1月19日 八尾市本町 聞成坊様に於ける『成唯識論』講義、本年度初講の概略を公開します。又此のコピーをテキストとして使用します。
「今日の問題は、私たちのものを見る見方、ものを考える考え方、そういうものは一つではないということを明らかにしてきます。一人一人が全く別々のものを見、全く別々のことを考え、全く別々の行動を起こしている。共相・不共相という所が今日の課題になります。先ず、概略を示します。
従来、種子の六義と、所熏・能熏の四義の講究がおわりました。次に阿頼耶識の所縁と行相についての講究がなされます。
八段十義でいいますと、八段の第二・所縁行相門となり、十義でいいますと、第四と第五の所縁門・行相門になります。
行相 - 識の自体が所対の境を縁ずる能縁(認識するもの)の作用を云う。心の働きです。
所縁 - 対象、何を対象として働いているのかです。阿頼耶識は何を対象としているのかが説き明かされます。
(所縁門)
「不可知の執受と処と」 - 阿頼耶識の所縁を表わしている。但し、「不可知」は次の「了」という行相門にもかかる。
(行相門)
「了とは謂く了別なり、即ち是れ行相なり。識は了別を以て行相と為すが故に。」(『成唯識論』第二・二十五左)
了別について四分が語られる。阿頼耶の「了」は、四分説によることにおいて明瞭にされます。
行相・所縁を解す。(一) 略解
「此識行相所縁云何。謂不可知執受處了。了謂了別。即是行相。識以了別爲行相故處謂處所。即器世間。是諸有情所依處故。執受有二。謂諸種子及有根身。諸種子者謂諸相名分別習氣。有根身者謂諸色根及根依處。此二皆是識所執受。攝爲自體同安危故。執受及處倶是所縁。阿頼耶識因縁力故自體生時。内變爲種及有根身。外變爲器。即以所變爲自所縁。行相仗之而得起故。」(『成唯識論』巻第二・二十五左。大正31・10a11~a20)
(「この識の行相と所縁云何。謂く不可知の執受と處と了となり。了と云うは了別。即ち是れ行相なり。識は了別を以て行相と為すが故に。處と云うは謂く處所。即ち器世間なり。是れ諸の有情の根依處なるが故に。執受に二有り。謂く諸の種子と及び有根身となり。諸の種子とは、謂く諸の相と名と分別の習気なり。有根身とは、謂く諸の色根と及び根依處となり。此の二は皆是れ識に執受せられ摂して自体と為して安・危を同ずるが故に。執受と及び處とは倶に是れ所縁なり。阿頼耶識は、因と縁との力の故に自体の生ずる時に、内に種と及び有根身とを変為し外に器を変為す。即ち所変を以て自の所縁と為す。行相は之に杖て起こることを得るが故に。」)
この識の行相と所縁はどのようなものか?深い人間の深層心理的一部の働きと、この識が何を対象にして動いているのかという所縁です。それはどういうものか、という問いが出されているのです。
十門分別の中、第四・第五の行相・所縁分別である。「不可知」は、 所縁に約し、行相に約して、不可知を明らかにし、「不可知」は本頌を挙げて答える。「不可知執受處了」(不可知の執受と了となり)という形です。
無意識の領域は、私たちには解らないものである。有るのか・無いのか、それが不可知という概念である。知ることが出来ない、知り様がないことであるが、他の識と同様に了別(ものごとを区別して理解すること)の働きをもって能縁・所縁がある。了別は行相である。「識は了別を以て行相と為す。」 これは識の自体分である。行相とはまた、見分である。「識体転じて二分に似る」という形で働いている。識体は自体分ですね。自体分が転じて見・相二分に開かれるのですが、具体的は働きは見・相二分になるのです。
能縁が了別です。これを行相という言葉で言い表しています。では所縁は何かといいますと、認識対象のことですが、「種・根・器」という。諸の種子と、有根身と器世間、これが所縁である、と。
第八識は、内に種子と有根身(五色根と根依處)を変じ、外には器世間を変じます。器世間が有情の所依處になるわけですね。
種子と有根身は「摂為自体同安危故」(摂して自体と為す。安と危とを同ずるが故に)と言われていますように、執受が有ります。「執受に二有り。謂く諸の種子と及び有根身なり」。器世間には執受はありません、外のものですから執受はなく、處といわれています。
種子と有根身は、第八識の見分がこれを境と為すと共に、自己自身として執受しています。厳密には「阿頼耶識は種子を執持(種子を保持する働き)し、有根身を執受(維持されるもの)する」と説かれています。これが第八識の相分になります。私のものであるというふうに、第八識自身が、つまり阿頼耶識の中に、ものを執着していく、或は保持する働きをもって命を維持している。それによっていろんな経験をしていくのですね。有根身は合聚の義と言われていますように、いろんなものが合わさって体が出来ています。それによって痛かったり、痒かったりですね、そういうことが起ってくる。これが内側の問題ですね。
それともう一つ、外側には器世間ですね。外界の一切、「是諸有情所依處故」(是れ諸の有情の所依處なるが故に)。これは所縁であり、識の相分であるということですね。
「内変」・「外変」の「変」ですが、識所変の変ですね。自体分から二分が出てくる。この二分に依って、我・法を施設する。「由仮説我法」(仮に由って我法と説く)の我・法です。此れに離れて相分・見分はないわけです。ここが自体分・相分・見分の三分説になります。もう少しいきますと四分説が説かれます。そこと関係があるのですね。識所変を以て、自の所縁と為すということになります。相分も見分も識が変じたもの、識体が能変、二分が所変という構図です。所変の見分が能縁になり、相分が所縁になるわけですね。
「変」につきましては、もう一つ「内識転じて外境に似る」という二分説があります。識体が見分であり、能変ですね、境が所変になります。見分が能縁・相分が所縁になります。これが二分説です。二分説・三分説、それに護法菩薩は証自証分を加えて四分説を立てました。この四分説が大事な教説になってくるわけですが、この後にでてまいります。
「一切の諸法に心有り、境有り。行相は是れ識の見分なるが故に、先ず行相を明かす。心に由って境を変ずるを以て、次に所縁を説く。」(『述記』)
本頌は、所縁から述べられていますが、釈する時は、認識の主体から明らかにする、これが本意であるというわけです。
(行相)
「了と謂うは了別、即ち是れ行相なり。識は了別を以て行相と為すが故に。」(『論』第二・二十五左)
