ニ書入レシ故忠利所望ニ応ジガタシ
 ・伊達政宗駿府ニ屋敷ヲ望ム

198、十二月十九日書状
 ・鷹ノ鶴拝領ノ御礼を早打ヲ以テ申入ル
 ・高羽ノ鳥箒・保呂羽

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■大日本近世史料・細川家史料「忠興文書-元和四年」を読む (3)

2023-05-10 05:53:44 | 先祖附

忠興文書-元和四年(3)

171、九月四日書状
 ・(小倉へ)一色左兵衛(範勝)差遣ニツキ、土井利勝ニ答禮スベシ

172、九月六日書状
 ・光壽院四十九日過ギ次第小倉ヲ出立セン
 ・忠利室一段息災
 ・為御礼奉行衆迄馬詰某ヲ以申入候、田中半左衛門(幽齋女・伊也ノ女婿)と其方使者一人相添、大炊殿迄遣サレタシ

173、九月廿八日書状
 ・再来年江戸城普請ノ石ヲ町人・彦兵衛ニ請負ハシム
 ・石ノ善悪ヲ検分シテ後江戸へ運送セシム
 ・彦兵衛ノ仕様吟味ノ上申付ベシ
 ・石ノ數三千
 ・以前ノ採石場ハ塞ギ置クベシ
 ・廿六日光壽院ノ法事、廿七日出立予定ガ一両日延ブ
 ・眼病ハ京都ニテ治療ス
 ・其方咳氣ノ由養生肝要ノ事

174、十月十七日書状
 ・忠利光壽院ノ居所ニ移ルヲ望、光壽院召使ノ女共ヲ移度コト尤候 
  (江戸證人)沼田勘解由(延元)女居候近所之長屋へしこみタルベシ         多阿(タア)=平野九郎右衛門嫁
 ・光壽院ノ道具ハ長屋ノ三階ニ置クベシ

175、十月廿三日書状
 ・隠密ノ文ハ自筆タルベシ
 ・十月上旬上洛ス 眼病ノ治療
 ・替米
 ・江戸ニ珍敷雲・はうきほし(旗雲彗星)現ル由、いつかたも同前
 ・九月十七日日光東照宮臨時祭、奇特なる儀
 
176、十月廿七日書状
 ・眼醫師ノ診断ニヨリ療治セズ江戸へ下ルベシ

177、十一月七日書状
 ・忠興出府ノ途ニツカバ忠利状況スベシ

178、十一月八日書状
 ・十一日京都ヲ出立セン

179、十一月十一日書状
 ・忠利帰国ノ暇ヲ與へラル、(光壽院死去ニヨリ)江戸ニ人質ナキ故(忠興)江戸到着迄(忠利ハ)逗留スベシ

180、十一月十二日書状
 ・忠興石部ニ到着ス、秀忠ヨリ拝領ノ鷹ノ鶴到来、忝令頂戴候

181、十二月三日書状
 ・十一月廿四日忠興江戸参着、廿七日御目見、晦日ニ御茶被下候、紫ノ御茶入之御ひらき
 
182、十二月五日書状
 ・為見廻被差越、道服二到来祝着
 

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■大日本近世史料・細川家史料「忠興文書-元和四年」を読む (1)

2023-05-06 09:36:26 | 先祖附

忠興文書-元和四年(1618年)

148、正月九日書状
 ・閏三月頃小倉ヲ出立セン
 ・肩衝ノ掘出物                                                           肩衝=肩が張った茶入れ                                                              
 ・竹千代西丸移徙ノ祝儀ト継目朱印ノ禮
 ・曽我尚祐煩気遣千萬ニ候

149、正月九日書状
 ・江戸屋敷ノ路地ノ植木

150、二月十九日書状
 ・拝領ノ若鷹ニ鶴ヲ鶴ヲとらせ献上
 ・忠興ノ眼病本復ノ望半バナリ

151、三月十九日書状
 ・忠利室(千代姫)ニ服薬ヲ勧ム

152、三月廿五日書状
 ・忠利室不食、吉左右待申候

153、閏三月二日書状
 ・二月七~八日時分ゟ目煩出
 ・同廿日時分ゟ両眼共ニ見え不申候事
 ・大坂ノ眼醫師ヲ招く
 ・京都ノ眼醫師ノ下向ヲ板倉勝重ニ依頼す
 ・江戸へ上ル覚悟候処ニ迷惑事付、京都ニテ療養セン
 ・先月廿日比迄ハ寝間ヲ出候事ナク、醫師サへモ寝間ニ呼申候コト、顔面腫ル
 ・(病の原因)今迄身ヲあらくあつかい聲高ニ候
 ・癪ヲ併発ス
 ・(母)光壽院ヘハ(病状を伏せ)本復ノ旨申送ル
 ・中津城石垣ノ修復

154、閏三月二日書状
 ・角石献上
 ・石灯篭献上
 ・黒田長政来年江戸城天守普請ノコトヲ内聞シ石ヲ献上ス

155、閏三月廿四日書状
 ・秀忠使者ヲ小倉ニ遣シテ忠興ノ眼病ヲ問ハシム
 ・推量之外草臥

156、四月朔日書状
 ・尾張馬島ノ大法院ヲ眼病治療ノ為招ク
 ・秀忠ヨリノ見舞ニ禮使ヲ遣ス
 ・秀忠へ袷ヲ献上ス
 ・寺澤家中ノ眼醫師ハ唐津ニ戻ス

157、四月朔日書状
 ・小倉・中津両城大雨ニテ破損ス
 ・溜池ノ石塘等事之外損

158、四月朔日書状
 ・忠興、江戸光壽院屋敷ノ土居ニ小唐竹ノ薮ヲ仕立ントス・・いかにもやせたる小藪か能
 ・土居下ノ水付ニハ柳ヲ植ウベシ

159、四月三日書状
 ・曽我尚祐ノ病ハ半井驢庵ノ薬ニテモ験ナシ
 ・全齋ノ投薬ニツキ懸念ス

160、四月廿三日書状
 ・忠利室千代姫快方ニ向フ

161、五月廿一日書状
 ・千代姫懐妊、京都ノ産醫板坂大膳亮ヲ同船下向スベシ

 

