唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

初能変 第二 所縁行相門 所縁について(2) 処 (2)

2015-01-04 14:14:14 | 初能変 第二 所縁行相門
 
 器世間の説明の中で、器とは四大、地水火風、これは「外の大種」この四大が組み合わさってできているのが所造色。これは共通したものである。器世間は普通は外に在ると思っているのですが、そうではないというのですね。共相、不共相の種子から生まれてきたものである。自分の心の中から生まれ出てきたもの、これが器世間なんですね。
 外の器世間は共相の種子から生まれてきたもの。内の有根身は不共相から生まれてきたもの、といえます。
 
 共相・不共相については
 「且く諸の種子に総じて二種あり。一には是れ共相、二つには不共相なり。何者をか共相と為す、多人の感ずる所なるが故に。(多くの人が共通して感じるところである)人々の所変各別なるを名づけて唯識と為すと知ると雖も、然るに相似は共に受用する義なるを以て説いて共相と名づく。・・・山河等の如し。
 不共相とは若し唯識の理を以て云はば、唯自心が変ぜるを以て不共の物と名づく、一切皆是れなり。・・・
 然るに諸教に依って云はば、共不共の中に総じて分かって四と為す、且らく瑜伽六十六巻の如し。共の中に二あり、一には共中の共、山河の如し。・・・二には共中の不共なり。己が田宅・・・房衣等・・・
 不共相の中に亦二種あり。一には不共中の不共なり、眼等の根の如き、唯自識のみ依用し、他は依用するものに非ざるが故に(自の眼等の勝義根)。二には不共中の共、自の扶塵根の如き多も亦受用するが故に。」(『述記』第三本・五十八右)

 不共相とは、一人一人の体験、経験ですね。一人一人異なります。私たちは共通する種子と、共通しない種子の二つの以て対境(環境世界)をみているのです。
 共相・不共相、それが四つに分けて説明されているのです。共相の共とは、山河大地だと。しかし、共通するものの中でも、共通しないものがある、それは自分の所有物です。自分の田畑とか、自分の家ですね。同じ共相を見てもですね、自分の所有物となるとちょっと見方が変わってきます。自分の家と他人の家では見方が違うというわけです。此れが共相の中の不共といわれています。
 不共中の共は扶塵根である、これは身体ですね。これは共通性がありません。貴方の苦痛は私の苦痛ではありません、というわけです。私には痛くもかゆくもない。しかし身体は共通しておりますから、共に身体を動かすことが出来る。年末の大掃除を考えますと、それぞれの役割と云うか、辛い、辛くないを除いて、身体を動かして掃除をしている、その姿は共通しているわけですね。しかし、身体の中といっていいのでしょうか。身体を構成する要である根はお一人お一人違います。大きく見て身体は扶塵根、身体の構成要素は勝義根といわれているわけです。眼根乃至身根です。

 明日からは平常通りの仕事に戻ります。今年一年どのような年になるか分かりませんが、このような年にしたいと云う希望は、今何をなすべきかという問いとして与えられたものでありましょう。願生浄土といいますが、浄土に生れるためには何をなすべきなのでしょうか。深い問いを与えられて一歩前へ歩んでいきたいと思います。