了 - 知ること。理解すること。認識すること。了別の略称。了、詳しくいうと了別。これが阿頼耶識の働きであると云っています。これが行相である。「識の自体分が了別するを以て行相と為すが故に。行相と云うは見分なり。・・・(第一解)相と云うは体なり。謂く境の相を謂う。境の相を行ずるを以て行相と為す。」(『述記』第三本・三十右)
どうでしょうか。私たちは即座に認識を起こします。どうして即座に認識を起こすことができるのでしょうか。考えたこともありませんが、考えると不思議なことではありませんか。これは、阿頼耶識が働いているからなのですね。そして不思議なことは山は山。河は河。花は花と人類共通の認識が起るのですね。これを共相(グウソウ)といっていますが、これも不思議なことであります。この共相の中で、様々な認識が起ってきます。これが人人唯識なのです。私は私の阿頼耶識で物事を認識し、区別しているのですね。
阿頼耶識が外に投げ出された見分が、了別をする働きを持つわけですが、境相を行ずることが必然となるわけです。山とか河は所縁の相になるわけです。しかし、若し、所縁の相がなかったなら、能縁の見分は自の所縁の境を縁ずることができないであろうと。自体分は見・相二分を外界に投げ出しているのですね。見分だけでなく、相分も投げ出しているのです。見・相二分の所依が自体分(自証分)であるのですね。そしてですね、自体分(自証分)を証明するのが証自証分なのです。後に詳しく説かれます。
私たちの日常の認識では、外界に物が有って、認識を起こすと云う、外界と私という分別をベースとして認識し判断を下しているのですが、唯識は「ちょっと待って、本当にそうですか」と疑問を呈しているのです。それはですね、私達には自証分が不明瞭なんですね。不明瞭である為に、見るもの(能縁)も体であり、見られるもの(所縁)も体であるという実体化が起るのです。唯識は、能縁・所縁は所変であり、能変は自体分であると明らかにしたのです。能変が変異したもの、それが見・相二分である。自証分が体であり、見・相二分は相であるというのが、護法の見解になります。
阿頼耶識が、見られるものを縁じ、見るものを縁ずるという働きをもって、私たちの認識、いろんな区別が起っていると云うことなのですね。
『論』には、ここで処について論究されますが、「執受と及び処とは倶に所縁なり」と、執受というは、「諸の種子と有根身と処」は所縁であるという一段が後に設けられていますので、ここでは執受について考えたいと思います。
「執受に二有り。謂く諸の種子と及び有根身なり。」(『論』第二・二十五左)
執受というのに二つある。つまり、一つには種子である。もう一つは有根身である。
執受とは、五官と身体に依って維持されるものを執受する働きと、阿頼耶識の中の種子(現行を生ずる可能性)をも執受する働きがあるとされます。この場合の執受は執着をするという意味になります。執摂受といい、執着をし感覚が生ずるという。
「執と云うは、是れ摂の義(執摂)、持の義(執持)なり。受と云うは、是れ領の義、覚の義なり。摂して自体と為し、持て壊せざら令む。安危共同にして而も之を領受し、能く覚受を生ずれば名づけて執受と為す。領して境と為すなり。」(『述記』第二・二十五左)
(第八識は種子と有根身とを執摂して自体とし、執持して壊わさない、これを受領して境とする。そして、根をして能く識の覚受を生ぜしめるのである。)
• 摂 - 収めること。
• 領 - 受け止めること。
• 覚 - 知覚すること。認識すること。
• 領受 - 受けとめること。
• 覚受 - 身体が苦楽などを感じること。
すべてを受けとめて安危共同(アンギキグウドウ)である。覚受がないと死に体ということになり、覚受が有ることが、生きているという働きの一面になりますね。 阿頼耶識は、いつでも、いかなる時でも、どんな境遇であっても私と共に生きつづけている。「摂自体」これが自分であると摂して、安危を共同している種子と有根身と阿頼耶識が一体となって、私という、一人の人間が動いていく、どんな時でも一緒やで、というのが阿頼耶識なんですね。
楽な時、順境の時は問題なく過ごせるわけですが、苦悩という逆境の時は、意識は逃げたい逃げたいと思うわけです。しかし、阿頼耶識はすべてを引き受けているんですね。身はすべてを受け入れているということになりましょうか。為したことは種子として阿頼耶識は受け入れ、受け入れられ種子は現行として身は引き受けている。内に種子と有根身(有情世間)、外に器界(器世間)を変現して阿頼耶識は働いている。
内外といいますが、処と執受は所縁である。阿頼耶識は処と執受が所縁、即ち相分になりますね。
「種子は第八識の体に依ると雖も、而も此れ識の相分なり、」
「見分いい恒に此を取て境と為すが故に。」
これは十門分別の中の第五・四分分別門の中の言葉ですが、種子と有根身は、第八識の見分が(種子と有根身)を境とすると共に、種子と有根身は自己自身として執受しているのです。
種と有根身は「摂して自体と為して安と危とを同ずるが故に」と言われていますように、執受がありますが、処は外のものですか執受はありません。阿頼耶識の相分の中の内外の区別をいっているのです。
諸の種子とは何を指すのか。
「諸の種子とは、謂く諸の相と名と分別との習気なり。」(『論』第二・二十五左)
相・名・分別の習気、これが種子の内容であると説明しています。相は姿です、名は名前、つまり、相に名前がつけられる。それによって区別をしていく。その総体が種子であるということになります。
先ず、種子は有漏であるということです。
「即ち是れ一切の有漏の善等の諸法の種子なり。下に五法を解すが中に、此の三(相・名・分別)は唯だ有漏なり。」(『述記』)
種子生現行の種子の内容ですね。この種子は執受ですから有漏であるということです。無漏ば執受ではないわけです。有漏は有為法でる。刹那滅であるということですね。無漏は無為法ですから常法である。転変しないもの。転変しないものは種子とはならない。
この後、四分義が説かれてきます。そして、有根身と種子を執受するといわれて、処と区別されるのは内外の区別なんですね。阿頼耶識の所縁を内外に分けて説かれてまいります。所縁を外境と内境に区別する中で、種子を「諸の種子とは、謂く異熟識所持の一切有漏法の種なり。此の識の性に摂めらるるが故に是て所縁なり。」(『選註』p43)
私たちは、相ですから対象化したものと、対象化したものの名と、そこに自分の分別が一つとなって、阿頼耶識の中に蓄積していく、それが諸の種子であるという。