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■吉原実氏論考御紹介ー『隔冥記』に現れる勧修寺家と飯山佐久間家の交わり(2)

2023-05-05 16:12:35 | 先祖附

寛永二十年(一六四三)
 正月二十日

「今日江間紹以依赴河内北條久太郎公、而書状言傳也。伊藤長兵衛筆書扇子一本、投于北久太公也。」
 河内に江間を遣わし、北条久太郎に正月の礼として伊藤長兵衛筆書の扇子一本を贈る。
(伊藤長兵衛は当時の著名な絵師である)

寛永二十一年・正保元年(一六四四)
 三月二日

「今曉自江戸、書状來、予姉光壽院殿之訃音、驚肝膽也。光壽院逝去之儀二付、自新庄新三郎殿、飛脚來。」
 朝早く、江戸よりの書状が届く。姉、光寿院殿の訃報なり。肝が潰れるほど驚いた。新庄家よりも書状が届く。
(我が家の菩提寺である近江高島・幡岳寺の過去帳には寛永二十年二月二十日が命日と書かれている。一年の違いがあるが、過去帳の写し間違いと考えられる。東京高輪・広岳院の過去帳には、正保元年二月二十一日と書かれていて、この日記と一致している)

 三月十五日
「光壽院殿之儀二付、佐久間備前殿之息女池田下總殿之後室乾徳院殿之飛脚也。昨日飛脚今日於晴雲軒、認返翰、渡飛脚也。」
 光寿院殿の儀に付き、佐久間備前殿息女、池田下総殿の後室、乾徳院殿の飛脚が来る。晴雲軒で返書を認め飛脚に渡す。
(姪からの書状への返書を書いた。晴雲軒は相国寺内の庵)

 五月二十三日
「加州前田肥前守殿之内、宮木内贓允書状來、藜杖壹本被恵之也。自芝山内記公、被相届也。」
 加州前田肥前守殿の家臣、宮木内蔵允から書状が来る。藜杖一本を贈りたいとの事。芝山内記が持参する。
(加賀藩四代藩主・前田光高の家臣の手紙で、アカザの茎でできた杖を贈るとの事。アカザの茎は硬く丈夫だが大変軽いもの。そのゴツゴツした形状が胡桃のように、手の神経を常に刺激して中風の予防になると信じられていた。宮木内蔵允は光高の御傍衆で五百石取りの者)

 六月十三日
「明智日向守秀岳居士諷経、如例年。」
(明智光秀の為の読経を例年この日にしているそうである。光秀の命日であるが、何か特別な所縁でもあるのであろうか。本能寺ノ変の時に現場にいた父である晴豊の意向だったのかも知れない。晴豊は本能寺ノ変の後、光秀の娘を匿ったと言われる)

 六月十七日
「自河内、北條久太郎公之内、佐久間晴左衛門書状來、品川海苔壹箱恵之也。」
 北条久太郎の家臣である佐久間清左衛門の書状が来て、品川の海苔を一箱贈るとの事。
(江戸品川の海苔は高級なものだったのか)

 七月九日
「光壽院殿之被召使古川仁左衛門、自江戸、上洛仕。爲光壽院殿之吊、登高野山也。其次光壽院殿之爲遺物、三色自江戸也。江間紹以爲案内者、古川仁左衛門來于晴雲軒、相逢也。於芝山大膳公娣、而自光壽院殿之遺物來。蒔繪文箱壹ケ・物語料紙貮部來。爲持、相届也。明朝於北山、來古川仁左衛門可振舞之旨、申談也。予今晩歸山也。」
 光寿院殿の召使古川仁左衛門が江戸から上洛。高野山からの帰りに来訪。光寿院殿の遺物を持参する。相国寺の晴雲軒で会う。芝山大膳公とも会う。遺物は蒔絵文箱一個、物語料紙ニ部也。仁左衛門を振舞う。
(高野山にある光寿院の墓に参り、その帰りに家臣が和尚に会いに来た。光寿院の形見分けをして行ったようである。芝山大膳とは、和尚の兄・光豊ので勧修寺。光寿院の甥。芝山家は、この宣豊を初代として代々歌道の家となり明治維新後に子爵となる)

 十日
「朝、自江戸、來古川仁左衛門振舞也。爲案内、江間紹以亦招也。於書院、相伴、點濃茶、而歸。則返書共遺渡之也。其次、袴・肩衣壹具遺古川仁左衛門也。仁左衛門今日赴西賀茂之北川左兵衛所。依然、案内者相添、遣也。自西川忠味、索麺一折五把、爲盆之柷儀、被恵之也。黄昏能喜來過。自懐中、小食籠取出、持参雲門・肴被恵之。乗月、而擧一盋、打談也。」
 仁左衛門に返書と袴、肩衣一具遣わす。仁左衛門今日は西賀茂の北川左兵衛の所に逗留。
(和尚は祝儀や、色々な土産を持たせ楽しい時間を過ごしたようである)

 九月十七日
「予所持之貫之筆之大色紙之掛物、北條久太郎公借用支度之由、依懇望、令許借也。卽於江間紹以所、而爲持、遣之也。自江紹以、於北條久太郎公、而相届也。掛物之箱者、不遣也。」
 明日の北野での能会の為に、北条久太郎公に江間を通して紀貫之筆の大色紙を貸す。
(紀貫之の色紙とは、佐久間将監が大徳寺の塔頭・寸松庵に持っていた物と関係あるのであろうか)

