唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

初能変 第二 所縁行相門 (13)

2015-01-24 21:29:12 | 初能変 第二 所縁行相門

  友が今日はデーとです。喜ばしい反面羨ましいという一面も有ります。しかし恋が成就するといいなと思います。美味しそうなスイーツ、目で楽しんで御馳走様です。
 昨日の投稿に笹栗様がコメントを寄こしてくださいました。ありがとうございます。何故唯識を学ぶのかの原点は『群朋響命』に書き記しています。よろしければお目通しいただければ有り難いと思います。
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 「諸の種子は謂く異熟識が持する所の一切の有漏法の種なり。此れは識の性に摂めらる。故に是れ所縁なり。」(『論』第二・三十左)
 諸々の種子は異熟識が保てるところのすべての有漏法の種子である。つまり異熟識の所変としての種子であり、これは有漏法の種子になる。何故ならば、阿頼耶識が有漏法であるからである。阿頼耶識の果相が異熟識と云いますが、自相は阿頼耶識で異熟能変識である。この異熟能変識の体は三相(自相・果相・因相)同時の異熟の七地以前におさめ八地以上に通ぜざるものである。阿頼耶識は七地以前までをいうわけです。八地以上仏果までは異熟識。まだ大円鏡智を得ていない位です。ですから有漏の識である。煩悩を断滅していない位です。しかし、業報の果としての身はもっているが、受けた果報を恨むことなく、果報を縁として菩薩道を歩む存在なのです。生まれたのは業果です。異熟因の果、因果関係ですから因縁なんですね。生まれたということは、私が願って生まれたということになりますね。「自の業識」です。そこを転じて仏果を得るということになりましょうかね。僕は、人間が此の世に生を受けたというのは仏になるために生れて来たと思うんです。仏とは、自分が本来の自分に出会えたということだと思います。自らが自らの意志で生まれ、仏に成る道を歩む存在が有情(衆生)という存在である。その過程は有漏であるということですね。有漏を縁とする、有漏を縁とすることなくして仏果は得られないということだと思いますね。体は本識、種子は用きであるわけです。つまり諸の種子は所縁・相分であるということになります。
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