今までは、種子の定義と、種子になり得る要素として六義が説かれていましたが、さらに踏み込んだ形で、種子の内容について論じられているのです。阿頼耶識は所縁を対象として了別していく働きを持つと言われています。
「無始の時より来た虚妄熏習の内因力の故に」、因は善悪。すべての有漏の善悪を種子として、果である現行を引き出してくるのです。この時の果は無記であるとされます。そして、種子は「本識の中にして親しく自果を生ずる功能差別なり」と定義されていました。
種子として現行を引き出してくる、というのが大事な所です。種子生現行、種子が現行を生ずる(七転識)刹那に現行熏種子、現行が種子として熏習される。転識は種子として所縁となるということです。即ち、阿頼耶識の相分(所縁)は阿頼耶識の所変である。識の所変を所縁としている。先ほど、所縁を外境と内境に区別すると述べましたが、外といいましても、識の所変であって外境ではありません。従って、諸々の相(姿)と名(名前)と分別(区別)が種子の内容となるのです。問題は分別ですね。何に依って分別を起こすのか。ここが虚妄と云われている所でしょう。分別の習気ということで「遍計所執自性妄執習気」と、種子はこれを所依としている。それを阿頼耶識の中に蓄積していく働きを持つものが種子である、と。相・名は私たちの生きる環境によって違ってくるものでしょうが、そこを基点として分別心を起こします。貴方と私の世界観が違うというようにですね。私は私の目線で物を見る、相手は相手の目線で物を見る、そこには当然意識の相違が起ってきます。それを妄執と押さえたのでしょう。迷いの構造がどうして成り立ってくるのかということを種子に見たのですね。
「有根身とは、謂く諸の色根と及び根依処となり。」(『論』第二・二十六右)
有根身とは、簡単にいいますと、身体のことです。感覚器官を有する身体ということになります。この身体は、色根と根依処から成り立つのであると説かれ、有根身は阿頼耶識から作り出され、阿頼耶識が認識しつづけている対象(所縁)の一つであると説いています。
何度も繰り返しますが、阿頼耶識の対象(所縁)は処と執受である。種子と有根身とをまとめて執受というわけです。
色根は、身体を構成する五つの感覚器官(眼根・耳根・鼻根・舌根・身根)で、色とは物質、根は依処で、感官のことです。根を有する身というので、有根身と呼ばれているのですね。
色根(勝義根)
有根身 〈 〉 肉体とその機能との関係
根依処(肉体)
例えば、ものを見ると云う時には、何が依処になっているのかということです。依り処が有って初めて見るという機能が備わっているのです。その依り処を根の依処、眼根の依処は眼球ですね。眼球自体が根依処である。ですから、色根を勝義根としますと、根依処は扶塵根(ブジンコン)、即ち、扶ける塵としての根。
勝義根
根 〈
扶塵根(勝義根を支えるもの)
有根身とは阿頼耶識から作り出され、阿頼耶識によって維持され、生き続ける限りこの肉体は腐敗することなく存続されるのであると見出してきたのです。この身体と阿頼耶識の関係を安危共同(アンギグウドウ)と呼ばれています。種子と阿頼耶識の関係も同じですね。種子・有根身と阿頼耶識が一体となって。私と云う、一人の人間が動いていく。いつでも、どんなときでも、阿頼耶識は包み込んでいるということなのですね。
私たちは、自分の都合のいい時は「ありがとう」。都合の悪い時は「こん畜生」と、敵に早変わりですね。供養でもですね、自分がうまく行っている時は「ご先祖様のお蔭です」といえますが、うまくいかなくなった時には「祟りや」といって罵ります。だからですね、先祖供養といっても、自分の都合だけしか考えていないんです。「供養するからおとなしくしておいて」と。御先祖さまはどうでもいいんです、自分の都合だけです。こんな自分の在り方なんですが、阿頼耶識はすべて包み込んで、いいとか、悪いとかという区別はしないのですね。
私たちの考えの及ばないところですが、深い意識の領域では、すべてを受け入れている働きが働いているのですね。ありのままの自分が阿頼耶識として見出されてきたのでしょう。私たちの眼差しは、阿頼耶識に光を当てなければならないと思います。そうしないと、私の都合で相手をぶった切っていきますね。それも自己正当性をもってですね。
先日もお話を伺う中で、いじめの問題を話されました。親は「何故自殺をしたのか。何故悩みをうち明けてくれなかったんだ」と、そして矛先は「お前は何故いじめたんだ、いじめたおまえが悪い」と。ここからこころの変遷を経て、「心の悩みを打ち明けることの出来ない環境を私が作っていた、それがいじめられるという方向になってしまった。もしかすると、いじめた子も私が作りだしたのかもしれない。被害者も加害者も作りだしたのは私の傲慢が原因だった。」 いじめた加害者も本当は被害者であったと慚愧心をいただかれて心が解放されたと、お話し下さいましたが、自己正当性の持つ闇は深いですね。その深い闇の底で阿頼耶識がすべてを受け入れている、自他分別することなくですね。今、このお父さんは加害者であった子と共に、いじめをなくそうという学習会を立ち上げて、共にいじめと向き合って、いじめから子供を救うという運動をされているとお聞きしました。
「即ち本識(阿頼耶識)は彼の五根と扶塵根との色根を縁じつくすことを顕している。身とは、身の中に根を持っているので有根身と名づけられている。根は五根に通じ、これは自身の者であって他身の五境を縁するものではない。依処とは諸々の扶塵根である。しかし五の処があると説かれてはいるが、聲をもってするのではない。『対法』の第五に「(聲は)執受に非ず」と説かれているからである。扶塵根は色・香・味・触の四つの塵(視覚・嗅覚・味覚・触覚)から構成されるのである。」(『述記』取意)
前後しますが、識と根の関係ですが、識は心であり、根は色(物質)ですから、根は物質から構成されるのです。
「眼根乃至身根を五根と名づく。眼識乃至身識の所依の根なり」(『二巻鈔』)
( 執受の意味を釈す。)
「此の二は皆な是れ識に執受せらる。摂して自体と為す。安危を同うするが故に。」(『論』第二・二十六右)
「執受の義とは、安危を同ずる等なり。」(『述記』第三本・三十七右)