 十月二十七日
「晴天、風吹也。天壽院殿贈内府路岩眞徹尊儀之三十三白之遠辰也。予家兄也。大納言光豊卿也。於晴雲軒、小齋也。」
(和尚の兄、大納言・勧修寺光豊の三十三回忌の法要を行ったようである。光豊は父である晴豊の後を継ぎ、後陽成天皇の武家伝奏を務めていた。は神事の一つ)

 十二月八日
「晴雲院殿之正當之月忌故也。」
(和尚や光寿院たちの父である勧修寺晴豊の正月命日。我が家の菩提寺である近江高島の幡岳寺の過去帳にも八日と書かれている。慶長七年十二月八日五十九歳で亡くなっている。後陽成天皇の叔父で、誠仁親王の義兄にあたる)

正保二年(一六四五)
 正月十六日

「自豊後之久留嶋丹波守殿、書状來。大竹壹本來、花筒之竹也。至河内之北條久太郎公、而來、自北久太公、竹被相届也。江間紹以相届也。於晴雲軒、見之也。大竹壹尺一寸九分有之也。」
豊後の来留嶋丹波守から書状と共に大竹が一本送られてきた。花筒用の竹なり。河内の北條久太郎からも竹が来る。江間が届けて来た。
晴雲軒で見ると、一尺一寸九分の大竹なり。
(三十五センチ位の竹だから大竹とは太さの事であろう。丹波守は佐久間安政の娘で、和尚の姪が嫁いでいた豊後森藩二代藩主・通春のこと)

 二月二十一日
「光寿院殿之小祥忌也。北条久太郎公内梶原大學、佐久間清左衛門兩人上洛被仕。」
(光寿院の一周忌。河内狭山藩・北条氏の二人の家臣が上洛。命日には幡岳寺の過去帳と一年と一日のずれがある。過去帳の写し間違いだと思われる)

正保三年(一六四六)
 正月十二日

「北条久太郎内、自佐久間清左衛門方、守口漬香物一桶被恵之也。」
北條の家臣・佐久間清左衛門より守口漬を一桶戴く。
(当時より守口漬は河内の名物だったようである)

 七月二日
「中和門院十七年之御忌御正之月也。」
(中和門院の十七年の正月命日。中和門院は後水尾天皇の母で、後陽成天皇の女御。近衛の娘の前子。和尚の母・寿光院は前久の姪にあたる。しかし、この時代の女性は名が付けられていないのか記録や系図を見るととだけ書かれている事が多い。武家などは院号(戒名)しか判らない。高貴な公家などの娘には名が与えられていたようであるが、それも父からの一字を取って付けられている。この場合も、サキコかゼンシと読むようである)

正保四年(一六四五)
 五月八日

「嵩陽寺殿秀山大居士例年経詠。今年至大坂陣、三十三年也。内大臣秀頼公三十三遠忌也。今年牌前盛物十六ケ也。
(大坂ノ陣から三十三年。豊臣秀頼の三十三回忌の供養を行っている。公家多数と狩野探幽も列席している)

 十一月八日
「自芳春院、能登干瓢一折十把被恵也。名物也。白玉椿一輪是叉被恵之也。」
(紫野・大徳寺の加賀藩所縁の塔頭・芳春院の二世である玉舟宗番から、能登名物の干瓢と椿の贈答品。宗番は慶安三年二月には大徳寺の住持となる)

 十二月二日
「今日、於大徳寺延壽堂、有切腹之者也。長岡三齋公之者、三齋公之追腹也。三齋公大祥忌也。浮津彌五左衛門云仁也。」
(細川忠興の三回忌に、家臣だった者が墓前で殉死したようである。寛文三年(一六六三)に武家諸法度により殉死は禁止されたが、その後も見られたので、天和三年(一六八三)には完全に禁止された)

慶安元年(一六四六)
 四月五日

「池田新太郎殿金閣為見物、當山來過之由、為案内者、出宗閑也。」
(新太郎は備中・岡山藩主・池田光政の事である。和尚の姪(安政・光寿院の娘)が備中・松山藩主・池田長泰の後室だった)

慶安二年(一六四七)
 正月二十八日

「江戸北袋・市袋・桑山修理太夫殿江遺書状、江間紹以所迄遺之也。如例年、年玉共遺之。」
(姪やその子への例年の新年の挨拶とお年玉を江間に持たせている)

慶安三年(一六四八)
 十一月二十九日

「自江戸、書状來、如例年、従北条隋光院、綿子、従毛利清光院、絹一疋幷白綿子百目被恵之也。」
(安政と光寿院の娘で、北条氏宗の母と毛利高直の母から贈り物があった様子。どちらの名も判明していなかったが、今回初めて院号を知る事ができた)

 十二月十日
「河村源介相尋。扇子二本入箱恵之。予相対。以錐亦被出、被逢、吸物浮盃也。源介今者浅野内匠頭殿之内奉公仕之由也。先年佐久間日向守小性也。」
(佐久間日向守とは飯山二代藩主の安長。三五郎安次の父である。安長は寛永九年四月に二十二歳で亡くなっている。その小姓をしていた源介は、播州赤穂藩の浅野内匠頭長直に再仕官したようである。寛文元年(一六六一)の赤穂城築城の折りの奉行に、その名が見られる。この後に、三代藩主の長矩が江戸城内・松ノ廊下で刃傷事件を起こすのである。以錐とは相国寺の住持・)

慶安四年(一六四九)
 正月十日

「今日英春院殿光月如心大禅尼五十年忌也。予娣、号御才也。」
(和尚の妹との注記であるが年代的に合わない。他の呼び方のである正親町三条室の五十回忌の日であろう)

