唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

雑感 

2015-01-19 21:58:23 | 雑感
 私たちは言葉を以て事物を概念化し認識し判断していきます。黒板を見たときには黒板と云う言語を介して黒板を認識しています。それ以外に認識する方法はありません。ですから言語の持っている役割は非常に厳しいものがあります。「有る」というと実体化してしまいます。指さす先を観ようとはしません。指に執らわれて物それ自体の本質をしることができないのですね。論書を解釈する上でもなかなか難解なことが起ってきます。本質相分と影像相分についての釈もです。本識が変為した(識所変)器世間の中に相がありますが、この相は第八識所変の相なんです。しかし、私たちは直接この相を認識しているわけではありません。認識は本質相分を縁として第六意識の上に相をみているわけです。第六意識のレンズが本質を実体化している。物そのものは実体化できるものでは無いのですが、私たちは実体化を通して認識するという構造を持っているんですね。これが言語化の厄介なところですし、迷いを生み出す因ともなるところです。今日はこのようなことを教えられました。
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 今日は納期の関係で午前中は仕事にでました。11時に切り上げていったん帰宅。お昼をいただいて八尾までチャリ走行。今日は三時間走りました。徳庵から西堤を経由、楠根川沿いに道標がありました。御厨に入り融通念仏宗の念仏寺・天神社の奈良街道筋を南下しますと、史跡旧植田家です。そこから八尾街道を一路聞成坊様へ。大和川本流の長瀬川が当時の面影を伝えていますが、当時は東西幅200mもあったのですね。そしてこの地に木綿の藍染が根づいたようです。先日は北向き六地蔵さんを紹介させていただきましたが、左右に南無阿弥陀仏と書かれたお地蔵様もいらっしいました。FBタイムラインにも掲載しましたが、今日のブログの一ページとさせてください。m(__)m