此の二(種子・有根身)は阿頼耶識に維持され、「摂して自体と為し」これを自体として、阿頼耶識と安危を同じくする。種子・有根身と阿頼耶識が一体となって、一人の人間が動いていく、それは安心である時も、安心でない時も、どんな時でも一緒に動いていく。私の思いを超えて、私と共に歩んでいく働きを安危共同といわれているのですが、これは如来の働きですね。私の根底にあって、私を支え、私と運命共同体として共に動いて下さっている南無阿弥陀仏の働きでしょうね。我執の嵐が吹きすさぶ殺伐とした状態であっても、南無阿弥陀仏として私を見捨てない、どこまでもどこまでも、私を信じ、私の目覚めを待つ働きがお念仏、南無阿弥陀仏なのでしょう。私が右往左往している時にも念仏は生きている、ということではないでしょうか。そんなことが「摂して自体と為して、安危共同」というお言葉のなかから伺うことができるようです。
そうするとですね、私の立場からですと、いつでも、いかなる時でも、念仏に逆らって生きている、傲慢ですね。生きていけると思いあがっている。この「安危共同」は、私の立場を教えてくれているようです。私の立場からですと、安という、幸せは好き、危という不幸せは嫌いやと分け隔てしています。これが分別の妄想なんでしょうね。
阿頼耶識は私と共に、不幸な時も、幸福な時も分け隔てなく、種子と有根身、あらゆる経験と身体をもって一つとなって働いていく。現行とはこういう意味をもっているののですね。過去から今までのすべての経験と身体を包み込んで阿頼耶識は働いていく、これを執受という言葉で表しているのです。
「執受と及び処とは是れ所縁なり」
執受と及び処が所縁になります。処がまた出てきましたが、以前に処とは「処所、即ち器世間。是れ諸の有情の所依処なるが故に」と説明されていました。処は器世間である、ものの世界ですね。これが諸の有情の所依処である。処は外側の世界ですが、処という場所が私の所依処であるわけですね。依って立って生き得る場所であって、外界に存在するものというわけにはいかないように思いますね。所依処と共に生きている。そういう場所ですね、仏教では依報といいます。一人の有情は正報でといいます。ここが、「自体転じて二分に似る」というところの、自体分が転じて見分・相分に似て現ずるところの相分である、と。私の心が転じて国土を作りだしている。世界が有って私が存在するのではなく、一人一人の世界を作りださして生きている、一人一人別の世界を持っているとことになりましょう。これが器世間です。依報といわれています。器世間は外側の対象であり、執受は内側の対象であるのです。執受と処は阿頼耶識の所縁であることを明らかにしたのです。そして、
「阿頼耶識は因と縁との力の故に、自体の生ずる時に内には種と及び有根身とを変為し、外には器を変為す。」(『論』第二・二十六左) 阿頼耶識の所縁について詳しく述べられています。自体分が転じて見分と相分に似て生ずるという中の相分ですね。相分が内と外に変為して現ずることを明らかにしているのです。内は種子と有根身であり、外は器世間である、種子と有根身及び器世間を変為している。ここで「変為」ということなのですが、
変は変化するということですね。何が変化するのかといいますと、阿頼耶識ですね。種子という分別の習気から、現行識としての阿頼耶識と七転識が生ずるという構図です。これは因能変になります。そしてですね。生じた八識にはそれぞれ見分と相分とに変化し、見分が相分を認識する、即ち縁ずる。阿頼耶識の所縁についていえば、識体が変じた見分が相分であるところの種子と有根身そして器世間を認識するわけです。第七末那識は第八識を縁じ、六識はそれぞれ、眼耳鼻舌身意は色声香味触法を認識することをいっているわけですが、これを果能変として言い表されています。
「変に二あり。一には生変。即ち転変の義なり。・・・変というは謂く因と果と名言親しく生じ業種異に熟する差別なり。等流と異熟との二因の習気を因能変と名づく。所生の八識が種々の相を現ずるのは是れ果能変なり。・・・二には縁ずるを変と名づく。即ち変現の義なり。是れ果能変なり。且く第八識が唯だ種子と及び有根身の塔を変じ、眼等の転識が色等を変ずる是れなり。・・・」(『述記』第三本・三十七左)
すべては、識転変である。阿頼耶識が生ずということは、因と縁の力が相互に働いて能蔵された種子が現行するという、これは待衆縁で学びましたが、直接の因と、間接的な助縁との間に因と縁が結びついた時に現行として生起してくるわけですね。それ以外の種子生種子として阿頼耶識の中に所蔵されます。善因善果とし、悪因悪果として一類相続していくわけです。直接の因、これは自分ですね。阿頼耶識です。これが因であり、助縁という間接的な力のよって現れてくる。さまざまな縁ですね。それがないとあらわれることが出来ません。現に行じられていることは衆縁が働いている証しでもあるわけですね。ですから、現行するということが変為ということになります。種子生現行ですね。いつも言うことですが、私は私の心を見て生活をしている、自分のこころが外に投げ出されたものを所縁として自分が見ているのですね。識所変を以て識所縁としている。非常に大事なところだと思います。この辺は非常に厳密ですね。迂闊に社会問題に顔を突っ込むわけにはまいりませんね。外界にそんな問題はないといっているのですからね。識の所現は識の所変である、と。いたたまれない現実に遭遇することは、自分の心の深さを見つめているのだと思います。「はずべし、いたむべし」ここでいいますと、「所変を以て所縁と為す」ということになりますね。
「即ち所変を以て自の所縁と為す。行相は之を杖して而も起ることを得るが故に。」(『論』第二・二十六右)
ここまでが大体の概略が述べられていまして、次科段から詳しく述べられます。器世間は所縁の外側のことを示し、外境として実体的に存在するものでは無く、どこまでも自の内識が転変したものであることを明確にしています。このことを『述記』は「本識の行相は必ず境(所縁)に杖して生ず。此は唯だ所変なり。心外の法に非ず。本識は必ず実法を縁じて生ずるが故に。若し相分無くんば見分生ぜず。即ち本頌に境を先にし、行を後にするの所以を解すなり。杖と云うは謂く杖託なり。此の意総じて見は相に託して生ずることを顕す。」と釈しています。
自体が転じたものを縁とし、そこに行相が働きかけて、執受と器世間そして行相の三つがものが混在して、私は私の世界を構築していることを教えられます。
次科段より広説が述べられます。初めに行相を解釈し、後に所縁が解釈されます。そして初めの行相について、三つに分けて説明されます。一には、護法菩薩が行相である「了」を釈してこれが正義であることを述べ、二に、四分を明らかにし、後に総結が述べられます