 六月二十四日
「江戸着。北条久太郎殿、乗馬侍共々高井戸迄來。自戸塚四郎左衛門先鋒遺江戸。久太郎家老・寄船越外記長屋、至久太郎屋敷。有随光院振舞。」
(和尚たちが江戸に着いたようである。河内狭山藩主・北条氏宗の江戸屋敷に泊まり、姪たちの振舞いを受けたようである)

 十二月八日
「晴雲院殿儀同三司贈内相府孤月西圓之五十年忌正當也。」
(和尚の父、勧修寺晴豊五十年目の命日。我が家の菩提寺である近江高島・の戒名は、晴雲院殿義同三司孤月西円大居士となっている。
三司とは、で左・右・太政大臣のことを表す。義(儀)同でそれに次ぐ位の高い地位を表し、内相府は内大臣の事である。晴豊は亡くなった後に内大臣になったそうなので、幡岳寺のものは、贈内相府が付いていないので亡くなってすぐの戒名なのだろう。晴豊の死は慶長七年で内大臣の位が贈られたのが慶長十九年である。唐名とは中国での官職の呼び方である)

承応二年(一六五三)
 二月二十三日

「今朝招板倉周防守殿之内家老渡部十右衛門尉・大須賀九左衛門尉・金子十郎左衛門尉、而出茶之湯、而振舞也。」
(和尚の日記に度々出て来るのが、当時、京都所司代をしていた板倉周防守重宗。その家臣たちを招いたようである。重宗とは公私共に親しく付き合いがあったようであるが、飯山藩主だった佐久間安政の兄にあたる盛政家の名跡を継いだと多くの史料に書かれている佐久間重行を食客として迎え、尾張藩に推挙したのも重宗であった。重行は盛政の妻の兄か弟にあたる奥山重昭の子・重成(虎姫従兄弟)の子である清兵衛だと史料に残る。重宗に対する承章や光寿院の尽力があったのではないだろうかと推測する。重宗は寛永十四年十一月に弟・重昌を島原ノ乱で亡くしている)

 六月二十三日
「未之上刻、禁中悉炎上也。驚嘆、而登山上、見也。而一刻之中、一宇之御殿亦不殘、炎上、四方築地・御門一時焼滅也。仙洞江進上仕菓子見合、伺候也。」
(内裏が大火災に遭った。三種神器は内裏の文庫に移され類焼を免れたようである。台所から出火したそうである。後天皇は仙洞御所に行幸しており、和尚がそこへ菓子を献上したのである。後光明天皇は後陽成天皇の第四王子。翌年の九月に痘瘡のため、ニ十二歳の若さで御崩御される)

 十月朔日
「木一折七十小原左近右衛門江令音信、遺状也。保科肥後守殿之内之者也。此前佐久間三五郎内之侍也。」
(小原は会津藩士のようであるが、飯山藩改易後に仕官したのであろう。和尚の口利きでもあったのであろうか。飯山藩の家老や、飛び地の近江・高島の代官に、佐久間氏親族の小原氏がいるが、その一族に小原左近右衛門久勝という人物がいる。滋賀県高島市今津におられる小原氏の御子孫の系図に、奥州会津・松平肥後守殿に仕えたと書いてあるので正にこの人物であろう。木さはしとは木目の箸(橒箸)の事でなかろうか)

明暦二年(一六五六)
 六月二十日

「久留嶋市兵衛今晩來訊也。市兵衛上洛者生來初而之事也。跡目被仰付、當年豊後國森云在所江之入部也。」
(久留嶋市兵衛とは久留島信濃守通清。豊後の所領初入部の途中に和尚の所へ寄ったようである。父は通春、母は佐久間安政と光寿院の娘である。豊後森藩三代藩主。和尚の姪の子)

 十二月十八日
「金森宗和老十五日之由、昨晩聞之也。」
(茶人で武家の金森重近の死。茶道宗和流の始祖。和尚が大変親しくしていた人物で、鹿苑寺にはその遺物が多く残る)

明暦四年(一六五八)
 四月七日

「佐久間左近右衛門初而來于當山、赴賀茂刻、於馬場、而初而相対也。扇三本入恵之也。佐久間九郎兵衛息、佐久間清左衛門婿也。毛利伊勢守者也。」
(佐久間左近右衛門は豊後藩主・毛利高直の家臣。和尚と初対面で、三本の扇を手土産に持って来たようである。飯山藩所縁の一族同士の婚姻関係のようである)

万治三年(一六六〇)
 正月四日

「相国寺方丈歳旦法、近年今日勤修。於菓子屋虎屋、而内々申付也。」
(相国寺での元旦祭祀が終わる。その祝いにお菓子や虎屋の饅頭を注文したようである。今も洋羹で有名な虎屋である)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 
    頁数五〇〇〇に及ぶ日記『隔冥記』で、その内容には実に細かく当時の様子が書かれていた。鳳林承章の飾らぬ性格から来る身分を問わない人脈の広さにも驚く。
その中でも、実家である勧修寺家との繋がりを大切にしている様子がはっきりと判った。姉である光寿院や嫁ぎ先の飯山佐久間家、それから広がった姪達やその息子達との交流、その過程で多くの佐久間姓の家臣も判明した。それらは今後の佐久間一族研究の大きな課題となったのは間違いない。

