以上の説明に由って、有情の所依処は阿頼耶識が所変・所縁であることが明らかになりましたが。誰の第八識が共相を変為するのであるのかという問いが残ります。それに対して護法論師は五箇の難を挙げて自説を述べます。
(1) 凡と為んや、聖と為んや。
(2) 此の趣と為んや、他趣と為んや。
(3) 自界と為んや、他界と為んや。
(4) 自地と為んや、他地と為んや。
(5) 唯自のみ変ずと為んや、他も亦変ずと為んや。
護法菩薩は仮に三つの意見を述べて、最後に自説を述べられます。
第一義の計は
「有義は一切なり。所以は何ん。契経(『立世経』)に説くが如し。一切有情の業増上の力に共に起されたる故に。」(論』第二・二十九左) ある人は云う。一切である。色等の器世間の能変者は、凡と聖との五趣の有情と自他の界と地との有情と自己と外身との一切である、一切を変現しているんだ、と。『立世経』に「一切有情の業増上の力に共に起されたるが故に。」と説かれている。
この計を足掛かりに、問いが出されます。
若し、一切有情が器世間を変為するというならば、三つの障碍があるのではないか。
「有義若し爾らば、諸佛菩薩応に実に此の雑穢土を変為すべし。」(『論』第二・二十九左)
若し、第一計のようであるならば、諸佛菩薩も亦実にこの穢土を変為すると云わなければならない。もしそうであるならば、諸佛菩薩は煩悩に満ち溢れた穢土を変為することになる。それはおかしいことではないのか。しかし、諸佛菩薩は雑穢の種子を久しく断じておられるので、この雑穢土を変為することはないのである。但し、「諸佛菩薩若し化を以て変為すと云うは、我が諱せざる所なり。」この限りではない。諱(イミナ)― はばかってさける、という意
「若し実に変為すと云はば、即ち理と教とに違す。雑穢の種子とは久しく已に亡するが故に。」(『述記』第三本・六十二右)
次はこの逆のことをいっています。
「諸の異生等いい応に実に他方と此の界と諸の浄妙土を変為すべし。」(『論』第二・三十右)
異生とは凡夫の別名です。五趣のなかで生死をくりかえすから異生という。又、聖者と異なるから異生と名づけられる。
他方とは、三千世界の外。他方佛国といわれています、極楽のこと。此の界は、この娑婆世界です。
また、一切の異生、凡夫ですが、実に他方佛国とこの娑婆世界との浄妙の土を変為すると云わなければならない。娑婆世界の浄妙の土とは、お釈迦さま説法された霊鷲山・『大経』は耆闍崛山ですね。『阿弥陀経』は祇樹給孤獨園で、大比丘衆を対告衆として説法されました。或は、祇園精舎ですね、その地を娑婆世界の浄妙の地といっています。この土は有漏の浄土といいますが、しかしながら、このような浄妙のの土を凡夫は変為することはできないのです。但し、佛菩薩の神力を加して変化するものであればこの限りではない、と。(「若し佛菩薩神力に加せられ変化し作す所は我も亦遮する無し。」(『述記』第三本・六十二右))
つづく