「故に器世間の壊せんとする時にも初に成ずる時も有情無しと雖も、而も亦現に有り。」(『論』第二・三十左)
故に、器世間が壊する時、又は初に成ずる時、壊劫の時には、この世界が段々に壊れてやがて有情が存在しなくなる。また、成劫の時にも、この世界が未だ成立していないわけですから、この欲界には有情が存在しない。けれども他方世界の欲界に有情が存在するならば、その有情が器世間を変為することができるのである、と。
ここに問いが出されます。
若しそうであるならば、
「若し爾らば、人は水と見、鬼は火と見るが如き、その火の外器をば人何が故に見ざるものを而も共変と名づくるや。」(『述記』)
餓鬼が火と見るものを人は火と見ないのは何故なのか? この問いに答えて次科段は開かれます。
「此れは一切の共受用の者を説く。若し別受用ならば此れに准じて応に知るべし。鬼・人・天等の所見異なるが故に。」(『論』第二・三十左)
これは、一切の共受用(共通に享受するもの)について、即ち共中の共のものについて答えているのである。若し、別の受用ならば、人・天・餓鬼・畜生の所見は異なるのである。一水四見の喩と同様の摂理を以て答えています。人間は人間の阿頼耶識を以て器世間を変為し、畜生は畜生の阿頼耶識を以て器世間を変為しているのですね。共中の不共である。
ここで処についての所論は終わります。次科段からは、広く執受についての所論が展開されます。初に種子について、後に有根身について述べられます。
故に、器世間が壊する時、又は初に成ずる時、壊劫の時には、この世界が段々に壊れてやがて有情が存在しなくなる。また、成劫の時にも、この世界が未だ成立していないわけですから、この欲界には有情が存在しない。けれども他方世界の欲界に有情が存在するならば、その有情が器世間を変為することができるのである、と。
ここに問いが出されます。
若しそうであるならば、
「若し爾らば、人は水と見、鬼は火と見るが如き、その火の外器をば人何が故に見ざるものを而も共変と名づくるや。」(『述記』)
餓鬼が火と見るものを人は火と見ないのは何故なのか? この問いに答えて次科段は開かれます。
「此れは一切の共受用の者を説く。若し別受用ならば此れに准じて応に知るべし。鬼・人・天等の所見異なるが故に。」(『論』第二・三十左)
これは、一切の共受用(共通に享受するもの)について、即ち共中の共のものについて答えているのである。若し、別の受用ならば、人・天・餓鬼・畜生の所見は異なるのである。一水四見の喩と同様の摂理を以て答えています。人間は人間の阿頼耶識を以て器世間を変為し、畜生は畜生の阿頼耶識を以て器世間を変為しているのですね。共中の不共である。
ここで処についての所論は終わります。次科段からは、広く執受についての所論が展開されます。初に種子について、後に有根身について述べられます。
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