参考文献
『隔冥記』鹿苑寺本
『隔冥記』思文閣出版本
『家光大奥・中の丸の生涯』遠藤和子著(小石川ユニット)
『新訂寛政重修諸家譜』(続群諸類従完成会)
『尾張群書系図部集・上』(続群書類従完成会)
『信濃佐々礼石・中』橘鎮兄著(會真堂)
『飯山町誌』(飯山市公民館)
『系図纂要』(名著出版)
『勧修寺系図』
『公家諸家系図』
『宮廷公家系図集覧』(東京堂出版)
『佐久間家法名』(広岳院過去帳)
『佐久間・柴田家法名』(幡岳寺過去帳)
『吉井藩領主系譜』小林外記良昌著(群馬県吉井町郷土資料館)
『飯綱の地を開いた‘殿様’佐久間兄弟と長沼藩・飯山藩』(いいづな歴史ふれあい館特別展図録)
拙稿「初代金沢城主・佐久間盛政の系譜」(同人誌「櫻坂」十四号)

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■レファレンス協同データベースを楽しむ

2023-04-30 06:35:24 | 先祖附

 今日は「図書館記念日」なのだそうだが、熊本県立図書館のサイトを見ると特段催し物があるようでもない。
処で・・・コロナが流行し図書館が休館していたころ、レファレンスしてみようと思いメールを入れたことがあるが、その当時はレファレンス自体を受け付けていなかった。
熊本県立図書館関係のレファレンスは「レファレンス協同データベース」にその Q&A が掲載されている。
その数593件に及ぶが、これを眺めてみるといろんな方々の疑問が多岐に亘り、その解答をみると回答の為に検索された資料が数十点に及ぶような事例が見受けられ、司書の方々のご努力のほどがうかがえる。
コロナで受け付けてもらえなかった件を、もう一度尋ねてみようかと思案している。
皆様も気楽に申し込みされてはいかがですか。他県の事例はその地区の図書館に申し込みすればよく、楽しいものですよ。

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■大日本近世史料・細川家史料「忠興文書-元和元年」を読む (3)

2023-04-29 09:41:01 | 先祖附

忠興文書-元和元年 (慶長廿年)7月13日元和改元

 (6月6日、忠興二男興秋、父ノ命にゟ自刃ス)

101、(慶長廿年)閏六月七日書状
 ・不干の茶入れのこと
 ・忠利家康ニ謁ス、珎重候事
 ・此状いや(吉田兼治室)へ可被届候

102、(慶長廿年)閏六月廿五日書状
 ・家康へノ進物、金地院へ示、上州披露被申候様ニ可被仕候
 ・秀忠ヘノ進物、土井大炊・佐渡殿へ申遣候間、その意披露被仕候様可被仕候
 ・河内飯森ニテ油断アリシ諸大名ノ糾明
 ・小笠原忠政(忠真)ノ容態ヲ問フ
 ・大和口合戦ニツキ伊達政宗辨疏スト風説
 ・筑紫広門秀忠ニ謁ス
 ・金森可重ノ遺蹟相続
 ・伊東長次ノ訊問

103、(慶長廿年)閏六月廿九日書状
 ・秀忠(7月19日伏見着)、家康(8月4日京都着)下向の期日
 ・諸国城割ノ觸状到来門司城(沼田延元預かり)ヲ破却ス    参考:近世初期における諸国城割と地域社会―藩政成立史序説―
 ・中津城ハ土井利勝ト談合次第タルベシ                      永青文庫研究 5 1-25, 2022 
 
・幕府城割ノ方針
 ・武家諸法度ノ發布
 ・大政大臣ニナルヨリモ(??)帰国ノ賜暇ヲ望ム
 ・筑紫広門ノ召抱ハ辞退スベシ

 7月13日元和改元)

104、七月廿六日書状
 ・小笠原秀政・忠脩父子ノ葬儀ノ日取ヲ聞キタシ
 ・日本国中普請十年御免ノ報

105、八月十六日書状
 ・槻木ノ一番鷹給候
 ・田中忠政帰路小倉ヲ過ル              大坂夏の陣に遅参、七年間の江戸滞留を命じられている。
 ・八月四日家康駿府帰還ノ為京都ヲ發ス

106、九月廿九日書状
 ・蜂須賀至鎮ヨリ鷂(はいたか)を贈ラル

107、十月二日書状
 ・平野長泰ノ状受取
 ・秀忠旗本諸士ノ大坂役ノ戦状ヲ糾明ス
 ・光壽院ノ為、人ヲ下ス
 ・東へ越年、知申間敷こと
 ・城昌茂改易

108、十二月三日書状
 ・十一月廿八日吉田(京)ニ著

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■大日本近世史料・細川家史料「忠興文書-元和元年」を読む (2)

2023-04-28 06:54:32 | 先祖附

忠興文書-元和元年(慶長廿年)

91、(慶長廿年)四月十七日書状
 ・苺初物ノ礼

 ・本多正純ヨリ出陣用意ヲシテ指図ヲ待ツベシトノ指令アリ

(4月21日秀忠二条城に到着し、翌22日家康・秀忠は本多正信父子、土井利勝、藤堂高虎らと軍議。この時の徳川方の戦力は約15万5千。
 家康はこの軍勢を二手にわけ、河内路及び大和路から大坂に向かわせる)

92、(慶長廿年)四月廿五日書状
 ・幕府ヨリ大坂参陣ノ指令来タル
 ・国中ノ舟ヲ小倉ニ集ム
 ・五十挺立ノ乗舟ヲ忠利ニ貸ス

93、(慶長廿年)四月廿五日書状
 ・水夫少キタメ惣勢陸路出立ヲ命ズ
 ・忠興ハ少人数ニテ海路上坂セン
 ・忠利ハ長府近辺ニ陣取ル予定ニテ出立スベシ

94、(慶長廿年)四月廿六日書状
 ・小笠原秀政・津田秀政ゟ書状届クモ、返事遣間敷候事
 ・忠利小倉へ被越、陸路罷上候様ニと指令
 ・忠興来廿九日・晦日之内ニ出船
 

