唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

大坂坊主BAR staff日誌 (3)

2015-01-17 22:56:16 | 大坂坊主BAR staff 日誌

 昨日は職場からチャリ走行で坊主BARに向かいました。途中中崎町商店街に店を構えておられるラーメン店の伊吹さんにお邪魔しました。ベースのスープは香川県観音寺特産の伊吹島いりこをふんだんにに使用したアッサリ系です。麺もこしが有ってさすが四国の麺という感じでした。トッピングの鳴門わかめも美味しかったです。腹ごしらえも済ませていざ出陣。
 世間のイメージでは、坊主BARというと何か怪しいと云う雰囲気があるようですが、中身はとっても真面目に仏道を求め、仏教を世の中に知ってもらいたいと云う願いに生きておられる僧侶方の節なる思いに依って成り立っている場であります。真面目に相談されるお客様、或はひやかしで、僧侶の能力を試そうとされるお客様等々様々ですが、僕は昨日心を打たれた質問は、震災で亡くなって逝かれた人のことをどう考えたらいいのかということでした。ある日突然、なんの前触れもなく襲ってきた地震と津波によって多くの人たちが犠牲になられた。生まれてこのかた真面目に生きてきた、それがこの結果か、どうにも考えようがない。この事実をどのように受け止めたらいいのか私にはわからない、ということでした。理からいうと、何が起こっても不思議ではない世界を生きています。無常です。これを受け止めることが出来ないのですね。他の人の死と見た時には、自分とつながりを持ちませんから悲惨な出来事として処理してしまいます。私は大阪に住んでいますから震災とはほど遠いわけです。気持からすれば不謹慎かもしれませんが、お気の毒にとしかいいようがないのです。裏返せば、自分の災難でなくてよかったと安堵しています。こんな気持で何故亡くなって逝かれたのか問うことができるでしょうか。私は問うことの不謹慎さを思わずにはいられません。
 他の人の死、命あるものの死は私とは無関係なのでしょうか。お前はどう思っているのかという切っ先がのど元に迫ってきたように感じました。自分はそのような状況の中で後悔のない生き方をしているのか、生死を時間の隔ての中で、死は彼方のことであり、今は生を謳歌するとう姿勢でいるのではないのか。亡くなっていかれた尊き命は、「貴方は今死して悔いのない生き方をしておられますか」と、私達の死を無駄にしないでほしい、私達の無念を受けとめていただきたい。何が起っても不思議ではない世界で、死して悔いがない今を生きていただきたいという心の叫びを私は聞くことができるのか。根源的な問いとして、お客様の素朴な質問から感じました。生きるということは真剣勝負なんですね。


 月曜日は『成唯識論講義』です。初能変・所縁行相門に入ります。八尾市本町二丁目聞成坊様にて午後三時からです。