「今日の問題は、私たちのものを見る見方、ものを考える考え方、そういうものは一つではないということを明らかにしてきます。一人一人が全く別々のものを見、全く別々のことを考え、全く別々の行動を起こしている。共相・不共相という所が今日の課題になります。先ず、概略を示します。
従来、種子の六義と、所熏・能熏の四義の講究がおわりました。次に阿頼耶識の所縁と行相についての講究がなされます。
八段十義でいいますと、八段の第二・所縁行相門となり、十義でいいますと、第四と第五の所縁門・行相門になります。
行相 - 識の自体が所対の境を縁ずる能縁(認識するもの)の作用を云う。心の働きです。
所縁 - 対象、何を対象として働いているのかです。阿頼耶識は何を対象としているのかが説き明かされます。
(所縁門)
「不可知の執受と処と」 - 阿頼耶識の所縁を表わしている。但し、「不可知」は次の「了」という行相門にもかかる。
(行相門)
「了とは謂く了別なり、即ち是れ行相なり。識は了別を以て行相と為すが故に。」(『成唯識論』第二・二十五左)
了別について四分が語られる。阿頼耶の「了」は、四分説によることにおいて明瞭にされます。
行相・所縁を解す。(一) 略解
「此識行相所縁云何。謂不可知執受處了。了謂了別。即是行相。識以了別爲行相故處謂處所。即器世間。是諸有情所依處故。執受有二。謂諸種子及有根身。諸種子者謂諸相名分別習氣。有根身者謂諸色根及根依處。此二皆是識所執受。攝爲自體同安危故。執受及處倶是所縁。阿頼耶識因縁力故自體生時。内變爲種及有根身。外變爲器。即以所變爲自所縁。行相仗之而得起故。」(『成唯識論』巻第二・二十五左。大正31・10a11~a20)
(「この識の行相と所縁云何。謂く不可知の執受と處と了となり。了と云うは了別。即ち是れ行相なり。識は了別を以て行相と為すが故に。處と云うは謂く處所。即ち器世間なり。是れ諸の有情の根依處なるが故に。執受に二有り。謂く諸の種子と及び有根身となり。諸の種子とは、謂く諸の相と名と分別の習気なり。有根身とは、謂く諸の色根と及び根依處となり。此の二は皆是れ識に執受せられ摂して自体と為して安・危を同ずるが故に。執受と及び處とは倶に是れ所縁なり。阿頼耶識は、因と縁との力の故に自体の生ずる時に、内に種と及び有根身とを変為し外に器を変為す。即ち所変を以て自の所縁と為す。行相は之に杖て起こることを得るが故に。」)
この識の行相と所縁はどのようなものか?深い人間の深層心理的一部の働きと、この識が何を対象にして動いているのかという所縁です。それはどういうものか、という問いが出されているのです。
十門分別の中、第四・第五の行相・所縁分別である。「不可知」は、 所縁に約し、行相に約して、不可知を明らかにし、「不可知」は本頌を挙げて答える。「不可知執受處了」(不可知の執受と了となり)という形です。
無意識の領域は、私たちには解らないものである。有るのか・無いのか、それが不可知という概念である。知ることが出来ない、知り様がないことであるが、他の識と同様に了別(ものごとを区別して理解すること)の働きをもって能縁・所縁がある。了別は行相である。「識は了別を以て行相と為す。」 これは識の自体分である。行相とはまた、見分である。「識体転じて二分に似る」という形で働いている。識体は自体分ですね。自体分が転じて見・相二分に開かれるのですが、具体的は働きは見・相二分になるのです。
能縁が了別です。これを行相という言葉で言い表しています。では所縁は何かといいますと、認識対象のことですが、「種・根・器」という。諸の種子と、有根身と器世間、これが所縁である、と。
第八識は、内に種子と有根身(五色根と根依處)を変じ、外には器世間を変じます。器世間が有情の所依處になるわけですね。
種子と有根身は「摂為自体同安危故」(摂して自体と為す。安と危とを同ずるが故に)と言われていますように、執受が有ります。「執受に二有り。謂く諸の種子と及び有根身なり」。器世間には執受はありません、外のものですから執受はなく、處といわれています。
種子と有根身は、第八識の見分がこれを境と為すと共に、自己自身として執受しています。厳密には「阿頼耶識は種子を執持(種子を保持する働き)し、有根身を執受(維持されるもの)する」と説かれています。これが第八識の相分になります。私のものであるというふうに、第八識自身が、つまり阿頼耶識の中に、ものを執着していく、或は保持する働きをもって命を維持している。それによっていろんな経験をしていくのですね。有根身は合聚の義と言われていますように、いろんなものが合わさって体が出来ています。それによって痛かったり、痒かったりですね、そういうことが起ってくる。これが内側の問題ですね。
それともう一つ、外側には器世間ですね。外界の一切、「是諸有情所依處故」(是れ諸の有情の所依處なるが故に)。これは所縁であり、識の相分であるということですね。
「内変」・「外変」の「変」ですが、識所変の変ですね。自体分から二分が出てくる。この二分に依って、我・法を施設する。「由仮説我法」(仮に由って我法と説く)の我・法です。此れに離れて相分・見分はないわけです。ここが自体分・相分・見分の三分説になります。もう少しいきますと四分説が説かれます。そこと関係があるのですね。識所変を以て、自の所縁と為すということになります。相分も見分も識が変じたもの、識体が能変、二分が所変という構図です。所変の見分が能縁になり、相分が所縁になるわけですね。
「変」につきましては、もう一つ「内識転じて外境に似る」という二分説があります。識体が見分であり、能変ですね、境が所変になります。見分が能縁・相分が所縁になります。これが二分説です。二分説・三分説、それに護法菩薩は証自証分を加えて四分説を立てました。この四分説が大事な教説になってくるわけですが、この後にでてまいります。
「一切の諸法に心有り、境有り。行相は是れ識の見分なるが故に、先ず行相を明かす。心に由って境を変ずるを以て、次に所縁を説く。」(『述記』)
本頌は、所縁から述べられていますが、釈する時は、認識の主体から明らかにする、これが本意であるというわけです。
(行相)
「了と謂うは了別、即ち是れ行相なり。識は了別を以て行相と為すが故に。」(『論』第二・二十五左)