(豊臣方、4月26日に(郡山城の戦い)、28日には徳川方の兵站基地である(堺焼き討ち) 29日には一揆勢と協力しての紀州攻め(樫井の戦い)。
 5月6日まで堺攻防戦を行った。)

95、(慶長廿年)五月五日書状
 ・忠興三日兵庫ニ著ス
 ・家康ハ牧方ニ秀忠ハ飯森下ニ陣ス、淀ニテ家康ニ謁見ス・家康ノ信頼忝儀ニ候事
 ・大坂方強勢或ハ味方謀叛ノ噂モ真実ナラン
 ・家康、忠興ヲ側近ニ居ラシム
 ・忠利ハ西宮尼崎附近ニ着陣シテ後命ヲ待ッベシ
 ・大坂方ヨリ茶臼山平野マデ兵ヲ出ス
 ・大坂方ノ兵一揆ト共ニ岸和田大和郡山邊ヲ焼ク
 ・京都放火ノ陰謀者捕ハル
 ・丹波摂津ノ一揆ノ鎮壓
(5月6日、道明寺・誉田合戦八尾・若江の戦い

96、(慶長廿年)五月七日書状 大坂城落城、豊臣秀頼・淀殿自殺
 ・昨六日、飯守下にて合戦、木村重成後藤基次薄田兼相等戦死
 ・七日ノ戦況、今日合戦度々之せり合中々推量之外、本多忠朝戦死、小笠原秀政手負(後死去)
 ・細川勢、鎗突き候者、一番七助・二番縫殿・佐藤傳右衛門・薮三左衛門・佐方與左衛門・吉住半四郎・續孫介
 ・其後大崩れ、松井右近一人取テ返シ、甲首一ッ
 ・七助(清田石見)鑓之鋒を突曲申候
 ・細川勢ノ挙ゲタル首級、貮ッ亀介・主水及び主水内之者、壹ッ賀賀山半兵衛・朽木與五郎
 ・大阪城天守焼亡シ秀頼等自殺ス 一時之内ニ天下泰平ニ成候事
 ・此状草臥さる飛脚ニ持せ豊前へ下し可被申候

(5月7日、天王寺・岡山の戦い  
 同7日申の刻(午後四時頃)に治長は家臣を使者として遣わし、千姫を脱出させた上で自身以下が切腹する替わりに秀
 頼・淀殿の助命嘆願を行う。

(5月8日、秀忠上記申し入れを却下、秀頼に切腹を命ず。秀頼らが籠もる山里丸にある蔵を包囲した井伊直孝勢が午の刻(午前十二時頃)に鉄砲を
 放つことでこれを伝えた。これにより秀頼ら三十二人は自害をし、後に蔵内から火が挙がった=ウイキペディア)

97、(慶長廿年)五月八日書状 
 ・大坂落城ニツキ軍勢ハ引返シ忠利ハ上洛スベシ

98、(慶長廿年)五月八日書状 
 ・花熊近辺ニ到着セバ急報スベシ

99、(慶長廿年)五月十日書状 
 ・忠興大坂ヨリ尼崎へ渡リ京都ニ上ル

100、(慶長廿年)五月十四日書状 
 ・(忠利岳父)小笠原秀政・忠脩父子戦死、伏見ノ内竹田邊之寺ニ御入候
 ・忠利ハ伏見ニテ秀忠ニ謁スヘシ

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■街角の風景ーかあかあカラスの勘三郎

2023-04-23 07:39:48 | 先祖附

 最近健軍自衛隊の森の中にねぐらを持つと思われるカラスの勘三郎達が朝から大騒ぎしている。
我が家から西部方面総監部の敷地は、至近距離で400mほどの距離だから、一斉に飛び立つと我が家の周辺の空には数十羽の勘三郎が飛び交っている。
面白いのは皆が殆どと言っていいように一方方向を向いていることだ。
ワイドにしてみた写真には屋根の上やアンテナに10羽ほど、飛翔中が2羽ほどだが、こんなものではない。
そしてうるさい事半端ない。これが昼頃になるといなくなり、翌朝はまた騒ぎ立てるという繰り返しが三日ほど続いた。「何事ニ哉あらむ」である。

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■隆達節と共産党さん

2023-04-21 06:58:45 | 先祖附

 現在慶長期の出来事を年表風にまとめている中、ただ一度幽齋公が豊前を訪ねている事を書き忘れていることに気付いた。
その時薩摩の島津義久が訪れていて、義久が一重切りの名人だという事で隆達節を家臣にうたわせ披露させている。
「然らば所望にまかすべしといって、召しつれた家老・島津下野に、りゅうたつ節という小唄を謡わせ、一重切を吹かれた」と護貞さま著の「細川幽齋」に記されている。

そんなことを考える中、以前web上で見つけた「君が代」に関する一文をブックマークしていることを思い出して開いてみた。
「君が代」ルーツは堺の寺院に?顕本寺の僧創作の隆達節というものだが、何故か発信元は JCP OSAKA 日本共産党大阪委員会となっている。
何故、共産党が取り上げているかだが、ここにある通り君が代の歌詞はこの隆達節から来ているとされる。
これは御説の通りである。「隆達節歌謡全集・本文」というサイトがあるが、ここでは膨大な隆達節の歌詞が紹介されている中に「135」にその歌詞が登場する。
隆達節とは、文禄慶長期から元禄の頃まで大いに流行したようだが、大坂堺の顕本寺の僧・隆達が創始したものだとされる。
歌詞が大変洒脱で大いに流行していたことだろうと思われるが、幽齋が豊前を訪ねた慶長六年という時期と合致する。
これを義久が一重切を吹き、薩摩の家臣が隆達節を披露したというから、その程が伺える。誰かが併せて歌ったかもしれず席は大いににぎわったであろう。
顕本寺は薩摩藩との関係が深く「薩摩寺」とも呼ばれ、隆達節は薩摩武士によって花街などに流布広がったのであろう。
少々話がずれたが、君が代の歌詞を隆達が書いたと言われる屏風がボストン美術館にあることが判り、返却を求めたが断られ、現在は複製が顕本寺に存在するという。
君が代の歌詞は、薩摩藩の大山巌がこの隆達節の「135」を推薦したという事になる。
共産党さんの主張は、色街で酒の席で詠われていたものを、厳粛な国家として使うのは筋違いだというのだろう。
521にも及ぶ歌詞をみていると、これなら流行したはずだと思わずにはいられない。
但し、メロディー(?)は失われたと聞くがこれは誠に残念である。鶴崎の御舟歌も同様で残念の極みである。

