詩集なんぞを開いてみる気になった
のは、深まりゆく秋のせいか。
ご存じ中原中也の詩である。
『山羊の歌』所収
「汚れっちまった悲しみに……」より
汚れっちまった悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れっちまった悲しみに
今日も風さえ吹きすぎる
汚れっちまった悲しみは
たとへば狐の皮裘(かはぶくろ)
汚れっちまった悲しみは
小雪のかかってちぢこまる
汚れっちまった悲しみは
なにのぞむなくねがふなく
汚れっちまった悲しみは
倦怠(けだい)のうちに
死を夢む
汚れっちまった悲しみに
いたいたしくも
怖気(おぢけ)づき
汚れっちまった悲しみに
なすところもなく日は暮れる
……
中原中也(明治40~昭和12)
わずか30歳で逝去。
15歳から詩作をはじめ、早熟で
感受性のつよい子だった。
さて、
上の詩の「汚れっちまった悲しみ」
とは何を示すのでしょう。
17歳で同棲した女優の長谷川靖子
に去られ、
(しかも、彼女は中也の友達の小林
秀雄のところに走った)
口惜しさや傷心もあったであろうが、
そんな個別のことをいっているので
はないと思う。
おそらく、そういった失恋をも含め
た中也自身の内にうずく、
「生」の悲しみをいっているのでは
ないだろうか。
私の手もとにある資料には、
「過剰な自意識による生の倦怠の情」
とある。