了 - 知ること。理解すること。認識すること。了別の略称。了、詳しくいうと了別。これが阿頼耶識の働きであると云っています。これが行相である。「識の自体分が了別するを以て行相と為すが故に。行相と云うは見分なり。・・・(第一解)相と云うは体なり。謂く境の相を謂う。境の相を行ずるを以て行相と為す。」(『述記』第三本・三十右)
どうでしょうか。私たちは即座に認識を起こします。どうして即座に認識を起こすことができるのでしょうか。考えたこともありませんが、考えると不思議なことではありませんか。これは、阿頼耶識が働いているからなのですね。そして不思議なことは山は山。河は河。花は花と人類共通の認識が起るのですね。これを共相(グウソウ)といっていますが、これも不思議なことであります。この共相の中で、様々な認識が起ってきます。これが人人唯識なのです。私は私の阿頼耶識で物事を認識し、区別しているのですね。
阿頼耶識が外に投げ出された見分が、了別をする働きを持つわけですが、境相を行ずることが必然となるわけです。山とか河は所縁の相になるわけです。しかし、若し、所縁の相がなかったなら、能縁の見分は自の所縁の境を縁ずることができないであろうと。自体分は見・相二分を外界に投げ出しているのですね。見分だけでなく、相分も投げ出しているのです。見・相二分の所依が自体分(自証分)であるのですね。そしてですね、自体分(自証分)を証明するのが証自証分なのです。後に詳しく説かれます。
私たちの日常の認識では、外界に物が有って、認識を起こすと云う、外界と私という分別をベースとして認識し判断を下しているのですが、唯識は「ちょっと待って、本当にそうですか」と疑問を呈しているのです。それはですね、私達には自証分が不明瞭なんですね。不明瞭である為に、見るもの(能縁)も体であり、見られるもの(所縁)も体であるという実体化が起るのです。唯識は、能縁・所縁は所変であり、能変は自体分であると明らかにしたのです。能変が変異したもの、それが見・相二分である。自証分が体であり、見・相二分は相であるというのが、護法の見解になります。
阿頼耶識が、見られるものを縁じ、見るものを縁ずるという働きをもって、私たちの認識、いろんな区別が起っていると云うことなのですね。
『論』には、ここで処について論究されますが、「執受と及び処とは倶に所縁なり」と、執受というは、「諸の種子と有根身と処」は所縁であるという一段が後に設けられていますので、ここでは執受について考えたいと思います。
「執受に二有り。謂く諸の種子と及び有根身なり。」(『論』第二・二十五左)
執受というのに二つある。つまり、一つには種子である。もう一つは有根身である。
執受とは、五官と身体に依って維持されるものを執受する働きと、阿頼耶識の中の種子(現行を生ずる可能性)をも執受する働きがあるとされます。この場合の執受は執着をするという意味になります。執摂受といい、執着をし感覚が生ずるという。
「執と云うは、是れ摂の義(執摂)、持の義(執持)なり。受と云うは、是れ領の義、覚の義なり。摂して自体と為し、持て壊せざら令む。安危共同にして而も之を領受し、能く覚受を生ずれば名づけて執受と為す。領して境と為すなり。」(『述記』第二・二十五左)
(第八識は種子と有根身とを執摂して自体とし、執持して壊わさない、これを受領して境とする。そして、根をして能く識の覚受を生ぜしめるのである。)
• 摂 - 収めること。
• 領 - 受け止めること。
• 覚 - 知覚すること。認識すること。
• 領受 - 受けとめること。
• 覚受 - 身体が苦楽などを感じること。
すべてを受けとめて安危共同(アンギキグウドウ)である。覚受がないと死に体ということになり、覚受が有ることが、生きているという働きの一面になりますね。 阿頼耶識は、いつでも、いかなる時でも、どんな境遇であっても私と共に生きつづけている。「摂自体」これが自分であると摂して、安危を共同している種子と有根身と阿頼耶識が一体となって、私という、一人の人間が動いていく、どんな時でも一緒やで、というのが阿頼耶識なんですね。
楽な時、順境の時は問題なく過ごせるわけですが、苦悩という逆境の時は、意識は逃げたい逃げたいと思うわけです。しかし、阿頼耶識はすべてを引き受けているんですね。身はすべてを受け入れているということになりましょうか。為したことは種子として阿頼耶識は受け入れ、受け入れられ種子は現行として身は引き受けている。内に種子と有根身(有情世間)、外に器界(器世間)を変現して阿頼耶識は働いている。
内外といいますが、処と執受は所縁である。阿頼耶識は処と執受が所縁、即ち相分になりますね。
「種子は第八識の体に依ると雖も、而も此れ識の相分なり、」
「見分いい恒に此を取て境と為すが故に。」
これは十門分別の中の第五・四分分別門の中の言葉ですが、種子と有根身は、第八識の見分が(種子と有根身)を境とすると共に、種子と有根身は自己自身として執受しているのです。
種と有根身は「摂して自体と為して安と危とを同ずるが故に」と言われていますように、執受がありますが、処は外のものですか執受はありません。阿頼耶識の相分の中の内外の区別をいっているのです。
諸の種子とは何を指すのか。
「諸の種子とは、謂く諸の相と名と分別との習気なり。」(『論』第二・二十五左)
相・名・分別の習気、これが種子の内容であると説明しています。相は姿です、名は名前、つまり、相に名前がつけられる。それによって区別をしていく。その総体が種子であるということになります。
先ず、種子は有漏であるということです。
「即ち是れ一切の有漏の善等の諸法の種子なり。下に五法を解すが中に、此の三(相・名・分別)は唯だ有漏なり。」(『述記』)
種子生現行の種子の内容ですね。この種子は執受ですから有漏であるということです。無漏ば執受ではないわけです。有漏は有為法でる。刹那滅であるということですね。無漏は無為法ですから常法である。転変しないもの。転変しないものは種子とはならない。
この後、四分義が説かれてきます。そして、有根身と種子を執受するといわれて、処と区別されるのは内外の区別なんですね。阿頼耶識の所縁を内外に分けて説かれてまいります。所縁を外境と内境に区別する中で、種子を「諸の種子とは、謂く異熟識所持の一切有漏法の種なり。此の識の性に摂めらるるが故に是て所縁なり。」(『選註』p43)
私たちは、相ですから対象化したものと、対象化したものの名と、そこに自分の分別が一つとなって、阿頼耶識の中に蓄積していく、それが諸の種子であるという。