  参考:「君が代」生誕の地を訪ねて

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■大日本近世史料・細川家史料「忠興文書-慶長十六年~十八年」を読む

2023-04-20 07:01:12 | 先祖附

忠興文書-慶長十六年
 (二月小倉に幽齋君御墓所建立、瑞雲山泰勝院と被号候)
 (忠興文書-慶長十年 40、三月三日書状」内容以下のこの書状については綿考輯録では慶長十六年のこととしている・・忠興公‐上、p455)
  ・三日兵庫に到着、明日大阪に着、五日秀頼に謁見の予定、六日に出発して吉田(京都)へ)

 45、三月十六日書状
  ・忠利の徒士を本多正純の使いの如くして書状を届けられたい
  ・未だ上洛せざる衆への書状は留守居に預け受取と取る事

 (三月十七日、家康公御入洛、忠興君此比御所労ニ付、忠利君御迎として伏見辺迄御出候・・以下四月十八日書状へ)
 (三月廿七日御譲位、秀頼公御上洛家康公御対面、加藤清正・浅野幸長御供)
 (四月十二日、後水尾院御退位)
 (四月十八日、家康京都御發駕、万病圓を拝領す)

 46、四月十八日書状
  ・秀忠より本多正純をもって「万病圓」を拝領する、夜分であったため御礼を申し上げていない
   山科で正純に遭ったら御礼申し上げてほしい
  ・蜂須賀至鎮(忠利相婿)はいつ来訪されるか時刻を知りたい
 47、 同日  書状
  ・蜂須賀至鎮の御捻拝見、四つ過ぎに御出候様

 48、(四月)廿一日書状
  ・忠興建仁寺に在り、平野長泰・谷衛友に帰国の暇乞い
 
 (五月忠興下國、忠利これに先立ち下國)
 (六月廿四日、加藤清正死去)

 49、七月四日書状
  ・鮎一籠・高麗胡桃一折到来の礼

 50、九月廿日書状
  ・忠興、蜂須賀至鎮より贈与の鷂三つを忠利に預ける 生育を依頼す

 51、十二月六日書状
  ・忠利目を患う
  ・鴨のしろ川狩りの事
  ・十月八日、藤堂高虎が幕命により(加藤清正死去後の)肥後へ下り途中小倉へ立ち寄る

 (この年、長岡主膳信友(織田信雄二男・薮内匠聟・竜王城主・後高長と改名、従四位下侍従)御家を被立退
 (この年、幽齋室光壽院證人として江戸へ御出、長岡右馬介重政は豊前へ帰国)
 
 52、(慶長十六年頃ヵ)十二月七日書状
  ・注文の寝具が到来した、礼状

忠興書状‐慶長十七年

 (正月廿三日、松井康之於小倉卒、63歳)
 53、九月廿五日書状
  ・見舞いに雲雀200到来の礼
  ・一両日中に下國予定(京都在?)

忠興書状‐慶長十八年

 54、(慶長十八年頃ヵ)四月廿四日書状
  ・大学(?)ニ遣候脇差三、一・親父、ニ・惣領、三・舎弟に配分
  ・同上二番目の子息にもわきざし可然候
  ・同上鵜殿氏長の指図次第のこと
  ・土井利勝忠興の為に懇ろのことを満足す

 55、(慶長十八年頃ヵ)五月五日書状
  ・忠利のため伊藤金左衛門上る
  ・巣鷹を所望す
  ・良馬を買いたい、金は鵜殿氏長より借用すべし

  (六月十八日、忠興叔父、大徳寺僧・玉甫紹琮遷化68歳)

 56、十一月六日書状
  ・石川康長の改易は是非もない、小笠原秀政の移封大変結構なること
  ・津田秀政の折紙請取候

 57、十一月廿三日書状
  ・故松井康之代官所豊後速水郡の幕府領の三洋については本多正純と談合済のこと
  ・わなで取り候鶴拝領、見事で一入満足
  ・忠興来廿八日江戸参勤出発のため出船
  ・青鷺取りの隼を送る

  (十二月、耶蘇宗門堅禁止之旨被仰出)

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■鳩野宗巴の西南の役観察‐外叔の死を想う

2023-04-19 06:53:36 | 先祖附

             

 鳩野宗巴の生母の弟・八木明義死去の報に接しての漢詩である。

                外叔八木明義高瀬に戦死せしを哭す                      

          平成世に臨み気は□雄
        豈に計らんや今朝の事
        すでに空し高瀬川の砂
        明るきこと玉に似たり
        中でも差がうのは一死其の身の潔さ

さて□部の文字だが「職」であろうと思われるが、意味が通じないように思える。ひょっとしたら「誠」か?しがし「言偏」とも思えず、編者も□表示されたようだ。

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■大日本近世史料・細川家史料「忠興文書-慶長九年」を読む