今までは、種子の定義と、種子になり得る要素として六義が説かれていましたが、さらに踏み込んだ形で、種子の内容について論じられているのです。阿頼耶識は所縁を対象として了別していく働きを持つと言われています。
「無始の時より来た虚妄熏習の内因力の故に」、因は善悪。すべての有漏の善悪を種子として、果である現行を引き出してくるのです。この時の果は無記であるとされます。そして、種子は「本識の中にして親しく自果を生ずる功能差別なり」と定義されていました。
種子として現行を引き出してくる、というのが大事な所です。種子生現行、種子が現行を生ずる(七転識)刹那に現行熏種子、現行が種子として熏習される。転識は種子として所縁となるということです。即ち、阿頼耶識の相分(所縁)は阿頼耶識の所変である。識の所変を所縁としている。先ほど、所縁を外境と内境に区別すると述べましたが、外といいましても、識の所変であって外境ではありません。従って、諸々の相(姿)と名(名前)と分別(区別)が種子の内容となるのです。問題は分別ですね。何に依って分別を起こすのか。ここが虚妄と云われている所でしょう。分別の習気ということで「遍計所執自性妄執習気」と、種子はこれを所依としている。それを阿頼耶識の中に蓄積していく働きを持つものが種子である、と。相・名は私たちの生きる環境によって違ってくるものでしょうが、そこを基点として分別心を起こします。貴方と私の世界観が違うというようにですね。私は私の目線で物を見る、相手は相手の目線で物を見る、そこには当然意識の相違が起ってきます。それを妄執と押さえたのでしょう。迷いの構造がどうして成り立ってくるのかということを種子に見たのですね。
「有根身とは、謂く諸の色根と及び根依処となり。」(『論』第二・二十六右)
有根身とは、簡単にいいますと、身体のことです。感覚器官を有する身体ということになります。この身体は、色根と根依処から成り立つのであると説かれ、有根身は阿頼耶識から作り出され、阿頼耶識が認識しつづけている対象(所縁)の一つであると説いています。
何度も繰り返しますが、阿頼耶識の対象(所縁)は処と執受である。種子と有根身とをまとめて執受というわけです。
色根は、身体を構成する五つの感覚器官(眼根・耳根・鼻根・舌根・身根)で、色とは物質、根は依処で、感官のことです。根を有する身というので、有根身と呼ばれているのですね。
色根(勝義根)
有根身 〈 〉 肉体とその機能との関係
根依処(肉体)
例えば、ものを見ると云う時には、何が依処になっているのかということです。依り処が有って初めて見るという機能が備わっているのです。その依り処を根の依処、眼根の依処は眼球ですね。眼球自体が根依処である。ですから、色根を勝義根としますと、根依処は扶塵根(ブジンコン)、即ち、扶ける塵としての根。
勝義根
根 〈
扶塵根(勝義根を支えるもの)
有根身とは阿頼耶識から作り出され、阿頼耶識によって維持され、生き続ける限りこの肉体は腐敗することなく存続されるのであると見出してきたのです。この身体と阿頼耶識の関係を安危共同(アンギグウドウ)と呼ばれています。種子と阿頼耶識の関係も同じですね。種子・有根身と阿頼耶識が一体となって。私と云う、一人の人間が動いていく。いつでも、どんなときでも、阿頼耶識は包み込んでいるということなのですね。
私たちは、自分の都合のいい時は「ありがとう」。都合の悪い時は「こん畜生」と、敵に早変わりですね。供養でもですね、自分がうまく行っている時は「ご先祖様のお蔭です」といえますが、うまくいかなくなった時には「祟りや」といって罵ります。だからですね、先祖供養といっても、自分の都合だけしか考えていないんです。「供養するからおとなしくしておいて」と。御先祖さまはどうでもいいんです、自分の都合だけです。こんな自分の在り方なんですが、阿頼耶識はすべて包み込んで、いいとか、悪いとかという区別はしないのですね。
私たちの考えの及ばないところですが、深い意識の領域では、すべてを受け入れている働きが働いているのですね。ありのままの自分が阿頼耶識として見出されてきたのでしょう。私たちの眼差しは、阿頼耶識に光を当てなければならないと思います。そうしないと、私の都合で相手をぶった切っていきますね。それも自己正当性をもってですね。
先日もお話を伺う中で、いじめの問題を話されました。親は「何故自殺をしたのか。何故悩みをうち明けてくれなかったんだ」と、そして矛先は「お前は何故いじめたんだ、いじめたおまえが悪い」と。ここからこころの変遷を経て、「心の悩みを打ち明けることの出来ない環境を私が作っていた、それがいじめられるという方向になってしまった。もしかすると、いじめた子も私が作りだしたのかもしれない。被害者も加害者も作りだしたのは私の傲慢が原因だった。」 いじめた加害者も本当は被害者であったと慚愧心をいただかれて心が解放されたと、お話し下さいましたが、自己正当性の持つ闇は深いですね。その深い闇の底で阿頼耶識がすべてを受け入れている、自他分別することなくですね。今、このお父さんは加害者であった子と共に、いじめをなくそうという学習会を立ち上げて、共にいじめと向き合って、いじめから子供を救うという運動をされているとお聞きしました。
「即ち本識(阿頼耶識)は彼の五根と扶塵根との色根を縁じつくすことを顕している。身とは、身の中に根を持っているので有根身と名づけられている。根は五根に通じ、これは自身の者であって他身の五境を縁するものではない。依処とは諸々の扶塵根である。しかし五の処があると説かれてはいるが、聲をもってするのではない。『対法』の第五に「(聲は)執受に非ず」と説かれているからである。扶塵根は色・香・味・触の四つの塵(視覚・嗅覚・味覚・触覚)から構成されるのである。」(『述記』取意)
前後しますが、識と根の関係ですが、識は心であり、根は色(物質)ですから、根は物質から構成されるのです。
「眼根乃至身根を五根と名づく。眼識乃至身識の所依の根なり」(『二巻鈔』)
( 執受の意味を釈す。)
「此の二は皆な是れ識に執受せらる。摂して自体と為す。安危を同うするが故に。」(『論』第二・二十六右)
「執受の義とは、安危を同ずる等なり。」(『述記』第三本・三十七右)
此の二(種子・有根身)は阿頼耶識に維持され、「摂して自体と為し」これを自体として、阿頼耶識と安危を同じくする。種子・有根身と阿頼耶識が一体となって、一人の人間が動いていく、それは安心である時も、安心でない時も、どんな時でも一緒に動いていく。私の思いを超えて、私と共に歩んでいく働きを安危共同といわれているのですが、これは如来の働きですね。私の根底にあって、私を支え、私と運命共同体として共に動いて下さっている南無阿弥陀仏の働きでしょうね。我執の嵐が吹きすさぶ殺伐とした状態であっても、南無阿弥陀仏として私を見捨てない、どこまでもどこまでも、私を信じ、私の目覚めを待つ働きがお念仏、南無阿弥陀仏なのでしょう。私が右往左往している時にも念仏は生きている、ということではないでしょうか。そんなことが「摂して自体と為して、安危共同」というお言葉のなかから伺うことができるようです。
そうするとですね、私の立場からですと、いつでも、いかなる時でも、念仏に逆らって生きている、傲慢ですね。生きていけると思いあがっている。この「安危共同」は、私の立場を教えてくれているようです。私の立場からですと、安という、幸せは好き、危という不幸せは嫌いやと分け隔てしています。これが分別の妄想なんでしょうね。
阿頼耶識は私と共に、不幸な時も、幸福な時も分け隔てなく、種子と有根身、あらゆる経験と身体をもって一つとなって働いていく。現行とはこういう意味をもっているののですね。過去から今までのすべての経験と身体を包み込んで阿頼耶識は働いていく、これを執受という言葉で表しているのです。
「執受と及び処とは是れ所縁なり」
執受と及び処が所縁になります。処がまた出てきましたが、以前に処とは「処所、即ち器世間。是れ諸の有情の所依処なるが故に」と説明されていました。処は器世間である、ものの世界ですね。これが諸の有情の所依処である。処は外側の世界ですが、処という場所が私の所依処であるわけですね。依って立って生き得る場所であって、外界に存在するものというわけにはいかないように思いますね。所依処と共に生きている。そういう場所ですね、仏教では依報といいます。一人の有情は正報でといいます。ここが、「自体転じて二分に似る」というところの、自体分が転じて見分・相分に似て現ずるところの相分である、と。私の心が転じて国土を作りだしている。世界が有って私が存在するのではなく、一人一人の世界を作りださして生きている、一人一人別の世界を持っているとことになりましょう。これが器世間です。依報といわれています。器世間は外側の対象であり、執受は内側の対象であるのです。執受と処は阿頼耶識の所縁であることを明らかにしたのです。そして、
「阿頼耶識は因と縁との力の故に、自体の生ずる時に内には種と及び有根身とを変為し、外には器を変為す。」(『論』第二・二十六左) 阿頼耶識の所縁について詳しく述べられています。自体分が転じて見分と相分に似て生ずるという中の相分ですね。相分が内と外に変為して現ずることを明らかにしているのです。内は種子と有根身であり、外は器世間である、種子と有根身及び器世間を変為している。ここで「変為」ということなのですが、
変は変化するということですね。何が変化するのかといいますと、阿頼耶識ですね。種子という分別の習気から、現行識としての阿頼耶識と七転識が生ずるという構図です。これは因能変になります。そしてですね。生じた八識にはそれぞれ見分と相分とに変化し、見分が相分を認識する、即ち縁ずる。阿頼耶識の所縁についていえば、識体が変じた見分が相分であるところの種子と有根身そして器世間を認識するわけです。第七末那識は第八識を縁じ、六識はそれぞれ、眼耳鼻舌身意は色声香味触法を認識することをいっているわけですが、これを果能変として言い表されています。
「変に二あり。一には生変。即ち転変の義なり。・・・変というは謂く因と果と名言親しく生じ業種異に熟する差別なり。等流と異熟との二因の習気を因能変と名づく。所生の八識が種々の相を現ずるのは是れ果能変なり。・・・二には縁ずるを変と名づく。即ち変現の義なり。是れ果能変なり。且く第八識が唯だ種子と及び有根身の塔を変じ、眼等の転識が色等を変ずる是れなり。・・・」(『述記』第三本・三十七左)
すべては、識転変である。阿頼耶識が生ずということは、因と縁の力が相互に働いて能蔵された種子が現行するという、これは待衆縁で学びましたが、直接の因と、間接的な助縁との間に因と縁が結びついた時に現行として生起してくるわけですね。それ以外の種子生種子として阿頼耶識の中に所蔵されます。善因善果とし、悪因悪果として一類相続していくわけです。直接の因、これは自分ですね。阿頼耶識です。これが因であり、助縁という間接的な力のよって現れてくる。さまざまな縁ですね。それがないとあらわれることが出来ません。現に行じられていることは衆縁が働いている証しでもあるわけですね。ですから、現行するということが変為ということになります。種子生現行ですね。いつも言うことですが、私は私の心を見て生活をしている、自分のこころが外に投げ出されたものを所縁として自分が見ているのですね。識所変を以て識所縁としている。非常に大事なところだと思います。この辺は非常に厳密ですね。迂闊に社会問題に顔を突っ込むわけにはまいりませんね。外界にそんな問題はないといっているのですからね。識の所現は識の所変である、と。いたたまれない現実に遭遇することは、自分の心の深さを見つめているのだと思います。「はずべし、いたむべし」ここでいいますと、「所変を以て所縁と為す」ということになりますね。
「即ち所変を以て自の所縁と為す。行相は之を杖して而も起ることを得るが故に。」(『論』第二・二十六右)
ここまでが大体の概略が述べられていまして、次科段から詳しく述べられます。器世間は所縁の外側のことを示し、外境として実体的に存在するものでは無く、どこまでも自の内識が転変したものであることを明確にしています。このことを『述記』は「本識の行相は必ず境(所縁)に杖して生ず。此は唯だ所変なり。心外の法に非ず。本識は必ず実法を縁じて生ずるが故に。若し相分無くんば見分生ぜず。即ち本頌に境を先にし、行を後にするの所以を解すなり。杖と云うは謂く杖託なり。此の意総じて見は相に託して生ずることを顕す。」と釈しています。
自体が転じたものを縁とし、そこに行相が働きかけて、執受と器世間そして行相の三つがものが混在して、私は私の世界を構築していることを教えられます。
次科段より広説が述べられます。初めに行相を解釈し、後に所縁が解釈されます。そして初めの行相について、三つに分けて説明されます。一には、護法菩薩が行相である「了」を釈してこれが正義であることを述べ、二に、四分を明らかにし、後に総結が述べられます