2023-04-13 09:11:03 | 先祖附

忠興文書-慶長九年

 35、二月九日書状
  ・弟・玄蕃(興元)の返事の趣承知した
  ・白鳥のこと?
  ・石川康長に志津の刀を贈った、満足の様子で何より
  ・南蛮の笛(所望の様子に付)則進上する
  ・仲間の交代については、隼人・左馬允から申す
  ・家康の上洛は三月まで延引となったので、御見廻を指し下した
  ・諸大名江戸に屋敷を拝領する、六・七番目に申し請ける

 36、(二月・三月の頃か?)書状
  ・屋敷のことは土肥利勝の意向次第にすべし、当方よりは何方とは申し上げない
  
 37、五月十二日書状
  ・伏見にて家康に謁見し四月半ばに下國した、
  ・稲富一夢(元・細川家臣)のこと、詳細不明 (稲富はガラシャ夫人自害後細川家を逃亡している。執り成しについてのことか)
  ・徳川秀忠が近日馬揃えを為される由、その道具について一つ書を送る
  ・江戸屋敷の家屋の切り込みを大阪で行い江戸へ送る
  ・豊前の方は別儀ないから安心せよ
  ・信長馬揃の時の評判について・・たしなみが肝要である

 38、六月十六日書状
  ・江戸屋敷普請の奉行を江戸へ遣わす
  ・去る月の十日頃より患ったが、早本復した、周りの者が事々しく伝えるかもしれないので自筆にて認める

 39、七月五日書状
  ・病は快方に向かっている
  ・差し上げられし馬の礼

            (以降慶長六年の書状はなし)

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■鳩野宗巴の西南の役観察‐三岳朝雪

2023-04-12 16:44:06 | 先祖附

                               

          三岳朝雪

         砲聲響□□      砲聲の響き□□        砲声の響き途絶えて(日が暮れて)
         魂魄幾□空      魂魄幾□空          戦死者の魂が空に(沢山さまよう)
         早起開窓望      早く起き窓を開き望めば    朝早く起きては度を開き三の岳を望めば
         岳陽雪□紅      岳の陽は雪□紅        雪を抱いた三の岳を朝日が赤く染めている

 三の岳とは、熊本市と玉名市天水町の境に位置し、熊本市の山としては二の岳(685m)に次ぐ二番目の高さ(682m)を有する。
山裾に西南の役の激戦地が広がり、吉次峠は地獄峠とも言われ多くの戦死者が出たことで知られる。
編者の福田小波氏は原本の欠落に悩まれながらも、訳に挑まれたが、まさにその通りであろう。感謝

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■「陽明学徒追放」に非ず

2023-04-11 06:53:21 | 先祖附

 寛文九年十月六日、北嶋三立(雪山)や小姓頭・朝山次郎左衛門をはじめとして十九名の者が御暇を出された。
異教といわれた「陽明学」を信奉していた人々が追放された。
その中にガラシャ夫人に殉職した小笠原少斎の孫、小笠原家二代の民部長光の三男・勘助(長義)が含まれる。
私はずっとこの人も「陽明学徒」であると思い込んできた。
同日付「肥後藩御奉行所日帳」には主に「陽明学徒」を主としているが、併せて切支丹宗門の為や、役向きの失策、不行跡の者も含まれていたという。その仕分けはよく判らないできたが、小笠原勘助については、堀内伝右衛門の著「旦夕覺書‐月」が真実を教えてくれた。伝右衛門の父は「慮外者」と呼ぶ。どうやら不行跡の人物だったようだ。
 

   一、小笠原勘助と申す五百石被下いか様島原の時は榊原飛騨殿手にて働たる様に承及ひ候 御側筒十五挺同
     名文左衛門同役にて御家中一番の口聞興津才右衛門よりは上と申候 老父なとは慮外者と文左衛門咄被
     申候事覺申候 江戸にて讃岐守様御初駕の刻晝の御休にて御使者勤申筈の處に休息仕居申下々も臥寝忘
     れ肝つふし御一宿へ参候て勤申御廣間に直に罷出申箇様/\と少も遠慮なく罷出申上候 小屋に歸り相
     役の誰そ頼候て箇様/\とて遠慮仕候はゝ御暇被下候様には有之間敷物と何も申候 拙者初江戸にて能
     覺申候 箇様の御使者はいか成る不調法者も勤申事に候 平生は口聞發明にて人を何とも不存神佛なとは
     不及申上天の恐れなと夢にも見ぬ男にて隈本にて御暇被下候 その後拙者京都に御茶つほ取に参候て朝
     山次郎左衛門牢人被致佐賀(嵯峨カ)に被居候 老父は朝山齋寄親の様に被存養子にて候故拙者に寄候
     て無事なる様子承候得と被申候 拙者に勘助申候は偖々久々にて得御意候先心得に成候事咄可申候 御使
     に桑名抔通り候刻家来にても手討仕間敷候 此比紀州様御家来何某と申仁早使に通候刻桑名にて家来手
     討に仕候 宿主即刻松平越中守殿へ申候へは御留置にて紀州へ被仰遣候て御家来まきれ無之との家老共
     ゟ使者参りて通申候 右の使者早打の由断申候へとも國法にて御座候由勘助も初て承候 拙者も存ましき
     由にて咄被申候 勘助被申候は私儀は如御存うつけを盡し如斯仕合にて候随分/\御奉公可被御精出候
     拙者は紀州に縁御座候て久敷逗留仕関東にも隙にて居候へは松島迄見物に参申候て方々承申候 熊本の
     様成る所は無御座候 御家柄と申随分勤候へと被申候 山名十左衛門殿も御親父以来別て今の田中又助も
     初江戸の刻桑名とかにて咄申由今の又助三歳の時御暇申たる由今又助咄被申候 牢人仕思ひ知り可申候
     右の仕合假初にも輕き事にても御奉公實に心得候はゝ寝入可申様なく候得共誰も勤る事とおろそかに
     存不實にて天罰蒙り候と存候

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